オブスキュラ

神守 水綺

第1話 幻霊世界_シンジュク

 この世界は、少しだけ煩過ぎた。

 だから僕は耳を塞いでじっと眺めたのだ。ネオンと声とモノが落ちる音。響き渡る様々な音で構成されたこの街は、退屈で、息苦しくて、まるで自分がいなくなったかのような錯覚にすら陥ってしまう。

 目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をすれば、この世界から消え去る感覚が手に取るようにわかる。流れる空気とともに自分自身も解けていくような感覚。どこか遠くへと飛んでいく感覚。

 酷く残酷で、酷く心地いい。


 そして目が覚めたらその世界は一変し、静かで暗闇に沈んでいた。

 赤赤とし、自分以外に人のいない世界。異常が日常となっていそうな、非現実的な場所。

 でも見た目ほど悪くはない場所。

 呼吸をすればさっきと同じように、残酷で心地いい感覚に陥ることができる。まるで自分が砂にでもなったかのように軽やかで、まるで氷にでもなったかのように溶け出す。

 けれど歩き出せば、まるで自分の体じゃないかのような感覚に陥るほど足は重く、脳が回転しない。視界もぐるぐると周り、ついに僕は歩くことを諦めた。

 街のど真ん中。いつもなら車か人がずっと通っているこの中心で僕は座り込み、真っ黒な画面を眺めた。

 不意に靴音が聞こえ、後ろを見る。定まらない視界で見えたのは、綺麗な黒髪と真っ白な肌だった。

「どこから来た」

 短く切られたその髪を揺らし、目の前の女は僕に問う。と言っても此処がどこで彼女が何者かわからない。僕はそれに対する答えとして、ただの短い呼吸だけを彼女に返した。

「そうか、わからないのか」

 膝よりも随分と上で切られたズボンを上げるためのベルト。そこに付属しているホルスターから彼女は拳銃を取り出した。モデルガン。けど、それは本物だった。

「此処はお前の深層世界。お前が望んだ世界」

 引き金が引かれ、確かに胸元に違和感を感じた。けれども血は一滴も流れていない。流れているのは僕の感情。

 嫌な気分だった。

「私は大写綺麗。お前を被写体に使ったやつだ。覚えておくといいよ」

 背中に痛みが走り、世界が少しだけ傾く。あぁ、倒れたのだ、と気が付いたのは、閉じかけている瞳から見えた、現実世界ではありえない真っ赤な太陽を見つけた時だった。


***


「真栄城龍之介です。短い間ですが、よろしくお願いします」

 短い挨拶の後に続いた拍手は歓迎ではなく、ただの社交辞令、数名はこちらに目線すら向けず、机の上の教科書をにらみ続けている。

 春。出会いと別れの季節だというこの日、僕はこの私立高校へと転入した。

 二年前に入った高校は、一般的な県立高校。特に何の目標も持っていなかった僕にとっては丁度いい高校だと思って志望をした。

 しかし、両親はその選択に呆れかえっていた。二年生も終わるころ。受験という大きな壁が待ち受ける中、両親はいい大学へ、いい就職を、と口にし始めた。けど、県立高校では行ける場所がたかが知れていた。

 両親はその事実を知ると、僕の知らない間に転入手続きを進め、都内にある有名な私立高校へと転入させた。試験は免除されていた。だから転入初日まで、僕はその事実を知らなかった。

「こんな時に転入してきたから、受験の方は大変かもしれません。ですがこの学校では・・・」

 大人はいつもこうだ。自分勝手で我儘。実績さえ出れば何でも目を瞑るが、実績が出るまではこうして何でもかんでも口にしてくる。それが正しいことなのかもしれないが、僕には理解できなかった。

 目の前で担任の先生となった人物がこの学校の歴史を永遠と語る。終わる目途は、今のところ立っていない。

 いかに受験での成績がこの学校にとって重要か。転入してきたからと言って甘えさせるわけにはいかない。実績を出さなければ意味がない。

 わかっていることを永遠と話す。

「わかっています。そもそも受験のためにこちらの学校に転入しましたので、実績はきちんと残します。こうして先生の話を聞いているのもいいですが、この時間も僕は勉強に役立てたいと思うのですが」

