第52話 今川長得と太原雪斎 そして……

 木下屋敷の一室で二人は対面していた。




 一人は『今川 治部大輔 義元』改め『今川 長得』


 一人は『黒衣の宰相 太原 雪斎』


 これは今川家のトップ会談であった。




「久しぶりね。和尚」


「姫様もお代わりなく」


「どこでわたくしを知ったのかしら? ふふ、和尚なら当然かしら」


「いえいえ、これでも時間が掛かりましたわい」


「お婆様は?」


「知りませぬ。知れば」


「そうよね。お婆様なら今頃は…… それで要件は?」


 雪斎は出された茶を一口飲むと。


「お戻りになられませぬか?」


 長得は持っていた扇子を広げて口元を隠す。


「無理ですか?」


 雪斎はもう一口茶を飲む。


「それほどお家がお嫌いですかな?」


 長得が持っていた扇子を閉じて雪斎に向ける。


「わたくしはあの家に、今川に戻る事はありません!」


 その長得の宣言に、雪斎はため息をついた。


「龍王丸様では今川は持ちませぬ。我と寿桂尼様は後何年も生きられませぬゆえ」


「白々しいわよ、和尚。殺しても死なないような者なのに」


「我とて生者にて、いつかは朽ち果てまする」


 今度は長得がため息を漏らす。


「そんなに悪いの?」


「北は武田、東は北条、西は松平。特に武田と松平は繋がっていたようで…… それに内側にも」


「あの老いた虎のせいなの?」


 雪斎が頷く。


「そう、やっぱり。取り込まれたのね竹千代は……」


 長得は残念そうに、そして憐れみの目をしていた。


「武田だけならばまず問題御座いませぬ」


「そうね。慣れてるものね」


「左様。しかしそれに松平が加われば」


「そうね。五年、いえ三年と言う事かしら?」


 雪斎は長得に頭を下げる。


「この通りにて、何卒お戻りあそばすよう。伏してお願い致しまする」


 長得はそれを見てまたため息をつく。


「無理よ。義元は死んだのよ。長姫として戻っても国人衆はついて来ないわ」


「龍王丸様に代わり、陣代としてなら?」


「それこそ駄目よ。今度はわたくしと兄上で家中が割れるわ。また『花倉』を起こしたいの?」


 長得はお茶に手を伸ばし一口飲む。


「もう少しだけ時間を頂戴。悪いようにはしないわ」


 ばっと頭を上げる雪斎。その目に希望が宿る。


「わたくしの夫に成るものを見つけたわ。彼なら何とかしてくれるわ」


「木下 藤吉 ですか?」


「そうよ。ねえ和尚、聞いてくれない。藤吉はね」


 そこから長得は桶狭間合戦の話を雪斎に聞かせる。

 最初は冷静に話していた長得ではあったが、徐々に熱が入ったのか。

 身ぶり手振りも加わって口調も激しくなる。

 その長得の姿を雪斎は娘を見るかのように、優しい目をしていた。


「……と言う事なの。藤吉は私の策を読んでいたのよ!どう、和尚。欲しくはない。藤吉を!」


「姫様の話と我が調べさして聞いた話とは若干違うような気も知ますれば。それにあの時兵を率いていたのは『池田 勝三郎』では御座いませなんだかな?」


 興奮していた長得はその問いを聞くと、満面の笑みを浮かべて答えた。


「違うのよ、和尚。実はね。………」



 ※※※※※



 さて、長得は如何にして藤吉の話を知ったのか?




