人造人間一八五二号の矜持
胤田一成
人造人間一八五二号の矜持
きっかけは些細なことであった。
本間京子はその美貌もさることながら、人一倍、奔放な性格をした女であった。彼女の周りには必ず男の影があったといってもいい。しかし、京子の生来の気質のためか、彼女を取り巻いてやまない男どもはたいてい、碌でもない者ばかりが集っていたのも事実である。
京子は若くして結婚することを密かに決意していた。花の命はあまりにも儚い。単純明快な、いっときの感情に身を委ねながら生きてきた京子にもそれは重々、理解していたつもりであった。だが、彼女の新郎となった男は、堺省吾といい、美青年ではあったもののこれもまた、先に述べたように碌でもない男の一人であったことはいうまでもあるまい。
ある晩、京子と省吾は口論をした。きっかけはいまだに曖昧模糊としていて判然としないが、省吾がキッチンにある刃物を振り上げ、危うく刃傷沙汰にまで発展するほどまでの勢いを見せたのは確かである。京子は怯えながらも警察へと駆け込み、その結果、省吾は速やかに屈強な警察官の下に屈することとなった。
京子がこれほどまでに明確に人生に頓挫したのはこれが初めてであった。淡い期待を寄せていた順風満帆とした新婚生活が音を立てて崩れ果てていくのを、京子ははっきりと自覚した。
「ああ、これからどうしたら良いのかしら」
京子の煩悶は積もる一方であった。しかし、悩みの種も、そう長くは続くことはなかった。
街に夜の帳が降りようとする黄昏時。家事を知らない京子の薄汚れたマンションの一室に、あるビジネスマン風の男が訪れた。京子の知らない類の洗練された、黒いビジネススーツをぴたりと身に纏った紳士である。京子はこれまでの生涯で、すっかり身に沁みついた媚態を自然と振りまきながら、ビジネスマン風の男を玄関で迎えた。
「あら、こんな時間に何か用かしら。押し売りなら御免よ」
京子はころころと鈴を鳴らすような笑い声を上げた。この洗練されたビジネスマン風の男を少しばかりからかったつもりであった。しかし、男は京子の悪戯にも、媚態にも目もくれず、四角四面にスーツの内ポケットから一枚の小さな紙を取りだすと、京子に礼儀正しく手渡してこう言った。小さな紙は名刺であった。
「夜分遅くに申し訳ございません。私はメメント社から参りました者でございます。実はこの度はあなた様の身に大変、不幸な出来事が起こったと聞き及び、訪問させていただいた次第でございます」
確かに不幸な出来事ではあった。しかし、どこでそれを耳にしたのだろうか―。京子は興味に駆られて男から手渡された名刺を受け取ると、小さな紙面に刻まれた文字を読み上げた。
「あら、メメント社の営業の方。聞かない名前の会社ね。それで何を扱っているのかしら」「ええ、私どもは滅多にお宅をご訪問しない主義でして。本当の不幸に見舞われたお宅を専門にご訪問させていただいております。弊社で扱っている商品は大変、珍しい物でございます。しかし、その商品をご覧になったのなら、きっとご満足をしていただけると自負しております」
京子は確かに不幸に見舞われていた。いまだ若い夫は傷害未遂と公務執行妨害の罪で刑務所送り、貯蓄していた金もそろそろ底を尽きようとしている。何より、それまで蝶よ花よと可愛がられてきた人生が今度の事件で一辺倒してしまったのは痛手であった。周囲を彷徨っていた男たちも、今やどこかへと身を潜めてしまったという事実は京子にとってかなりの衝撃であった。そのくせ省吾という重荷は、京子の下を完全には消え去ってはいなかったのは皮肉である。いずれ、刑期を終えたらもとに戻って来るであろう美青年は京子の首がしらに、その両腕を巻き付けるようにして、しっかりと掴まっていた。省吾が帰ってくるまでの間、京子は謂わば、宙ぶらりんなまま、花の二十代を静かに暮らす他なかったのである。京子はこれまでに世間体を気にしたことなど皆無といってもよかった。彼女の行く道が世間であり、これまで他人の視線に晒されて居た堪れなくなるようなことなどなかったのである。それが、今度の事件によって覆された。京子はことさら言葉にしなくとも、以前に比べて、肩身の狭い思いをすることになっていた。