 だから僕は上辺面だけを良くして生きている。

 学校を出て、いつものように人を照らす太陽を睨みつける。けど睨みつけたからといって何かが変わるわけでもない。だから僕は一つ息を吐いて進みだした。

 行先はない。帰る場所も心地よくはない。だから流れに身を任せて進むだけ。電車に揺られ、酷く恨めしい人だかりを見る。

 呼吸が落ち着かない。

 次第に人の数が増えていき、終点を迎える。たどり着くのはいつだって此処のような気もする。けど、此処が一番いいのだ。

 人が行きかい、交差し、ぶつかり、無関心で過ぎ去っていく。小さな画面を見つめ、誰もこの世界で立ちすくんでいる僕を見ない。

 だから僕は不意に聞こえたシャッター音に振り向いた。

「街が・・・消えた?」

 赤い太陽に赤い月。同時に存在することの少ないこの二つが、今確かに同時に存在し、この地を包み込んでいる。

 けれどこの地に立っているのは僕だけで、他には誰もいない。

 いや居た。

 信号機の上。よく見ていなければ見過ごしてしまう、影に隠れた人。影と同化するかのようにカメラを持つ人。

「大写綺麗」

 不意に僕の口から零れたその名は、僕にも聞き覚えのない名前。しかし妙に馴染みがあり、詰まることもなくその名を発することができた。

 女性は振り向き、こちらへと降りてくる。普通の人間なら着地に失敗して足を折るのが落ちだろうが、彼女は音を立てることもなく着地した。

「初めまして?俺の名前を知っているなんて、ファン?」

「いいや、僕は君を知らない。けど、名を知っていたんだ」

 短い黒髪を揺らし、彼女は頭を傾げる。僕の意味の分からない発言をなんとか理解しようとしているのだろう。申し訳ないという気持ちもなくはないが、僕自身にもわからないのだ。

「お前の名は?」

 今日二度目のその問に、僕は正直うんざりしたけど、答えないわけにはいかない。

「真栄城龍之介」

 短く答え、彼女が納得するのを待った。

 しかし、意外にも彼女はそれ以上追及することはなかった。

「お前はどうやってここに来たの?」

「知らない。偶々シャッター音が聞こえて振り返った。そしたら此処にいた。それだけ」

 女性は自分のカメラを見つめ、頭を抱えた。つまり、彼女がシャッター音を鳴らした犯人ということになる。

「此処はすごいね。静寂で、残酷で、酷く心地いい。まるで・・・」

「まるで夢が叶ったみたい?じゃあ多分お前の世界だよ」

 今度は僕が首を傾げる番だった。意味が理解できなかったからだ。

 僕の世界。つまり、本来なら僕しか存在しない世界。なのに彼女は此処に立っている。

「それっておかしくないかい?」

 僕はクスリと笑って彼女を見つめた。

「あぁおかしいな。だって俺がいる」

 彼女は自分の胸に手を当て、誇らしげに言った。まるで満足そうな表情だ。

「此処はオブスキュラ。人の深層世界を映し出すカメラで撮られた世界。普通の人間は此処に立ち入ることができない。勿論、この世界を作り出した本人ですら」

「けど僕は来れた」

「そう、極偶にいる適性者だから」

 心臓を目掛け指をさした彼女は、その指で僕を突いた。別にそこまでの力があったわけではない。けど、一瞬にして後ろに吹き飛ばされたような感覚に陥った。

 何とかしてその場にとどまろうと足を踏ん張るが、努力は水の泡。まるで巨大な力に引っ張られ、後方へと飛ぶ。

「TRACEと言う名の探偵事務所を探せ」

 最後に聞こえた声はそれだけだった。


 目を開けると、そこはあの赤い世界に行く前と同じ場所。唯一違うのは、向いている向き。体感時間としては10分程度。けど、時間は進んでいなかった。

 時計は電車を降りて此処に来た時間と同じ。

「何だったんだ・・・」

 理解ができなかった。赤い世界は確かに体感した。もしそれが自分の妄想だとしても、時間が過ぎ去っていなければ辻褄が合わない。

 手を握り痛みを感じて、現実であることを思い知らされる。

 不意に鳴った着信音に肩を揺らし、僕は現実へと戻ることにした。


***


「図書館で勉強してくる」

 真栄城が嘘をつくことは珍しくなかった。だから別に声が震えることもないし、なにか後ろめたい気持ちになることはなかった。

 真栄城があの赤い世界を見た二日後。唯一の休日である日曜日に僕はTRACEという名の探偵事務所を探した。知りたかった。知らなくてはいけないと真栄城は思った。だから探した。それ以外に理由はない。

