第3話 手首に巻かれたお数珠
なんらかの宗教的な意図があって、それを腕に巻いているわけではないのです。
教員をしている時でした。
あまりに良くないことが重なっていた時のことです。
仕事だから仕方のないことですが、教員といえども、気の滅入る時はあります。
そんな折に、鎌倉にでかけたのです。それも、藤沢にあるとある学校に研修のため、出張で出かけた帰りに、所在なく訪れた、たったそれだけのことなのです。
せっかく藤沢まで来たのだから、午後の空いた時間を鎌倉の然るべきお寺で清めて、学校に戻ろうと、そんな考えであったのです。
訪問したお寺は極楽寺というお寺でした。
そこに極楽寺があったから、足を運ばせてもらったという、お寺さんには申し訳ない動機なのですが、そこで、私、思わぬ体験をすることになったのです。
私、スーツを着て、カバンを持って、いかにもかた苦しい姿格好で、お参りをした後、さほど広くない寺の庭を散策していたのです。
一人の和服の女性が、小さな祠の前に佇んでいました。
その後ろ姿の素晴らしいことと言ったらありません。
草履の白いかかと、その上に、これもまた薄桃色の着物の裾が軽くかかっています。そして、その着物が襟元まで、すくっと伸びていくのです。
背の高い女性でした。
私、失敬だとは思ったのですが、その後ろ姿に惚れ惚れし、つい、見とれてしまったのです。
その女性、お参りが終わって、振り返って、私がそこに立っていることにちょっと驚いたようです。
軽く会釈をして、私に祠に向かうその場所を譲るというような仕草をとって、私の横をするりと抜けていったのです。
その女性が立ち去っていく、幾分石段を気にかけながら降りていくその後ろ姿もまた素晴らしいとうっとりしながら眺めていた私です。
狭い寺社ですから、さほど時間を費やすこともありません。
学校に戻らなくてはなりませんから、私、今日は極楽寺に参拝しただけで、江ノ電に乗って、戻ろうと門の方へと歩んでいったのです。
ふと、本殿の脇に、あの女性がいることに気がつきました。
私、大胆にも、何の躊躇もなくその方向へと歩んでいったのです。
街中では、気になる女性がいたからと、近寄っていくなどできませんが、寺の境内であるのだからと思い切った行動に出たのです。
女性は、冊子をお坊さんに渡していました。
「御朱印」ってやつだなって、私思ったのです。
私が後ろにいることに気がついた和服の女性は、私を振り返り、軽く一礼をし、微かな笑みを返してくれました。
何をつきまとっているの、いい加減にしてなんて、時に自意識過剰な女性を見かけることもありますが、その方は、そんな無粋な仕草など微塵もないのです。
まるで、自分の魅力なるものを熟知し、誰でも、私を見れば、あなたのように私の後ろからそっと見つめているのって、そんな仕草なのです。
お坊さんから冊子を受け取った女性は、両手でそれをありがたく受け取り、それを後生大事に胸に当てて、私の横をすり抜けるように通り過ぎていったのです。
次の方どうぞ、とお坊さんが私に声をかけます。
御朱印帳、持ってきていないのですね、とそう続けて言います。
よろしかったら、極楽寺の御朱印帳、ございますが、どうなさいます。
私、その濃紺の冊子の方をと、思わず、御朱印帳なるものを、生まれた初めて持つことになったのです。
墨の字の流れるような書体に、朱の印が押されたそれは、殊の外美しく、私には見えました。
本当は、美しいではなく、ありがたいと思わなくてはならないのですが、私には、さほどの宗教心はなかったのです。
これは腕に巻くお数珠です。檜で作られています。いい匂いがします。
商売熱心なお坊さまだからではないのです。私が、そこにあった数珠をじっと見ていたから、そう言って案内をしてくれたのです。
私、だから、御朱印帳と今も手首に巻いている檜で作られたお数珠を、いくばくかのお布施をして、ともに受け取ったのです。
駅に向かう道すがら、ちょっと高台のところから、駅舎とホームが見えました。
あの女性がホームに立って電車を待っています。
私、同じ電車ではなく、そこに立っている和服の女性を遠目から眺めたのです。
電車がやってきました。
すると、その女性、私のいる方を仰ぎ見たのです。
私、どきっとしました。よくないことをしているという嫌悪感が一瞬ですが、心に及ぼうとしていたのです。
しかし、あの女性、そっと会釈を返してくれたのです。
私は、救われました。
妙な嫌悪感はあらわれず、何だか神々しい爽快感が溢れ出てきたからです。
今も、私の左腕に巻かれるお数珠を見ると、私、あの薄桃色の和服の清楚なお姿をはっきりと思い出すことができるのです。
そうそう、お数珠を巻いてからというもの、私を悩ますいくつかの問題は見事に良い方向に向かうようになりました。
今は、教師もやめたのですが、人間っていうのは、あれこれとつまらぬ問題を毎度抱えるものです。尽きせぬ問題が頭をもたげるたびに、私、左手首のお数珠をそっと右手でさすり、時には、玉を一つ一つ手繰り寄せたりするのです。
そんな時、私、いつも、あの薄桃色の和服の女性の後ろ姿を思い浮かべているのです。
もしかしたら、あの方、本当は、阿弥陀仏ではなかったと、そんなことも思ったりもするのです。
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