第36話 夜這いにて候

 俺はいつも寝るときは灯を灯したまま寝ている。


 こっちの世界の闇はあっちよりも濃いのだ。


 日が落ちて暗闇が辺りを包むと目が慣れないと一メートル先さえ見えない。

 その代わり灯を灯すと辺り一面を照らしてよく見える。

 こっちに来て明らかに夜目が効くようになっていた。

 しかし、夜の闇はとても怖いのだ。

 これはもう生理的なものかもしれないが我慢できない。

 もっとこの世界に居れば慣れるのかもしれないが、今はどうしても灯りがないと眠れない。

 その為、油の量を減らした灯りを灯して寝ている。

 灯りは俺が寝ている間に消える。


 なんとも贅沢な眠りかただ。


 又左やまつに注意されたがこれだけは譲れなかった。

 そして、今日もいつものように灯りを灯して寝ていた。

 そこに予期しない来訪者が現れたのだ。

 来訪者は俺が灯を消すのを忘れて寝ていると思い、俺を起こそうと呼び掛け体を揺すってきた。

 そして俺は来訪者が誰かを確認せずに眠りを邪魔されたと思い、邪険に扱った。


 つまり手で払い除けたのだ。


「きゃ」


 その声は弱々しくか弱い声だったが聞き覚えのある声だった。

 寝ぼけた頭で声の主を検索する。


「う~ん、うん!!」


 俺はガバッと上体を起こして声のする方に顔を向けた。

 そこには、やや体制を崩してしなをつくっていた女性が居た。

 薄着をしていて体のラインが分かる格好だ。

 乏しい灯りに照らされたその姿は怪しい美しさを俺に見せた。

 足元から腰周りそして胸元を見てから顔を見て、俺は思わず後ずさった。


「ひ、姫様!?」


 俺の目の前に居た侵入者は市姫様だった。


 え、なんで市姫様がここに?


 それにその格好は?


 俺は唾をゴクリと飲み込む。


 市姫様に聞こえるんじゃないかと思うほど大きな音がした思う。


 まさか、その、いやいや、そんなはずは。


 これはまさか、そ、そうなのか!


 よ、よ、「夜這いですか!」


 おわー、まずい。まずい。まずい。


 また声に出してしまった。


「夜這い?」


「いえ、違うんです! いや、違わないか。いや、違うんですよ!ほんとに」


 俺は自分でも何を言っているのか分からない弁解をしていた。

 だってしょうがないだろう。

 薄着の女性が年若い男性の部屋に忍び込んで来たら、そう思うに決まっているじゃないか!


 それに信行の日記に書いて有ったあのくだり。


『市の想い人』って書いて有った、あのくだり!


 会ってもなるべく意識しないように努めていたけど、昼間に会ってあの微笑みを見てしまった。

 話が終わった後にどれだけ動揺した事か。

 あ~~思い出したら顔が赤くなってきた。


 いかん、いかん、いかん。


 しっかりしろ俺!


 市姫様がそんな事するはずないじゃないか。

 姫はまだ十五なんだぞ!

 いや、十五って確かこっちでは結婚適齢期のど真ん中じゃないのか?


 いやいや、そんな事考えるな。


 考えちゃいかん!


「クスクス。そうなんです。夜這いに来たんですよ。と、う、き、ち、様」


 そう言って手を付いて這って来る市姫様。


 俺は壁際まで後退する。


「あ、あの、市姫。これはまずいのでは?」


「何が、まずいのです?」


 そんな艶のある声出さないで!


「今は、その、戦の最中で、これは」


「これは? 何ですか?」


「これは、その、だから」


 そして、遂に市姫様が俺の目の前にやって来た。

 俺は壁際に背を預けこれ以上後ろに下がれない。


 これは、やるしかないのか?

 そうなのか?

 しょうがないよな、これは。

 うん、しょうがない。


 しょうがないんだ!


 俺は覚悟を決めたぞ!!