 探偵事務所は、終点の駅から少し歩いた先のカフェの上。しかしカフェの周りには上に行くための階段はなかった。

 用もないのにカフェに入るのは少し気が引けて、入るのに戸惑いが出てしまう。そうこうしているうちに客が来たのか、真栄城の後ろから靴音が聞こえた。

 背中の半分ほどまである黒い髪が風に揺れ、それがシャッターチャンスであることが素人の真栄城にも分かった。

「邪魔なんだけど」

 後ろから来た女は強い口調でそう言った。後ろには男がいた。

「すいません。探偵事務所に用事があったんですけど」

 女の後方にいた男は目を少しだけ開き、面白いものを見つけた子供のような表情を見せた。

「探偵事務所にご用事・・・TRACEとしか書かれていないのに、どうして探偵事務所ってわかったの?」

 男はそう言った。確かに探偵事務所の窓にはそんな文字はなく、看板はTRACEの文字が書かれた少しシックなものだけ。探偵事務所らしくはないだろう。

「聞いたので。大写綺麗さんに」

「どこで?」

「赤い世界・・・オブスキュラ」

 女は表情を変え、カフェの中へと真栄城を引っ張る。男もその後ろから慌てて追いかけた。

 カフェの中には、腰まで届く少し色素の薄い色をした髪を持つ女がカウンターで珈琲を飲んでいた。店主も女なのか、微笑みを絶やさずに三人を見つめる。

「綺麗、貴方が彼を此処に呼んだの?」

 色素の薄い髪の女は真栄城を見て、笑った。

「あぁ、そうだな」

「巻き込んだってことかしら?」

「シャッター音があの人込みの中で聞こえたそうだ」

 カウンターに置いてあるカメラを指さし、女は笑う。

 だがここで真栄城はおかしいことに気が付いた。

 確かに口調も体格も態度も、あの日あった大写綺麗そのもの。しかし、見た目が全然違う。髪色は黒ではない。しかも髪が長すぎた。

「本当に貴方が大写綺麗?」

 疑問は声に出て落ちた。綺麗と呼ばれた女は振り向き、あぁ、と短く答えた。

「オブスキュラは少々仕組みが複雑でな。見た目が変わるんだ。けど、お前は全然変わらなかったな」

「その言い方と前回の教訓からすると、心で描いている自分の姿が現れるってことかな?」

 当たり、と満足そうな笑みを浮かべて大写は答えた。その笑い方を真栄城は知っている。本人だと確証が持てる笑みだった。

「大分理解できた。けど、まだ知りたいことがある」

「おいおい待てよ少年」

 ストップをかけたのはカフェの前で話しかけた男。青っぽい色の髪。短く切りそろえられている。好青年の印象を与える顔立ちだ。

 真栄城はすぐに男の方に振り向いた。

「それ以上踏み込むってことは、覚悟がいることだ。そう簡単に話せることじゃない。ただの好奇心なら」

「やめておけ?それなら無理です。すでに僕は覚悟を決めて此処に来ています。だって、あんな世界を見ちゃいましたから」

 今度は真栄城が誇らしげな顔をする番だった。男は頭を抱え、唸りを上げたが、女は納得したような表情をした。

「静音より、いい覚悟だと思う」

「それを本人の前で言うなよ・・・」

 女の言葉に男が沈みこみ、深いため息を吐いた。

