痛みと独白

ぱちん、ぱちん、

 ぱちん、…ぱちんっ。


「……っしできた」

 コトリとはさみをベンチに置き、正宗は小さな達成に喜びをこぼした。

 あんがい覚えてるもんだな。

 懐かしさに頬を緩ませながら、左手に持ったストローを眺める。白地に細い赤のストライプが入ったそれは、二センチ弱の切れ込みが、均等な間隔で四本入れられていた。切り込み部分をひらき、十字に広げようとはさみから右手を浮かせたところで、ふと正宗の手が止まる。

「うー…ん、ぅうーん…」

 ひと一人分の間隔を挟んだベンチの右隣で、少女がなにやらウンウンうめいていた。横にチラリと目をやると、少女は真剣な表情ではさみを構えている。はさみを入れるあいだストローが動かないよう、親指の腹をあてて軸を固定する握り方は、歯ブラシを持つときの手と形が似ていた。だが、肩への力の入りようは、比ぶるべくもない。全身から張り詰めた空気を漂わせている少女は眉間に皺を寄せ、ああでもないこうでもないと角度を変えながら悪戦苦闘していた。

「…─────、」

「なにもいわないで」

「」

 カラン、と氷の揺れる音がした。

 ふたりのあいだには、氷水こおりみずで満たされた手桶が置かれている。洗面器ほどの大きさの木の桶は、たゆたう水面みなもの光を底に写しこんでいた。

 その桶のふちに寄りかかるようにして、正宗たちが買った瓶ジュースも入れられている。無造作に突っ込まれた瓶の表面には、の光を受けた水滴がキラキラと輝いていた。

 正宗はベンチの背もたれに背中をあずけ、手持ち無沙汰に少女の姿を眺めた。


 …パチン。


 乾いた裁断音が響いた。少女がふーと息をく。はさみを一回入れることすら難儀しているようだった。

「なんか意外だな」

 ポツリと漏らした正宗の言葉に、少女が目を上げた。もの問いたげな視線を投げられた正宗は、背もたれにあずけていた体を起こす。

 どう説明したものかと言葉を探しかけ、正宗は少女の様子をうかがった。少女は正宗が続きを話しはじめるのを待っているようだった。

「あー…、別に根拠はないんだけど、こういうの好きそうだし慣れてるんだろうなあ、と思ってたというか」

 明確に言葉としてふるい落とすと、とたんに居心地が悪くなった。少女が想定する距離感の内側に、不用意に踏み込んでしまったような感覚が胸に広がる。

 少女の反応は、正宗の直感を裏付けているようだった。ふっと表情を曇らせ、虹彩こうさいを左右に揺らしながら、顔を下へと俯けていく。地面をぼんやりと見つめ何度かゆっくりとまばたきをする横顔は、何かを考え込んでいる様子だった。正宗は慌てて言葉を続けた。