「ひ、姫様。うぶ」


 俺が姫様に抱きつこうとすると姫様の人差し指が俺の唇をふさぐ。


「うふふ、冗談です。冗談」


 俺は体から力が抜けた。


「大人をからかわないでください」


「ごめんなさい。藤吉の反応が面白くて、つい」


 ついで、からかった男が俺で良かったよ。


 他の連中の男だったら今頃市姫様は………


「二度としないでください。そうじゃないと」


「そうじゃないと、何ですか?」


「………何でもないです」


 市姫様の瞳が俺を見ていた。


 その瞳は俺の想いを見透かしているようだった。


「意気地無し」


 ボソッと市姫様が何か言った様だが俺には聞こえなかった。


「それで、何の様ですか? 昼間に話した事の確認ですか。それなら明日でも」


「兄上の、信行兄様の事です」


「信行、様ですか?」


「昼間は五郎兄様や、又左衛門が居ましたから。藤吉は兄上の日記を見ているのでしょう。教えてください。兄上の真意を!」


 市姫様は信行の事が知りたかったようだ。


 何でも信行が死ぬ前に少しだけ話をしたものの、信行はただ謝るだけで話らしい話をしていなかったそうだ。


 なんかホッとしたような、残念なような?


「分かりました。私が知り得た範囲でお教えします」


 俺は市姫様に日記に書かれていた事を教えた。

 土田御前や明らかに教えてまずいと思った事の話はしなかった。


 その日俺と市姫様は夜が明けるまで話をした。


 その事が、その後騒動の元になったのだが俺は逃げるように犬山城を去った。


 思わぬ事で時間を割いてしまった。


 俺は急ぎ目的の場所に向かった。


 勝三郎の待つ『熱田』に



 ※※※※※※※



 熱田の加藤家の屋敷にて二人の人物が向かい合い話をしていた。


 一人は『池田 勝三郎 恒興』


 一人は『加藤 図書助ずしょのすけ 順盛のぶもり


 熱田加藤家は熱田商人の中でも有数な豪商である。

 勝三郎は加藤家に織田家の合力を願いに来ていた。


「では、どうあっても合力願えぬと!」


「我ら加藤家、いや熱田商人は織田家とは商売出来ませぬ」


「織田家は熱田をこれまで手厚く保護してきたのですぞ」


「それは過去の話。私どもは今、明日の話をしているのです」


 熱田は織田家の保護を受けてその勢威を保って来ました。

 津島ほどでは有りませんが、熱田はそれなりに織田家に対して恩があります。

 しかし、先の織田家の内紛の影響が熱田に影を落としいたのです。


「織田家はこれからも熱田の保護を約束すると、このように書状も有り申す。それでもですか?」


「池田様。我らはすでに決めておるのですよ」


「決めている? 何をだ!」


「我ら熱田は、今川につき申す」


「バカな!」


 熱田は今川に合力する。


 それは織田家の、藤吉の立てた計画を狂わせるものであった。



※※※※※※


 藤吉が熱田に向かっていた頃、今川勢は尾張、三河の境目、大高城に向かって歩を進めていた。


 その軍勢の威容は圧倒的であった。


 今川三万の兵は何ら乱れる事なく行軍していたが、その今川勢の軍中はおよそ戦に行くような張りつめた空気ではなく、どこか浮わついた空気を纏っていた。


 兵達に乱れなくとも、心は浮かれている。


 そう、まるで戦に勝ったようなそんな空気をだしていた。


 そして、その今川軍勢を率いるのは今川家当主『今川 治部大輔 義元』であった。


「オーホホホ、尾張の登り竜は囚われの身とか。わたくしがお救い差し上げてみせますわ! オーホホホ」


「治部様。我らは織田家を滅ぼしに参ったのですぞ」


「あら三浦。わたくしはそんな事聞いてませんわよ?」


「治部様。出発前に『寿桂尼じゅけいに』様と『雪斎』様が言われたではありませんか?」


「ええ、尾張を取りなさいと言われましたわ」


「ならば、織田家を滅ぼすは通り。尾張の登り竜たる織田市の事など」


「あら三浦。同じ女大名のよしみですもの会ってお救いして、恩を売って置けばよろしいでしょう」


「ですから治部様」


「うるさいわね三浦。朝比奈、あなたはわたくしの言う事分かるでしょう?」


「左様ですな。治部様」(もはや諫言しても聞くまいよ、三浦)


「分かりました。治部様のご存念次第に」(お守りは大変じゃ)


