8・声が聞こえる

 曲が流れている。


 伸びやかで響のある曲が雑踏の中でかすかな音を奏でている。


 騒めきの中でビルのモニターには一人の若い女性が歌を奏でている姿が写し出されていた。オレンジのような茶色くて長い髪の自分と変わらないか少し上ぐらいの女性が、躍りながら歌っている。


どこかで聞き覚えのある歌だとはわかるのだが、いつ聞いたのかはわからない。


いやそもそも、なぜ自分がそんなところにいるのだろうか。


樹里は思考回路がうまくつながらないまま、呆然とモニターを見つめる。


「あれ? 私、どうしてこんなところにいるの?」


樹里はハッと我に返ると、周囲を見回した。


そこはスクランブル交差点の中央あたり。

次々と人が樹里のそばを通りすぎていくのが見てる。だれもが呆然と佇む少女に見向きもしない。


なぜ、自分がこんなところにいるのかと樹里は記憶を探る。

 

 確か、さっきまで学校の部室にいたはずだ。そこでくだらない話をしながら、ラジオから流れる曲を聞いていた。


 聞きなれない歌声だった。


 最近話題になってきている歌手らしい。


 そこでようやく理解した。


そうだ。彼女だ。


松澤愛桜まつざわあお”という歌姫がモニターごしに歌っているのだ。


 響く声


 彼女が歌う。


 行きかう人の中には足を止めて、聞き入る姿も見受けられた。


 どうしてここにいるのだろうか。


 どうして歌を聞いているのだろうか。


 やがて歌が終わり、コマーシャルが流れてくる。


 例の化粧品のコマーシャル。


 出てくる女優さんは、歌姫とは違う人。


 樹里も知っている有名な女優さん。


「私……どうしたのかしら?」


 わからない。


 何度思い出そうとしても部室で友人たちと会話していたことは覚えているがそのあとが思い出せない。


 完全に記憶が途切れている。


「どうしてここに?」


 何度も来ている交差点。ビルもモニターも見慣れた景色。


「意識が戻っちゃたな」


 樹里はその声で振り返る。


 人込みの中。佇むのは黒いフードをかぶった人物。


 全身が黒いマントのようなもので包まれた二人の子供がそこにいた。


「仕方ないか。彼女の歌が聞こえるからね」


 なにを言っているの?


 あなたたちはだれ?


 フードを深くかばっているために顔はまったく見えない。


 マントの裾から見える腕は青白く皺が寄っている。


 それだけみると老人のようにも思えるのだが、声は幼い。


「でも、彼女には止める力はない」


 一人が言う。



 だれだろうか。


 彼らが樹里を見ている。


 時間が止まる。雑踏の音も打ち消されて、樹里と彼らの世界のみが広がっている感覚。


 誰だろう。



 そう考えると同時に背筋が凍る。

 まるで蛇ににらまれたような恐怖がよぎる。


 逃げないと


 樹里は咄嗟に思った。


 その瞬間走り出そうとした。けれど、動けない。


 なにかにからめとられたようで身動きがとれない。


「彼らは高みの見物?」


「邪魔する気はないようだね」

 

「それなら邪魔するのは彼だね」


「もうそろそろ追いかけてくるかな」


「追いかけてくるよ」


「そうでないと困る。あれはとっても大切なんだ」


 なにをいっている?


 なにが大切なのだろうか。


二人はそんな樹里の不安をよそに会話を続ける。


「騒ぎを起こす?」


「ああ。でも警察もきちゃうね」


 逃げないと……。


 いますぐににげないといけない。


 そう思うのに足がまったく動かない。


 人の姿が消えていく。モニターに映し出されていた歌も聞こえなくなっていく。


 暗闇だ。


 周りが暗闇に包まれていく。


 逃がすまいと彼女の身体になにかが絡みつく。


 身体が凍る。


 底知れない恐怖だけが彼女を支配する。


「警察? 彼か……。彼にはなにもできない」


「それにあのお兄さんには興味ない。僕らは彼と遊びたいもん」


「そう彼と遊びたい」


樹里にはその会話の内容はまったく理解できるようなものではない。


“お兄さん”というのは警察関係者なのかもしれないと検討はつくが、“彼”が誰を指すのかまったくわからない。


いや、わかるはずがない。


樹里は“彼”を知らない。


“彼”が一度校舎内で樹里とぶつかった人物であることも、暴走した樹里をとめてくれた人物であることを知るよしもなかった。


 なにを言っているかわからない。


けれど、この子供たちに底知れぬ恐怖を感じてならない。




 助けて


 助けて


 だれか


今すぐに逃げ出したい。


―─ だめよ


 けれど、それを拒む声が樹里の中で木霊し、たちまち金縛りにあったかのように自分の体が動かなくなる。耳元ではささやくような少女の声。 

 

 まだ幼い少女の声が聞こえてくる。


―─ダメ。やっと手に入れた


 なにを言っているの?


―─ふふふ。会いに行くの


 なにを?


―─ようやく会いに行けるのよ


 わからない。なにをいっているかわからない。


―─そして、ずっと彼の元にいるの


 わわからない


―その前に邪魔ものには消えてもらう


 消える?


 誰を


―─消えてね。あなたも……


 その直後、彼女の意識が遠のいていく。


 声が出ない。


 身体から心が離れていく。


 溶けていく。


 絡まってぃく。


 すべてをとらえて、すべてを奪っていく。


 いやだと抵抗する。


 でも、無駄だった。



 助けて


 だれか


 助けて


 手を伸ばした暗闇を掴むのみ


 その手さえも砂となって消えていく。


──それで頂戴ね。あなたの身体を


 少女が砂となりゆく魂を抱きしめる。


 消えていく。



 少女の腕の中で……


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