第42話 今川 治部大輔 義元

 今川 治部大輔 義元。


 彼女は今川家第十二代当主である。


 元の名を『今川 長得』と言う。


 本来で有れば家督を継いだのは嫡男の氏真であった。

 しかし、祖母『寿桂尼』の鶴の一声で当主に据えられた。

 では、先代今川家第十一代当主『今川 義元』はどうしたのか?


 彼は弘治二年四月に亡くなっている。


 死因は病死。


 毒殺でも暗殺でもなくただの病死であった。


 公式にはそう発表された。


 義元の病死により彼女が第十二代当主に立てられた。


 今川 長得は病弱な女の子であった。


 彼女は幼き頃より自分の部屋で過ごしていた。

 ある日、兄氏真が妹長に本を与えた。


 それは『太原 雪斎』が氏真の教育にと与えた本である。

 この日より長は本の虫となり貪欲に知識を求めた。

 齢十歳を向かえると体も丈夫になり外に出る事も出来るようになった。

 しかし、長は外に出る事もなくひたすら本を読み続けた。


 そして、祖母寿桂尼に呼び出される。


「お長。本は好きかえ?」


「はい! お婆様」


「そうかい。『孫子』『六韜三略』『呉子』『史記』に後は何を読んでるのかえ?」


「今は『李衛公問対』を読んでます」


「そうかい、そうかい、お長は賢い子だよ。それに引き換え龍王丸(氏真)は『万葉集』に『古今和歌集』、『源氏物語』に『徒然草』。これではどちらが今川を継ぐべきか」


 この後も、氏真と長は何かと比べられる事になる。


 長が十二の頃。


「長姫。またお強くなられた」


 長と雪斎は碁を打っていた。


「和尚。わたくし退屈です」


「何ゆえに?」


「わたくしの相手が出来るのはお婆様と父上、それに和尚だけですのよ」


「竜王丸様は?」


「兄上は駄目。碁や将棋より蹴鞠が良いそうです」


「困ったお子だ」


「はぁ、退屈ですわ」


 長の口癖『退屈』はこの頃からだった。



 月日は流れて弘治二年三月。


 長が十七の時。


 義元は家督を氏真に譲ろうとしていた。


 しかし、義元はこの月に病気に掛かり、そのまま亡くなってしまう。


 そして今川長得が家督を継いだ。


 長得は当初は家督を継ぐのを嫌がったが有ることが原因で家督を継いだ。


 その原因は?


「わたくしは嫌です! なぜわたくしが竹千代の室(妻)にならないといけないのです」


「それはお長、そなたが家督を継がないからですよ」


「お婆様。わたくしは竹千代の元に行きたくありません。あのような軽薄でわたくしより弱い男。死んでも嫌です!」


「ならば、家督を継ぎなさい。継がないのであれば竹千代の室におなりなさい」


「お婆様!」


 結局は長が折れる形で家督を継いだのである。


 氏真はどうしたのかだって?


 彼は長が家督を継いだのを喜んだよ。


 何でもこれで歌や蹴鞠に集中出来るとか……


 そして、長得は家督を継ぐのに二つ条件を出した。


 一つ、父義元の名前を受け継ぐ事。


 二つ、婚姻は自分で決める事。


 この条件で長は家督を継いだ。


 彼女は『今川 治部大輔 義元』になったのだ



 ※※※※※※※



「それで?」


「後続の荷駄隊が追い付いておりません」


「なぜ?」


 義元は鋭い視線を側近に向ける。


「わ、分かりません」


「話にならないわ。原因が分かってから報告しなさい」


「はは」


「ふぅ、使えない。三浦か朝比奈を残すべきだったかしら?」


 義元の言葉に側近達は萎縮する。


 そこにまた伝令がやって来て、側近の一人が報告を受け、義元に伝える。


「ご報告致します」


「何?」


「織田勢は東海道に散り散りに出てきたもようです」


「そう、やっぱりね。数は?」


「は、百ほどです」


「数が会わないわ。二千は居たのよ?」


「おそらく山中にてバラバラになったのでは?」


 別の側近が答えると義元は直ぐに答える。


「そうね。そうかもしれないわね。他には?」


「別に御座いません」


「そう、では下がっていいわ」


 義元の言葉を受け、側近は伝令を下げさせる。


「は、失礼致します」


 伝令が去っていくと陣内では側近達が先ほどの報告を受けて議論するが、義元は考え込んでいるのか、側近達の議論に全く感心を持っていなかった。


 この時の義元はこの二つの報告を聞いて違和感を感じていた。


 なぜ、荷駄隊が来ないのか?


 織田勢二千はどこに行ったのか?


 義元の脳裡に一つの考えが浮かび上がる。


「誰か。物見を放ちなさい!」


「治部様?」


 義元の突然の命令に側近達は直ぐには反応出来ずにいた。

 その様子に若干の苛立ちを感じながらも義元は側近達に命ずる。


「大高道の向かう間道に物見を放ちなさい!それに織田の兵を幾人か捕らえなさい。今すぐよ!」


 義元の具体的な命令に側近達はようやく反応する。


「はは!」


 義元の命を受けた後に側近達は慌てふためた。

 一方、命じた義元は一人楽しそうにしている。


「まさかと思うけれど、もしそうなら。ふふ、面白いわ。池田 勝三郎。あなたはわたくしを楽しませてくれるのね」


 彼女は退屈していた。


 今川の当主になっても、万の軍勢を率いようとも、多くの家臣が頭を垂れようとも。


 彼女の思いは満たされない。


 彼女の思いは彼女自身にも分からない。


 もしかしたら?


 彼女は思う。


 この戦場なら、池田 勝三郎なら自分の退屈を満たしてくれるのではと。


 しばらくして、物見が帰って来る。


「ご報告致します」


 伝令から報告を受けた側近の一人が義元に伝える。


「どちらの報告?」


「は、大高道の報告に御座います」


「続けなさい」


「は、物見に依りますれば。その、荷駄隊が襲撃に会った模様にて、荷駄を全て焼かれたとの事です」


 バキッと音がした。


 義元が持っていた扇子を二つに折った音だった


「……続けなさい」


 義元の底冷えする言葉に報告する側近はごくりと喉を鳴らす。


「は、襲ったのは取り逃がした織田勢と思われまする」


「分かりきった事を言うな!」


 義元の怒気に側近達は震える。


「も、申し訳ありません。織田勢の行方は分かりません」


「物見の数を増やしなさい。奴らを見つけるのよ!」


「はは!」


 義元は興奮していた。

 かつて感じた事のない感情とを彼女は感じていた。


 そしてしばらくすると……


「ご報告致します!」


「必要ないわ」


「は、しかし?」


「織田の本隊が大高道に居るのでしょう?」


「い、いえ、違います」


「では何?」


「織田勢約六千がこちらに向かっています!」


「……どういうこと?」


「ご、ご報告の通りです。織田勢約六千がこちらに」


「もういい。直ぐに迎え撃つ準備を!」


「はは!」


「どういう事。なぜ織田の増援がこちらに?」


 義元はその場をうろうろと歩き回る。


 そして突然立ち止まる。


「蝮、裏切ったの? これだから成り上がりは信用出来ないのよ!」


 義元は折った扇子を地面に叩き突ける。


「いいわ。織田も斎藤も叩き潰してやるわ!ふふ、ふふふ、おーほほほ」



 義元の笑い声が陣に木霊する。


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