「そうでしょう。そうでしょう。オホホホ、オーホホホ」


 今川勢の通る所、義元の笑い声が響いていた。



 ※※※※※※



 同じ頃、犬山城を囲んでいる斎藤勢は。


「ふむ、弾正(信行)が手勢にしては。ちと数が多いの?」


「山城守様。いつまでこうしておるのですか?」


「十兵衛。焦らぬ事よ。焦れば足元を掬われる。将は泰然自若であるべし」


「は、申し訳なく」


「お主は聡明叡智なれどまだまだ経験が足りぬ。精進せよ」


「は、ご助言有りがたく」


「さても不思議な事よ。弾正は家臣のみならず民も見放したる暗愚。なれど兵の士気は下がらずか。誠に面妖よ」


「確かに。これでは我らの策が?」


「ふむ、まだ機ではないのか。兵には休息を取らせよ」


「は、兵に休息を取らせまする」


「なぜ休息を取らせるか、分かるか十兵衛?」


「織田は打って出てくる事はありますまい。時が経つのを待っておりますれば」


「ならば、我らも待つことじゃ。いずれ機は熟す」


「は、仰せの通りに」


 織田と斎藤はにらみ合いを続けている。




 ※※※※※※※



 藤吉の元を離れた小六は津島に向かっていた。


 そして小一と合流する。


「小六姉さん。兄さんは?」


「熱田だよ。今川を足止めするんだ」


「そんな! 無茶だよ!」


「無茶をやるのが男ってもんだよ」


「はぁ、兄さんは何て?」


「ハハハ、さすが兄弟。分かってるじゃないか! 仕込みを終えて、火を放てってね」


「今川が来てるから時間が無いんだね。分かった!」


「あたしは道空殿に話があるからね。後で会おう」


「分かった。じゃ後で」


「さぁ、あたしもいっちょやるかねぇ!」


 小六は堀田家に向かい、小一はどこかへと駆け出していた。




 ※※※※※※※



 俺は熱田でようやく勝三郎に追い付いた。


 そこで勝三郎が加藤順盛の説得に失敗したのを知った。


「すまん。藤吉」


「ちゃんと守護不入の件は伝えたのか?」


「もちろんだ! ちゃんと伝えた」


「ならどうして?」


「加藤家は。いや、熱田は『今川に合力する』とはっきり言われたんだ」


「へ、何で?」


「知らん。私も『なぜ今川に合力するのか』聞いてみたが答えてもらえなかった」


「う~ん、今川の進軍を前から知っていたのか?」


「それは? 確かにそう考えれば……」


「分かった。俺が加藤殿に会おう」


「大丈夫なのか。藤吉」


「とにかく熱田に合力してもらえないとどうしようもない。やるしかないんだ!」


「よし、俺も一緒に会おう。もう一度お願いしよう」


「やるぞ、勝三郎!」


「おう、藤吉!」


 俺と勝三郎は再度、加藤順盛の説得に向かった。



 ※※※※※※※




 鳴海城では山口親子が二つの書状に目を通していた。


 一つは織田家。


 織田信光の書状で今川の動きに対しての報告を求めた書状だ。


 そしてもう一つは今川義元本人の書状だ。


 その内容は……


「今度、尾張を取ることになったから、あなた達領内を案内しなさい。ちゃんと言う事聞いたらご褒美一杯あげるわよ」(現代語訳)


 その書状を前に山口親子は。


「父上いかがいたしますか?」


「織田家の奉公もこれで終わりかの」


「織田家を裏切るのですか? 我らは織田家に大恩があるのですぞ?」


「だが、今度の今川は本気じゃ。それに斎藤も来ておる。そもそもなぜ今、今川が動いておるのか。我らは知らせを受けておらんのだぞ!」


「もしや今川にバレているのでは?」


「その可能性は有るかもしれん」


「雪斎ですか?」


「わからん。どうすべきか」


 山口親子は迷っていた。


 赤塚の戦い以後、山口親子は許されて旧領はそのままにされていた。

 さらに裏で信光から銭を贈られていた。

 そして、今川に対してのダブルスパイを行っていたのだが。

 今回の今川の動きを山口親子は知らされていなかった。


 その事が山口親子を迷わせていた。


 織田につくか、今川につくか?


 山口親子は決断出来ずにいた。

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