「どこで聞きつけたかは知らないけれど、私は確かに不幸に見舞われている最中だわ。それで何を勧めるつもりなのかしら。話だけでも聞いてあげるわ」
京子はこのいかにも仕事一筋といったような風貌の男の言葉に、密かに心揺さぶられずにはいられなかった。それほどまでに京子は今度の事件には辟易していた。京子は内心を覚られぬように努めながら、余裕を装っては男の言う商品の詳細を聞き出そうとした。すると男は京子の前に身を乗り出すようにして、囁くようにしてこう述べた。
「はい。実は私どもが取り扱っている商品とは人間そっくりの人造人間なのでございます。弊社は最先端の技術の粋を凝らした技術により、まことに人間そっくりの人造人間を開発することに成功いたしました。そこで、ご不幸に見舞われてしまったお宅を訪問させていただいては、お客様の好みに合った容貌と性能を施した人造人間をご提供させていただいている次第でございます」
京子は耳を疑わずにはいられなかった。最先端の人間そっくりの人造人間。もし、それが本当なら、僥倖である。京子は男なしには生きていけない人間であった。それは省吾が起こした事件とその後、彼女を取り囲む男たちがすっかり身を引いてしまった事からも、つくづく思い知らされていた。玄関の内側、京子の背中に控えている荒廃した部屋がなによりもそれを如実に物語っている。京子には自身に奉仕してくれる男が是非とも必要であった。
「それは願ってもいないことだわ。私好みの私だけの人造人間。それが実在するのならどれだけ嬉しいことか。でもお高いんでしょう。残念ながら、私にはそれを買えるだけの予算を持ち合わせていないのよ」
「いいえ。実はこれはまだ試験的に弊社が行っている事業でございまして、お金はほんの少しばかりで構いません。それに弊社の人造人間は職をこなせるだけの性能も兼ね備えています。そこから月々、何割かのお金を振り込んでいただければ結構でございます。どうでしょうか、この度は誠に残念な事件に見舞われてしまいましたご様子で。弊社からの心ばかりの奉仕活動として是非ともご購入いただけたら幸いです」
京子は散々迷った末に、とうとう男の言われるがままに、書類にサインをすることを決心した。いずれにせよ、京子に残されているものは、そう多くはないのである。確かに怪しげな商品の取引ではあったが、京子には今にでも奉仕してくれる存在が必要不可欠であった。彼女はあまりにも奔放で、それと同時に美しくひ弱な女性でもあった。京子には是が非でも加護が必要であった。たとえそれが得体のしれない機械仕掛けの人間だとしても。
京子は男から手渡された分厚い商品のカタログを紐解きながらも、一晩じっくりと悩みあぐねた末にある人造人間を選んだ。それは堺省吾にそっくりの顔立ちをしていた。性格に難が残るとはいえ、彼女は省吾を愛していた。今更、何となしに他の男を選ぶことは京子にはできなかった。
省吾は京子に依存していたが、京子もまた省吾なしには生きていける気がしなかったのも確かである。新婚当初から諍いの絶えない夫婦ではあったが、二人は複雑に歪曲しながらも奇妙なパートナー同士であったともいえた。それはちょうど、組み撚り合わされた一本の麻縄のようなものであった。ささくれ立ってはいるが、強靭なことこの上ない。触れ合おうものなら激しい摩擦が生じるかのように、二人のいがみ合いは日常茶飯事ではあったが、省吾が刃物を振り上げ、警察官に挑みかかったその日まで、全ては不思議とうまい具合に矛が収まっていたのである。時には省吾が折れ、時には京子が折れるといった具合に、二人は妥協し合いながらも奇妙に寄り添い合っていたのも不思議な事実であった。