 長得は当初は藤吉に助けられた事を感謝していたが、後から冷静に考えてみると、これは違うと思ったようだ。


『わたくしを熱くさせたのは、池田 勝三郎よ!彼がわたくしの夫になるべき人よ!』


 そうして長得は清洲の一室にて軟禁状態ではあったが、勝三郎の情報を求めた。

 そこに今川の姫を一目見ようと『前田 又左衛門 利家』が現れたのだ。


 利家はあわよくば今川の姫をと思っていたようだが、長得と会ってその思いは完膚なきまでに粉砕されてしまった。


「くそー!つええー!なんだこの強さは?」


「あら、これでおしまいかしら?言うほど強くなかったわね」


 利久は長得に言い寄ったが、長得は一つの提案をした。


「わたくしが欲しければ勝負しなさい!」


「いいぜ。乗った!」


 そして囲碁勝負を行う事に、結果は利久の惨敗であった。


「くそー、こんなはずじゃ。それに時間もねえ。姫さん続きはまた今度な」


「待ちなさい。続きはありませぬ。負けた代価にわたくしの問いに答えなさい!」


「う、仕方ねえ。俺に答えられる事ならな?」


「では、………」


 こうして長得は藤吉の存在を改めて知ったのです。


「じゃあ姫さん。今度こそ、さようならだ」


「そうですわね。さようならですわ」


 そう言うと長得は手を叩く。


 パン、パンと。


 すると戸が開かれて侍女達と見張りの兵が現れる。


「チキショー!嵌めやがったな!」


「連れて行きなさい。その無礼者を」


「は、はなせー!」


 利家がどうなったかは、信光と平手しか知らない。


『そう、そうなのね。勝三郎ではなくて藤吉なのね。わたくしの勘は始めから間違っていなかったのね!』


 その後、長得は市姫と面会し、ある約束を取り付ける。


 そして彼女は木下藤吉の預りとなったのである。



 それからも彼女は情報を集める。


 藤吉の母『なか』姉『とも』妹『朝日』らに、特に朝日は藤吉の事を長得に教えてくれた。

 朝日は藤吉を本当に尊敬していたからだ。

 そして尊敬している兄を大好きだと言えば、自ずと口を滑らせるものだ。


 ただ長得の誤算だったのは、藤吉が農民上がりと言う事であった。


 農民上がりの木下一家の生活は質素であった。

 その生活は姫様育ちの長得には、逆に新鮮であった。

 そして母なかに気にいって貰おうと自分の知る物を教えた。

 その代わりに母なかが教えてくれたのが、農作業であった。


 それは長得にとってとても楽しいものであった。


 今までの退屈な毎日が日々充実した物に変わっていった。


 当初の目的を忘れるほどに……



 ※※※※※※


「なるほど。よく分かり申した」


「で、和尚はどう思った?」


 雪斎は手を顎に当てて考え込む。


「やっぱり駄目かしら? 家格が違いすぎるものね。それでお市も二の足を踏んでいるし」


「あ、いえ。家格等なんとでもなります。問題は御座いませぬ」


「本当、和尚!」


 興奮して身を乗り出す長得に、手を伸ばして制する雪斎。


「姫様お待ち下され。家格はどうとでもなりますが。足りぬ物が御座います」


「それは名ね?」


 落ち着きを取り戻した長得は即座に答える。


「左様です。名門今川家を名乗るには名が足りませぬ。無名では我も皆を説得するに能わず」


「だから、時間が欲しいのよ」


「ならば、後二年」


「そうね。それぐらい有れば」


 長得と雪斎は笑みを浮かべる。


「では、二年待ちましょうぞ」


「ええ、その頃には子も出来てるでしょうから」


「それはそれは、寿桂尼様がさぞ喜びましょうな?」


 雪斎の声には喜色が混じっていた。


 長得は笑顔で頷いた後に真剣な顔になる。


「和尚。お婆様と兄上を頼むわね?」


「無論です。亡き義元公にお誓いして、必ず」


 力強く頷く雪斎。


「後、老いた虎の始末は?」


「それが行方を眩ませておりまして。居場所が分からぬのです」


「それは厄介ね。探せるの?」


 雪斎は首を横に振る。


「そう、案外この近くに居るかも知れないわね」


「ご用心めされよ。あの虎は御身を狙っておりますれば」


「大丈夫よ和尚。あれはわたくしにはもう興味はないでしょう。興味が有るのは」


「蝮、ですか?」


 長得は再び扇子を広げると口元に寄せる。


「ここまでですな。では、姫様」


「ええ、和尚。また会いましょう」


「はい。姫様」



 こうして、長得と雪斎の会談は終わった。




「ふ、女の顔になりましたな。姫様」


 輿の中で独り言を呟く雪斎。


「義元公よ。いや、方菊丸よ。そなたの娘はやはり大器であったわ」


 雪斎は大きな笑い声をあげながら駿河に帰って行った。



 ※※※※※※



 とある屋敷にて一人の男が居た。



 髪の毛は所々が跳ねている。顔は疲れているように見えてやつれている。しかし、目付きは鋭い。その目は血で滲んでいるかのように赤い。


 その赤い目は目の前の者を噛みつかんばかりに睨んでいた。


「なぜ、あの者は生きている」


 その声は低く、暗く冷たい声だ。


「直接手を下さずとも、織田家が始末」


「そのような言い訳を聞いているのではない。なぜだ」


 おそらく配下であろう者の発言を遮り、再度問いかける。


「配下の者が止めを刺そうとして、邪魔が入りまして」


「そうではない。なぜ、生きているのかと問うた? なぜだ」


 配下の者はここで初めて主人の意を知った。

 そして、冷や汗が流れるを感じた。


「未だ、継続中であります」


「そうか。では、何故太郎は美濃を攻めん?」


 配下は安堵する暇を与えられなかった。