「アタシは不動院充。医学部の四年生よ」

 握手を求められ、その手を取る。真栄城が近づくと病院のような匂いがした。

 真栄城は特別入院などはしたことがなかったが、一瞬のその香りで分かるほど、その女には匂いが染みついていた。

 次に握手を求めたのは男だった。

「俺は静音理人。美術系の大学で日本画を学んでる。大学院一年だ」

 男の手には絵具の匂いが染みついていた。そして筆を長時間握っていると分かる手のひらをしている。けど、ところどころで血の匂いが混じっていた。

「再度紹介が必要なら俺もしよう」

 そういって大写は立ち上がり、真栄城の目の前に来る。伸ばした手は、あの日みた手とは違い、女性らしかった。

「大写綺麗だ。写真学科の一年生。で、あと紹介がいるのは」

「私はこのカフェの店長の宗像絵美です」

 カウンターから出てきて真栄城の目の前に立つ。洗礼された仕草と動き。絵本から飛び出してきたお姫様そのままだった。

「初めまして。高校三年の真栄城龍之介です」

 全員との握手が終わり、最後に真栄城は自分の紹介をする。すぐに静音から頭を撫でられた。といってもだいぶ大雑把に頭を撫でられ、髪が乱れた。

「では、TRACEの方にご案内しますね」

 宗像はそう言って店の裏であるバックヤードへと真栄城達をを案内し、奥にあった階段を上り始めた。

 上った先は一階丸まる書斎の様に本棚が並び、奥にスペースがあった。窓から覗けた部分。色付きのガラスから見える太陽は、綺麗な色をしていた。

 奥には円卓がセットされ、一番最奥に男が座っていた。

黒いスーツを着こなし、その上から黒いコートを羽織っている。色があるのは金色の瞳と灰色に近い髪。そして赤いリボンタイ。他はすべて黒づくめ。第一印象はあまりよくないといってもいいだろう。

「悠介、お客さんよ」

 宗像はそう声をかける。射貫く金色の瞳は肩を震わせるほど冷たい。真栄城には、上がった口角が偽物だと、すぐに分かった。

「画星悠介だ」

「僕は・・・」

「自己紹介は結構。盗聴していたから必要ない」

 そういって机に置かれたイヤホンを真栄城に見せた。つながる先はパソコン。盗聴というのは、真栄城自身ではなくカフェ全体のことを指す。

「オブスキュラの適性者、ということだったな」

 興味もなさそうな表情に戻り、画星は窓の外を眺める。視線の先に何があるわけでもない。しかし彼の眼は右へ左へと動いていた。

「実際に足を運んだなら話が早い。あれは深層世界。人の心が作り出した心の世界だ。人も建物も、風景も、色も、すべて原因となった者の心によって歪んでいく」

 持っていたイヤホンを三本の指に括り付け、大きな輪を作った画星は歪めるように指を動かし、最後にイヤホンを机の上へと落とした。

 その動きに特別な意味はない。けれど画星はその動きを大きく、見せつけるように真栄城に見せた。

「携帯を持っているか」

 画星はそういい、おそらく自身のものであろうスマホを取り出して見せた。続いて真栄城がカバンからスマホを取り出す番だった。一番最近の機種で、黒いカバーのそれを真栄城は机の上に置く。