京子が厚いカタログの中から省吾と生き写しの人造人間を見出してから三日ほど経ったころに待望の商品は送られてきた。巨大な段ボールの中にクッションとともに詰められて、胎児のように丸まっている人造人間は確かに人間そっくりの出来栄えであった。
京子は恐る恐るといった様子で人造人間を覆うビニール袋を破り捨て、付属してきた説明書を捲りながら、最先端技術の込められた人工物を立ち上がらせた。人造人間は静かに瞼を開けて目を覚ますと京子に向き合い、流暢に話し始めた。京子が注文した通りの省吾に似せられた声音であった。
「おはようございます。私はメメント社から参りました人造人間一五八二号、通称・モリと申します。ご注文に間違いはございませんでしょうか。今日からあなた様の下で働かせていただきます。今後ともメメント社のご利用をどうぞ、よろしくお願いいたします」
省吾を生き写したような人工物に京子は驚きを隠せなかった。かつて愛した人が、かつてないほどの優しい声で語り掛けてくれている。京子は嬉しさのあまり、今、目を覚ましたばかりの人工物にキスをした。すると、省吾の写し身はごく自然な動作で京子の髪を梳きながら、優しく抱きしめた。京子は感激して、モリと名乗る人造人間の逞しい腕に身を委ねるのであった。
モリは驚くほどに京子に従順であり、よく働き、そしてよく稼いだ。メメント社に送ることになっている料金も良心的な価格に思えるほどに、モリは昼夜を問わずに働いた。モリは人造人間である。元来、疲れというものを知らなかった。
だが、初めこそ感激していた事柄も、時間経る毎に熱を失っていくこともある。京子は段々とモリの唯々諾々とした様を、折に触れてあまり好ましく思わなくなるようになっていった。京子はモリに省吾と同じようにあって欲しかったのである。愚痴を垂れたり、肩を揉むように強要してきたり、酒を飲んでは自分に絡んで欲しいとも考えた。かつての省吾がそうであったように。
一度、京子は酒に酔ってモリに屈辱的なポーズをとるように命令したことがある。すると、モリは顔色ひとつ変えずにそれを実行して見せた。京子はあの特徴的なころころと鈴を鳴らすような笑い声を上げながら、モリを指さし嘲笑した。しかし、翌日になり、酒の酔いも醒めるころになると、モリの度を越した従順さに嫌気がさすのを感じずにはいられなかった。京子はリビングルームを丹念に掃除しているモリに向かって噛み付くようにしていった。
「あなたは犬よりも素直で従順なのね。これなら人間に牙を剥く野良犬の方がまだ可愛げがあるわ」
「私は弊社から主人の仰ることには全て応えるようにプログラミングされております。昨晩はだいぶんお酒を召し上がっていたようでございますから、あのようなことを仰ったのでしょう。体調はよろしいでしょうか。私は少々、心配でございます」
モリはどこまでも従順であった。それもそのはずである。京子とモリはあくまで主従の関係であり、恋人や夫婦といった関係とは天と地ほどの差があった。京子はメメント社にもっと人間そっくりにできた人造人間を送るように考えを巡らせたことすらあった。モリは優秀な人造人間ではあるが、京子の求めていたものを備えているようにはどうしても思えなかったのである。しかし、モリの労働がなければ、メメント社に送る手筈になっている料金を支払える気がしなかった。モリという奉仕者の傍らで京子は知らぬ間に堕落していた。京子は省吾とそっくりな奉仕者を見る度に、何とも形容しがたい感情の坩堝に陥っていくのであった。
ある晩のことである。京子はモリを連れて最近になって通い詰めになったバーへと足を運んだ。京子は自身の美しさを充分に自覚していた。彼女はモリにバーの隅に控えているように言いつけると、自分はカウンターの高椅子に腰掛けた。長い脚を組み、肌理の細かい白い太腿をあらわにしてカクテルを注文する。モリは主人に仕える従者のようにその姿を静かに見守っていた。京子の白い陶磁のような頬がほのかに赤く上気するころ、一人の見知らぬ青年が京子の席の横に腰掛け、猫でも撫でるかの口調で京子を口説き始めた。