「斎藤山城が健在にて、迂闊に動けないかと?」


「あやつに任せたのは失敗であったか」


 男は歯ぎしりをした後に配下を睨み付ける。


「す、直ぐに動きまする」


「蝮は長くあるまい。急がずとも良い」


 配下はほっと一息ついた。


 表面には出していないが……


「織田の姫は?」


「側仕えを付けようにも護りが固く、近づけません」


「そうか」


 しばしの静寂が部屋を包む。


 配下の者はこの静寂に耐えきれないのか。


 唾を飲み込む。


 その音は外に漏れだしているほどに大きな音だったかもしれない。


「竹千代は?」


「は、三河南部の制圧に乗り出しております」


「勝てるか?」


「まず、間違いなく」


「そうか。手間が掛かる小わっぱよ」


 男の顔に笑みが浮かんだ。どうやら男にとって竹千代は愛しい者のようだ。


「北条は?」


「武蔵を抑えております。景虎とは直接殺り合っておりませぬ」


「景虎か。あれも排除したいものよ」


「あれの周りも草がおります。軒猿という草が」


 男の顔に不満が見て取れる。


「三好はどうか?」


「将軍との和解をした後は、然したる動きは御座いませぬ」


「細川を排除した後に、また義輝が動くと思ったがの」


「将軍と三好の間は表向きは平穏にて」


 男がふっと笑った。


「裏では殺り合っておるのか。そうか、そうか」


 ご機嫌のようだ。


「六角は?」


「仕込みはすでに。後はつつくのみ」


「朝倉は?」


「斎藤と結び、浅井を抱き込むようです」


「侮れんな。朝倉は」


「すでに配下が付いております。如何様にも」


 男はおもむろに立ち上がった。


 配下はこれに驚き少し下がる。


「ふふふ、後は機が熟すのを待つのみよ」


 男は戸を開け放ち庭に出ていった。


 残された配下は一言だけ洩らした。



「狂人よ」


 ※※※※※※



 手柄を立てよ!



 その言葉が俺にずしりとのし掛かる。

 手柄を立てて小六と結婚する。

 小六は一年以上も待っているのだ。これ以上待たせるのは男として申し訳なさすぎる。


 何とかしないといけない。


 しかし、小六と結婚すると何故か一緒に寧々が付いてくるそうだ。


 なぜ寧々と俺が結婚する?


 この事はすでに規定路線のようで俺の周りの者は皆知っていた。




 寧々は妹枠だから無いと言っていたのに、なぜだ!


 しかも俺には拒否権が無いようだ。おかしい!


 何とも悶々とした気持ちを持ちながら仕事をしている。



 美濃の一件が終わってからここのところ周りは静かになった。

 それに合わせて仕事の量も減った。

 喜ばしい事ではあるが俺の頭の中は先程の事で一杯だ。


 前に勝三郎達と相談したが、あれは愚痴等を言い合った飲み会のようなものだ。そう、あの後当然のように飲むことになった。

 あれはあれで楽しかったが問題解決の糸口にはならない。


 手柄を立てる。さて、どうしたものやら?


「考え事ですか? 藤吉殿」


「へ、ああ、そうですね。貞勝殿」


「良ければ相談に乗りますぞ」


 な、なんと!? 貞勝殿が相談に乗ってくれると?

 何時もなら仕事一筋の真面目な方が、俺の相談を聞いてくれるなんて!


 ちらと信定を見ると。


「んん、もちろん私も相談に乗りますよ」


 持つべき物は良き同僚だ。


 そして俺は嘘偽り無く話した。


「嫁取りの条件でしたか? 話は聞いていましたが、城持ちに成る程の手柄とは何とも」


「それは我々のような者には辛い条件ですな」


 二人とも俺が小六達と結婚するのは知っているが、その為の条件は知らなかったようだ。

 ちなみに貞勝殿は当然既婚者だ。娘は内蔵助の嫁に成るそうだ。

 俺が嫁取りに苦労しているのに、内蔵助はいとも容易く結婚するという。


 何とも理不尽だ!


 信定殿も結婚している。子供も居る。


 俺の周りで独身者はいないようだ。


 又左?


 あいつはまだまだフラフラしている。

 だが、もう時間の問題だ。

 俺と勝三郎が前田家と話し合って吉日を選んで、まつと祝言を上げる段取りになっている。

 ふははは、又左め。お前の独身生活は終わりを迎えるのだ!


 は、おかしい? なぜ俺が又左の為に色々と苦労しないといけないのか?



 その後は三人で話し合ったが、ろくな意見は出なかった。


 貞勝殿は娘が結婚する話で『娘など持つと悲しい思いをしますぞ!』と愚痴られた。

 信定殿は帰って『子供の顔を見ると疲れが吹っ飛ぶ』と言っていた。


 単なる自慢話を長々と聞かされただけだ。


 何の得にもならなかった。



 そして、帰って自室で考える。



 部屋には蜂須賀党が集めた噂話等をまとめた物や、あっちの世界から持っていた地図とこっちの世界に来て書いた地図を広げていた。


 最も手柄が立てやすいのは美濃だ!


 その為の下調べをしていた。



 あっちの世界での秀吉は美濃取りで出世した。

 なら、こっちでもあっちの世界と同様に手柄を立てられるはずだ!


 でも、あっちとこっちでは大分歴史が違う。


 果たして蝮相手に俺は大きな手柄を立てれるだろうか?


 それとも、蝮を避けて伊勢に向かうか?


 その為には長島をどうにかしないとな?


 課題が沢山有りすぎて目眩がしそうだ。



 果たして俺は一城の主になって結婚出来るだろうか?



 永禄二年 四月某日 右筆 足軽大将 木下 藤吉 書す


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