「理人、入れてやれ」

 画星は真栄城のスマホを確認し、静音へと手渡した。静音はそれを受け取ると隣の部屋へと持っていく。扉が閉まり、真栄城からはどんな状況なのかはわからない状態となる。

 真栄城の手に戻ってきた際には、一つのアプリが増えていた。名前はオブザーバー。意味は観測者。

「それでオブスキュラに入れる」

「といっても、こっちのアプリで入れるのは大きなオブスキュラ。個人個人のオブスキュラに入るには、綺麗が持っているみたいなカメラが必要になる」

 付け加えの説明を入れた静音は真栄城のスマホのアプリをタッチしてみせた。アプリが開かれ、映し出されたのは〝PLACE〟と書かれた場面だった。

「試しにオブスキュラに入って、適正を確認する。場所は〝シンジュク〟」


***


 赤い月が光輝いていた。

 真栄城は目を細め、月を眺める。まるで太陽の様に光を発する月は、目に毒だった。

 真栄城の隣には大写が立つ。あの日と同じように、短い黒髪を揺らしていた。

「幻霊_シンジュク。適性を確かめるには丁度いい場所だろう」

 白髪が揺らめき、それをまとめ上げる赤いリボンが目立つ。細く伸びた手足を白に包み込んだ男は、画星だった。腰には日本刀が二本刺さっている。

 そこで真栄城は自分の変化に気が付いた。

 確かに前回と同じように見た目の変化は他の人ほどなかった。変わったと言えば服装くらいで、見た目形は変わらない。

 しかし、前回と明らかに腰に重みを感じた。

「レイピア」

「正確にはエスパダ・ロペラ。スペインのものだな」

 左側にあった剣を抜き取り、真栄城が剣を確認していると、隣で画星がぼやいた。

 一般人では見分けがつかないだろうその剣。一目見ただけでは、真栄城と同じようにレイピアと判断する。しかし、画星はそれをエスパダ・ロペラといった。

「どうしてわかったんですか」

 真栄城の純粋な質問に、画星は表情を曇らせた。真栄城が聞いてはいけない質問だったと気が付いたのはその時だった。

 すぐに真栄城が青ざめたが、画星は表情とは裏腹に、答えを出した。

「俺を救った人が、同じものを持っていた」

 答えはそれだけだった。けれど確かに真栄城はその言葉に救われた。

「今日は俺、真栄城、画星さんの三人だから、中心地だけでいいですか?」

 二人が話をしている間に、付近の偵察を終えた大写が戻ってきた。

「構わない。静音、そういうことだ。オペレーションを開始する。ナビを始めてくれ」

 イヤホンを付けた画星は、イヤホンの音声を拾うことのできる場所を持ち上げて言った。

『了解。オペレーション開始。ナビを始めます』

 慌てて自分のイヤホンを付けた真栄城はイヤホンから聞こえる静音の声に耳を傾けた。

『真栄城は初めてだから説明しておくと、俺はオブスキュラに入る適性を持っていないんだ。けど代わりに皆が持っていない適性を持っている』

「予想ですけど、狭間の空間とかですか?おそらく安全地帯」

 真栄城は仮想を立て、現状静音がどこにいるかを考えた。オブスキュラに来ることはできない。しかし、オブスキュラの時間は現実とは切り離されており、現実からナビを実行することはできない。

 そこから導き出した答えが、別の世界、だった。

『正解』

 静音の楽しそうな声がイヤホンから聞こえ、真栄城は小さく笑った。仮説はあっていたのだ。

『安全だと完全に証明できてたわけじゃないけど、今までに戦闘になったことはない。だから俺は此処へ同時に入って、ナビをするんだ』

 俺にしかできないこと。と、静音は誇らしげに言った。

「いいですね。特別って」

『でも、オブスキュラに入ることだって、一般人には不可能だ。そういうことを考えれば、真栄城も特別なんだよ』

 別に慰めのために静音は言ったわけではない。ただの率直な感想である。真栄城はそれが分かったから、なお一層その言葉が嬉しく思えた。

「話はいいか」

『はい、すいません。ナビを開始しますね』

 丁度話の区切りがついたところで画星は話を切った。というのも、此処はオブスキュラ。真栄城にとっては未開拓の地で、画星や大写からしてみれば、危険地帯なのだ。

 静音は画星からの言葉を聞き、すぐに頭を切り替えた。やることははオブスキュラの状況確認。ただそれだけ。

『解析完了。映画館分かりますか?』

 静音の言葉に画星と大写は右を向いた。現時点ではギリギリ場所を確認できる程度に映画館はある。真栄城も何回かは訪れたことのある場所だった。

『今回は映画館内を殲滅しましょう。解析できるのは二十体程度です」

 地図に新しく細かな地図が表示される。見覚えのある構造に真栄城は眉をひそめた。

「映画館のフロアマップ・・・けどこれ、反転してませんか?」

 眉をひそめた理由はそれだった。エレベーターから見て、チケット販売のスペースが、本来とは逆の左に設置されている。数回しか行ったことのない真栄城でも分かるほど、異形だった。