「お姉さん、美人だね。良ければ名前を教えてくれないかな。そうしたら一杯奢るよ。なあ、俺は寂しんだよ。今夜は特に寂しいんだ。なあ、仲良くしてくれよ」
青年は慣れない酒にずいぶんと酔っているらしく、聞き飽きたような甘ったるい言葉を次々と京子に囁き始めた。京子はまたか、と思った。
自由気ままな在り方を愛する女である京子はこういった経験は、もちろん何度も体験していた。省吾という恋人と出逢う以前には、自分が注目を浴びているという気分に酔いしれたこともあったが、それもさして良いものではないと気が付くようになっていった。
京子が男に求めていたものは自身の美しい容貌への崇敬であり、廉価な女として見られることには一際、敏感に反応した。京子は確かに奔放な気質をしていたが、誰にでも靡くような放埓な女ではなかった。それを踏まえると、殊に酔って自制心を落として忘れたような若い男ほど面倒なものはないように感じられた。
それにこのところは、モリという愚鈍なまでの奉仕者との共同生活が京子の心をして、あれほど渇望していた男という存在の必要性を全く感じさせないほどに麻痺させていた。京子は青年と目も合わせずに静かにカクテルグラスをカウンターに置くと、くさくさした気分で言い放った。
「おあいにくさま、あんたに教えてやるような名前はないわ。相当に酔っているようね。悪いことを言わないからそこのレストルームで顔でも洗ってきなさいな。私はそんなに安っぽい女じゃないわ」
京子が自身の放った言葉を省みて後悔するより早く、青年は激昂しながら席から立ち上がった。この後、どのような事が起こるかも京子は幾度かの経験を通して、身をもって知っていた。罵声か暴力。京子は思わず身を強張らせた。青年の掌がひゅうと空を切った。しかし、その掌が京子の白桃のような頬を打つことはなかった。モリがその逞しい両腕で男を羽交い絞めにしたからであった。
「お怪我はございませんか」
逞しい腕の中で青年はじたばたと足掻いていたが、モリは素知らぬ顔で京子に語り掛けた。京子は呆然としてモリを見上げた。モリの精悍な顔立ちが省吾のそれと、ぴたりと一致したような気がした。京子は酔いに縺れながら席を立つと、モリに言い聞かせるように命令した。
「もう大丈夫よ。その男を放してやって頂戴」
モリは静かに頷くと、青年から腕を放した。青年は何か喚きながら千鳥足でバーから逃げていった。モリは京子のやや乱れた衣服を正すと、身体を支えながら、抱えるようにしてバーを出た。京子はモリに支えられながら、この人工物の顔を見上げると省吾のことを改めて思い出さずにはいられなかった。
バーでのささやかな事件の後、京子はモリを省吾に似せることに努め始めた。省吾の着ていた衣服を纏わせ、言葉遣いの一つひとつまで教育し始めたのである。
モリは主人のいうことには驚くほど忠実であった。記憶媒体が優れているおかげもあるのであろう。モリは京子の教えを貪欲に記録していった。相変わらず、働き者ではあったが、三ケ月と経たないうちにモリは省吾の面影を思わせるようになっていった。京子はモリが確実に記憶の中の省吾に近づいていくのを満足して眺めていた。
なぜ、もっと早くに思いつかなかったのであろう、と京子は自身を訝しんだ。そして、それはおそらく、モリが人工物としてあまりにも緻密で精巧に人に模して造られているためらしいと、京子は朧気にだが納得した。モリは人よりも人らしく造られていたのである。京子は試みに化粧道具を駆使して、モリの無機質でどこか機械的なものを思わせる端正な顔に皺や陰、引きつりをわざと描いてみせた。するとモリは幾分か、あの不調和という中に存在する人間的表情を取り戻したようであり、ますます、省吾の面影をにおわせるようになっていった。