「や、ほんと他意とかは無くて。ただたんにそーかなー、くらいの軽い気持ちで言っただけというか」

 少女の沈黙は続く。

 正宗はいたたまれなくなり、もそもそとベンチで座る体勢を変えた。

 左足だけ胡座あぐらをかき、ももを肘おきにして首すじを撫でる。右に向き直った正宗が、猫背に少女を見上げる格好になった。

「あー…」

 正宗が別の話題に切り替えようと探りだしたときだった。

「うん、好きでよくやってた」

 ただひとこと、ポツンと。

 どこか心ここに在らずといった表情で、少女が答えた。

「そうなんだ」

 少女の返答に正宗がホッと取りついたのも束の間。少女はパチパチと瞬きをして


「…でも、誰だっけ」と呟いた。


 ほとんど独り言のように、少女の唇からすべり落ちた疑問。少女の瞳は、ここではない遠くを見つめていた。

「…だれ?」

 正宗が少女に訊き返すと、彼女はコクリとうなずき、

「うん、いつも─────…」

 と言いかけてハッと口をつぐんだ。

「うん?」

 続きを促す正宗に、少女の視線が注がれた。正宗を見る少女のまなざしは、注意深く観察するような気配を漂わせていた。

 しばらくの間をはさんだのち、少女は小さな声で言った。

「……笑わない?」

 真剣味を帯びた、それでいて心細げな問いだった。正宗は無意識のうちに居住いずまいをただしていた。

「…はい」

 律儀な返事に、少女はおどろきとも安堵ともつかない表情を浮かべた。不安げに引き結んでいた唇をゆるめ、訥々とつとつと話しはじめる。

「…私ね。こういう細かいことすごく苦手で、」

 うつむく少女の頬がほのかな赤に染まっていた。彼女の声色には、隠していた秘密を吐露してしまったとでもいうような恥じらいがある。正宗は無言で耳を傾けていた。

「やろーって言いだすまではいいんだけど、いざやるとなると失敗するのは目に見えてるでしょ?」

 いや、と口に出しかけ、先ほどまでの少女の姿を思いだした。お世辞にも器用とは言いがたかった。正宗の無言を、少女は肯定と受け取ったようだった。

「だから…こういうときは前もって準備を済ませとくか、練習してたんだ」

「え、」

 思いがけない話の流れに、正宗が声を漏らした。

 少女も「え?」と聞き返す。

 ふたりのあいだに、奇妙な沈黙の幕が下りた。互いに相手の出方をうかがい、息をひそめあっている。

 訪れた静寂にきまりの悪さを覚えたのは正宗だった。話の腰を折ってしまった手前、そのまま黙っているのは気が引ける。正宗は慎重に言葉を選びつつ、少女に話を切り出した。

「いや…、俺はてっきり、一緒にいる誰かに手伝ってもらってたのかと思って」

 少女はゆっくりとかぶりを振った。

「それが嫌だから、準備してたの」

 嫌、という単語がやけに質感をもって正宗の耳に残った。

「…不器用なのを揶揄からかわれた?」

「ううん」

「ぅん…?」

 話の流れが読めなかった。率直そっちょくに首を捻ると、少女は上目遣いでじっと正宗の顔を見た。その瞳は、正宗の中のなにかを見定めるような色をしていた。

 少女の虹彩こうさいがかすかに揺れた。

「…その逆」

「逆」

 オウム返しに打った相槌に、少女は無言で頷いた。

「一緒に遊んでたは、手先が器用だったから…―――いつも私より先に準備が終わってて。…でも、せっかく作った自分の分を私に渡して、『交換しよ。先に遊んでて』って言うの」

 どうやら一緒に遊んでいた子どもに、気を回す子がいたらしい。少女の声は、ごくわずかに震えていた。何かの感情を押し殺しているようだった。

 世話を焼こうとした本人は気分が良かったのかもしれないが、逆の立場の人間が同じ意向を持つとは限らない。有難迷惑な老婆心と受け取られても不思議ではなかった。お節介な「その子」に抱いた感情は、落胆だったのか、怒りだったのか。真意を測りかねた正宗は、少女から顔を逸らして「そっか」とだけ返した。

 顔を向けた先では、アリが地面に黒い行列をなしていた。獲物を咥えて誇らしげに歩くアリの後ろを、所在なさげにうろつくアリが何故か目にとまった。

 ふっと空気が揺れた。少女が言葉を続けていた。

「私の手には、その子が作った綺麗なおもちゃがあって。……その子の手には、途中まで私が作ってたせいでガタガタになっちゃってるおもちゃがあって。ありがとうもごめんねも言えなかったのに、私、わたしに、いつも『だいじょぶだよ』って、」


 ――――…わらってたの、その子。

 最後のほうは、ほとんど絞り出すような声になっていた。

 ぽつぽつと、訥々とつとつと。

 降り出した雨が地面に描く、不揃いな水玉のように。

 要領を得ない不規則な間隔で少女がこぼした言葉。


 それはおそらく、彼女にとっての痛切な独白だったのだろう。


 正宗はゆっくり息をいた。ささやかで、それでいて切羽詰まった彼女の独白に足るだけの返答が、頭に思い浮かばなかった。

 身も蓋もない話をするなら、少女は変に傷つく必要などないのだ。自己満足のために世話を焼いているであろう「その子」に、負い目を感じる必要もない。傲慢にも近いその厚意を、利用してしまえばいいのだ。だがそれは、正宗が「その子」の側に近い立場にいるからこそ言えることで。

 理屈ではぎょしようもない、感受性に由来する痛みがあることを、正宗も知っていた。

 おそらく少女は、誰かの厚意に甘んじて胡座をかくことに強い痛みを覚える気質なのだろう。甘え下手、ともでは言うが。正宗は何を言うべきか考えを巡らせたあと、

「……辛かった?」

 とだけ尋ねた。

「…情けなかった」

「そっか」

 肯定も否定もかえせず、正宗は少女の言葉をただ受けとめるだけに留めた。

 それにね、と少女が言った。

「その出来事ははっきり覚えてるのに、その子の名前も顔も、なにも思い出せないの」

 悪事を白状しているかのような罪悪感が、はっきりと声に滲んでいた。さきほど少女がぼんやりと呟き、その後を言い淀んだ「誰だっけ」は、ここにかかっていたらしい。痛みを伴う、記憶の欠如だった。

「…そっか」


 その痛みは、きっと俺もよく知っている。

 …誰だっけ。

 は、

 ……誰だっけ。


 なぜか身に覚えのある感触を不思議に思いながら、正宗は頭の中で、少女とおなじ問いを繰り返していた。

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