『そ、今回は〝反転〟。気づいたかと思うけど、街も全部反転してる』

 真栄城はそこで気がついた。

 先に映画館と言われて振り向いた二人は、自然と〝左〟ではなく、〝右〟を向いていた。映画館は〝左〟にあるのに。

「建物も、内部構造も、文字も全部反転か」

「誰に影響されているかはわからないけど、結構大規模で変動してるし。放置したら、現実への影響も」

 大写は唸り、周囲を再度確認し始めた。

 慌てて真栄城も確認し始める。違和感が段々と具体的になり、脳内で形作られていく。まるで猛スピードで増殖していくウイルスのように違和感が増えていく。

 しかし、真栄城が感じた違和感は〝反転〟の違和感だけではなかった。

「オペレーションを変更する。このまま実戦に入って、敵を殲滅する。敵は少ない。大写は真栄城を誘導しつつ、一回から殲滅を開始しろ」

 画星は日本刀を鞘から抜き去り、構えた。続いた大写はズボンのベルトに装着されているホルスターから拳銃を抜き取った。

「剣を抜け、真栄城。ここからはもう命を賭けることになる」

 画星は無言で映画館へと歩め始め、大写は殿を務めるために真栄城の後ろについた。しかし、真栄城は剣を抜けないままでいた。

「真栄城っ!」

 大写は声を荒げて真栄城を呼ぶが、真栄城から返答はなかった。それどころか赤い月をずっと見続けている様だ。

 しかし、大写には赤い月を眺めることはできなかった。眩しすぎたのだ。

「真栄城っ!」

「わかる」

 真栄城は月を手に収めるように伸ばす。そして拳を握りしめる。

「知ってるんだ。オブスキュラを」


***


「映画館は三階建て。珍しいことにそれ以外の階層には影響は出ていない。空中戦を強いられると予想できる」

「了解」

 真栄城は短く返答を返し、剣を抜いた。柄の部分が細工され、まるで紋章のようなものだった。見た目よりも重いそれを、真栄城は楽々と片手で宙を切った。

「初戦だから、殿の心配はしなくていい。俺が務める」

 大写からの言葉を聞き、小さな頷きを返した。

 すでに最終階で敵の殲滅を開始した画星から連絡はない。しかし、真栄城と大写が先行してそこに合流することができない。

「今やることをするだけだ」

 剣を振るい、真栄城は前へと出た。

 非常階段を上った先に居るのは、人の形をした異形の者たちだった。声もなく、影もない。抜け殻。人形。壊すのは簡単だった。

「これがサブジェクト」

「もぬけの殻の、人間の影だよ」

 大写は銃を抜き、頭を狙って打ち放った。サブジェクトは砂のように消えていき、風に乗る。五人ほど消え去ったのち、映画館の一階は制圧を完了となった。


 幻霊_シンジュク_映画館制圧完了は、一階制圧から1時間後だった。帰還したのちの検査で、三人に異常はなし。精神への異常もなかった。

「初任務お疲れ。まさかあんなことになるとは思わなかったけどな」

 静音は調査結果のデータ解析を進めながら真栄城に言った。

 本来であれば、数体のサブジェクトと戦闘し、データを取るだけの予定だった。しかし、オブスキュラへ入った瞬間、異常は起こった。

「〝反転〟か。結局、大本が不明のまま調査を終えた。俺でも、多分完全な解析は不可能だ」

 キーボードを叩き終えた静音のパソコンには、赤い画面が現れていた。

「解析度は80%か。大本まではたどり着かないな。やっぱり、もう一度入らないと駄目だな」

「いや、新宿はしばらく入らない方がいい」

 静音は解析結果を円卓上に映し出す。数値を理解できない真栄城とすれば、その情報が何を示しているのか理解できなかった。

 しかし、理解できるものからしてみれば、それは今までになかった異常事態だった。

「そもそもこの世界の大部分は不明なことが多い。入ってみたら世界が反転してるなんて、日常茶飯事。今更驚くことはない。驚くとすれば、オブスキュラに入ってから脱出までの時間が短くなったことだ」

 データには1:23と表示されていた。手間取ったのは二階エリアのみで、他にかけた時間は30分もしない程度だった。

「前回同じようなエリアをに入ったときの二分の一だ。これがお前の成果なのか、それとも俺たちの成果なのか」

 画星は画面を指さし、データをスライドさせた。

「真栄城龍之介」

「はい」

 スライドした指をそのままに、画星は後ろを振り返って真栄城の方を向いた。呼ばれた名に短く答えた。

 画星は指をさし続けたまま、その胸の中心に触れた。力は込められていない。

「オブスキュラを何で知っていた」

 オブスキュラに入ってからの音声はすべて録音されている。そのデータを持っているのはナビゲーションをしている静音だが、オペレーション実行中はすべての音声が画星に流れたままだった。

「オブスキュラは解析がまだ10%にも満たない、未知の世界だ。それに加え、無条件で入れるような場所じゃない。たかが一般人ごときがっ!!」

 机を殴った画星は真栄城から視線を外した。

「オペレーション_01は一度中断させる。真栄城龍之介のTRACE入りの件は保留とする」

 画星はそれだけを告げ、探偵事務所から出た。

 残ったのは嫌な空気だけだった。宗像はすでにカフェの経営に戻っており、不動院もそれに続いてここにはいない。残っているのはナビの静音と、作戦を行っていた大写、そして真栄城だけだった。

「TRACEは延期か・・・それもそうか」

 静音は深いため息を吐き、こめかみに手を当てた。反対に座っていた大写は、何かを言うことはしなかった。それに真栄城が何かを言うことはしなかった。だから口を開いたのは、静音だった。

「真栄城の文字は、あの計画書に書かれていたからな」

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オブスキュラ 神守 水綺 @Enki_Aquarius

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