京子はようやく溜飲が下がったという様子で一人、満足して頷いた。一歩、また一歩と、モリは人造人間から本物の人間へと昇華しつつあった。京子もまた、一教育者としてその過程を楽しみ、或いは悩みながらも悦びを感じていた。人間そっくりなものをさらに手を加えることで人間そのものにしていくことが可能なら、と京子は考えた。京子は恋人を追いかけながら、母のようにモリを慈しみ始めていることに気がつき、ときには、はっと我に返るのであった。奇妙な過程を踏んではきたが、ここに至って、京子はようやくモリに愛情を覚えるようになっていた。
「おい、燃料が切れそうだ。そこのタンクから燃料を補給してくれ」
「はいはい、分かりましたよ。これでいいのかしら。それにしても省吾に段々と近づいてきわね。その口調なんてそっくりだわ」
「あ、何かお気になるようなことがございましたか…」
「いいえ、嬉しいのよ。今、燃料をあげるから待っててね」
「はいーいや。うん。ありがとう」
万事が京子の思うがままに進行していたはずであった。
奔放な気質をした女である京子がここまで、目的に向かって努めることは初めてといってもよかった。しかし、懸命に努めていたはずの幸福な夫婦劇にも終わりがやって来た。
モリが訴えられたのである。
訴えた主はあの晩、慣れない酒に酔いながら京子に絡んできた青年であった。
青年はモリに羽交い絞めにあったとき、肩を脱臼していた。明らかな正当防衛であっても、メメント社がこれを許さなかった。モニタリングの最中に事故を起こした人造人間を見逃すわけにはいかなかったのである。メメント社は青年に賠償金を支払い、示談にすることで双方が矛を収める結果となった。しかし、人造人間の処罰に対しては冷徹なものであった。
京子の必死な懇願も空しく、モリは京子の下から取り上げられることとなった。廃棄処分。通知を受け取った京子は愕然としてしまった。数日後にいつかのビジネスマンが本間京子の宅を訪問してきた。京子はいま一度、思いとどまってくれるように頼み込んだ。
「ねえ、お願いだからモリを私から取り上げないで頂戴」
「残念ながら、私にはその権限がございません。全て上司からの命令なのです。あなた様がどれだけこの人造人間をお気に召されたのかは分かりませんが、この人造人間一八五二号は欠陥品として処分される運命なのです。我がメメント社はご存知の通り、秘密を条件に取引を行なっています。人造人間の販売が明るみに出てはならないのです。それはまだ人類には早すぎる技術の売買なのです。ご理解ください」
「なんだ、そんな奴にもたれかかって。浮気性な女だ。俺という人を忘れちまおうとしているのか、薄情な女め。そんなにそいつが良いというならとっととこの部屋を出て行ってしまえ。ただし、俺が稼いでお前にやった金は全て置いて行けよ。俺はそこまでお人好しじゃあねえんだ」
「ああ、これはだいぶん故障が進んでいると見える。主人に向かってあのような口を訊くとは何事か。本間様、これは明らかな欠陥品でございます。つきましてはこのような欠陥品をご提供してしまった不手際をお許しいただけたら幸いです。勿論、これまでの御料金は全て返還させていただきます。それに加えて賠償金もお納めいただけたらと弊社の考えているところでございまして」
「違う、違うのよ。これは私が施したことなの。モリは本当に良い人造人間なのよ。本当よ、信じて頂戴。魔が差しただけなの。私がこういう風に話すように、考えるように弄っただけなのよ。信じて頂戴。モリ、そんな話し方をしては駄目よ。今はやめて頂戴。お願いだから」
しばらくの押し問答が続いたが結局、モリはこのビジネスマンに連れて行かれてしまった。京子のもとには差し当たり、モリが労働に従事して稼いだ大金が置かれていた。賠償金に関しては後日、通知を送るという旨を告げて、ビジネスマンはモリに手錠のような装置を付け、風のように去って行った。人目を憚らねばならないのだろう。全ては迅速かつ的確に行われた。京子は一人、孤独に部屋に佇むばかりであった。
モリが連行されてからまた数日を経たころ、京子のもとに一通の通知書が届いた。そこには彼女が今までに見たことのないような数字が書き込まれた金額を支払うという旨を伝える書類とともに、人造人間一八五二号、通称・モリの処分時日を確かに告げる文書が入れられていた。京子は通知書を握りしめるとメメント社に最後の懇願をするために赴くことを決心した。
メメント社は京子が想像していたよりもはるかに小さな会社であった。一体、どのような営業方法であのような莫大な資金を調達しているのかが不思議でならなかったが、そこには深い社会の闇が垣間見れるようで京子はそら恐ろしくなり、考える巡らせることを止めた。
京子は奔放な女であると同時にごくごく単純な思考の持ち主でもあった。モリの故障を否定できれば、また、元の通りの楽しく愉快な生活を取り戻せると固く信じて止まなかった。京子が通知書をメメント社の受付嬢に叩きつけるようにして差し出すと、直ぐに対応がなされた。モリを連行していったビジネスマンとともに一人の老紳士が後ろに着いて現れた。老紳士が京子に恭しく名刺を差し出すと、会社の重役であることが分かった。
「今日はモリを返して貰いに来たのよ」
京子は勇んでそう述べた。しかし、二人の紳士は神妙な顔つきをしたまま、彼女を押しとどめた。
「残念ながら、人造人間一八五二号は欠陥品であることが判明しました。これはあなた様がそのように言い聞かせたからという理由ではございません。そもそも、弊社の人造人間はそう簡単にプログラミングを改竄できるようには設計されていないのです。これは先天的に開発過程でのミスがあったと断言せざるを得ません。それに加えて、人造人間一八五二号は人間に怪我を負わせてしまいました。弊社のプログラミングではいかなる場合においても、絶対に人に危害を加えないように設計されています。この二つの事実を顧みましても、人造人間一八五二号は欠陥品であることを認めざるを得ません。あなた様は自身の責任で人造人間一八五二号が処分されることを懸念されていらっしゃるようでございますが、そのようなことはございません。弊社の技術者たちが責任をもってよくよく検討した結果なのでございます。どうぞご理解ください」
頭の中で巨大な渦が巻くのを京子は感じた。本当にモリは先天的な欠陥品であったのか。しかし、彼と過ごした日々にそのような一種の落ち度があったようには、どうしても思えなかった。彼はよく尽くしてくれていた。よく働き、よく稼いでくれた。奉仕者として彼以上の人は思い当らなかった。見たことのない技術者たちよりも京子の方が彼に詳しいはずである。その腕に抱かれながら接吻まで交わしたのだから。そこまで考えて、京子は驚いた。自分はモリをまるで人そのもののように扱っていることに気がついたからである。
悄然としている京子の肩を励ますかのように軽く叩きながら老紳士は言った。
「心中をお察しします。あなた様はこれまでずいぶんとモリを可愛がってくださいました。それはモリの記憶媒体を見ても分かります。しかし、規則は規則でございます。モリはこれから処分される予定です。苦しいこととは思いますが、今日のところはお帰りなさった方がよろしいかと存じます」
老紳士の慰めの言葉を聞いて、京子の決意はよりいっそう強まった。モリの最期を見届けなければならない。そして本当に彼が欠落していたのか、この目で確かめなければならない、と京子は考えた。
「いいえ。私にはモリは欠陥品だとはどうしても思えません。せめて彼の最期を見届けるまでは納得いきません」
京子が人造人間一八五二号を明確に「彼」と呼んだことに、二人の紳士は思わず肩を竦めてしまった。
「人造人間の処分は電気ショックで行われます。正直に申し上げますが、見ていてあまり心持ちの良いものではありません。弊社はその後、あなた様がいかなる精神的なショックを受けようとも保障は負いかねます。それでもよろしいでしょうか」
ガラス張りの小部屋の中央に据えられた長椅子に寝かされるようにしてモリは横たわっていた。京子と二人の紳士はガラス越しにモリが処分される瞬間を目の当たりにしようとしている。京子は手に汗を握りながらも、ガラス越しにモリの最期を看取るつもりでいた。京子は思わず、掌をガラスにつけた。その仕草でモリは京子を見て取ったのであろう。モリは激しく京子を罵倒し始めた。
「この野郎。俺をはめやがったな。いくらで俺をこいつらに売った。この売女め。必死に働いて稼いだ金も全部、酒に変えちまいやがって。あの男からお前を助けてやるんじゃなかった。人生最大の失敗だよ。俺の人生を返しやがれ」
二人の紳士はガラス越しにモリの姿を目の当たりにして改めて確信した。人造人間一八五二号は欠陥品であると。
一方、一人の美しい女性はガラス越しにモリの姿を目の当たりにして改めて確信した。彼は紛れもない人なのだと。
交錯する男女の見解も知らずに、モリの身体に激しい電気ショックが流された。人造人間一八五二号、通称・モリは短い生涯を終えた。
京子はまたしてもガラス越しに据えられたパイプ椅子に腰掛けていた。目の前には先程、その生涯を終えたばかりの人造人間とそっくりの人間が座っている。堺省吾である。
「ねえ、大金が手に入ったみたいだね。話は聞いているよ。メメント社とかいう会社の被害にあったという話らしいじゃないか。君、大丈夫だったかい。僕はここに入れられてからずっと心配していたんだぜ。本当だよ」
堺省吾は上目遣いに京子の顔色を窺いながら、先程からずっと同じような事柄を語り掛けている。省吾は彼女の身に危険がなかったかをしきりに気にしているようであったが、京子にはそれが一種のパフォーマンスであることは分かり切っていた。この男は私ではなく、私の懐に入っている大金が心配なのだ、と京子は覚り切っていた。
「ねえ、聞いているのかい。僕はここに入れられてからずいぶんと考えさせられた。あの時は本当に悪かったと心の底から思っているんだ。ずいぶんと怖い目にあわせてしまったね。もう、あんな真似は金輪際しないと約束するよ。だから、その金で僕を保釈してくれないか」
京子はぼんやりとした頭で考えていた。目の前で両手を合わせて赦しを乞うている一人の人間と、最期まで自分の言いつけを守って死んでいった一体の人造人間のどこにこれほどまでの「差」があるのだろうか。京子は明確ではあるが、判別がつかないと思った。少なくとも一体の人造人間の方がより、理想的な人間らしく、京子が求めていたものに近しい気がする。堺省吾という名の暴君はどちらに相応しいのだろうか。解答は明晰であった。しかし、実在の堺省吾は目前でしきりに平身低頭して京子という名の司祭に必死になって恩赦を願っている。
人間とは何か。京子はこのみすぼらしい一人の男を観察しながらそんなことを考えた。それはきっと誇りなのだろう。いずれにせよ、京子の前では全てが終わってしまった事ではあった。灰色がかった世界の中で、京子だけが一人、鮮明であった。京子は死んでいった一体の人造人間から確かに誇りを感じた。モリは京子が託した暴君という名の誇りを貫き通して死んでいったのだ。そこに一縷のいじらしさと確かな誇りが存在していた。
「ねえ、あなたには誇りがあるのかしら」
京子はガラス越しに手を合わせている男に尋ねた。
「誇りかい。そんなもの何の役にも立たないよ。僕に必要なのは少しばかりの金と生まれ変わるチャンスだけさ」
それを聞くと京子は安っぽいパイプ椅子から立ち上がり、緩慢な動作で懐中の小切手に手を伸ばした。
人造人間一八五二号の矜持 胤田一成 @gonchunagon
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