愛猫

三津凛

第1話

猫に嫉妬する、なんて考えたこともなかった。

「江戸時代の名高い花魁にね、ものすごい猫好きがいたんだって」

千葉子(ちばこ)は手許の猫を眺めながら言った。私は「ふうん」と相槌を打つ。

「だから、客はまず猫の機嫌を取ってからその花魁の機嫌を取ったんだって。そうじゃないと、女の方からは気に入られないのよ」

私もつられて猫に視線を落とす。

別に可愛いとも憎たらしいとも思わない。ただのずんぐりとした毛玉だと思った。それが千葉子に愛されているというだけで、ただの毛玉からお猫様に成り上がる。

「その花魁に可愛がられてた猫って、なんだか妖怪みたい……」

「うふふ、そういう説もあるみたいだけど」

千葉子はくくっと笑った。横顔があんまり綺麗だから、私はそっと視線を逸らした。

千葉子は猫を撫でながら、ぼんやりとひなたを眺めている。あまり陽に当たると皮がめくれてたまらない、と千葉子は泣いた。実際、千葉子は珍しい皮膚病のために医者から陽に当たることを禁じられていた。それを千葉子は固く守り、ひなたを避けてめったに外には出てこなかった。それが気まぐれに外を歩き回る猫に魅入られているのだから、皮肉といえば皮肉だ。

それにしても、千葉子はなかなかの浮気者で今回手許に寝そべっているのは鯖虎模様の太っちょで、前のは痩せた三毛だった。

「前の猫はどこ行ったのよ」

太っちょの背を撫でていた手をはたと止めて、千葉子はこちらを振り返る。

「あぁ、あれは誰かが拾ってしまったそうなのよ。元々野良だったし、私も家で飼ってやってるわけじゃないものね」

あれ、という響きにはひどく他人行儀な気配がして、私は少しゾッとした。千葉子の愛情は移りが早くて、手許の猫はころころと変わる。そして、前の猫は消してこの界隈では二度と見ることがなかった。

千葉子は鯖虎を愛おしそうに抱き上げて、籐椅子に座り直した。細い脚も組み直して、足首をぷらぷらとさせた。その伸びた指の薄情な細さに私は唇を尖らせる。

千葉子はなんて美しいのだろう、とどこかで憎らしささえ感じた。手足の細さは飴細工の繊細さを思わせる。

猫は相変わらず千葉子に抱かれていた。不意に猫と目が合って、猫が一瞬不遜に嗤ったような気がした。よく肥えた、だが美しい猫だ。首のあたりの毛だけが妙に薄くて、桃色の地肌がほんの少し透けている。千葉子は拾ったと言っていた。だが私はどこかで飼われていたのを攫ってきたのじゃないかと思っている。野良にしては肉づきもいいし、人慣れしている。

千葉子は涼しい顔をしている。倫理のために歪んだことのないような顔をしている。私は熱病患者のような心地でそれを眺めていた。その横で猫は大きな欠伸をして、少し間抜けな顔になった。千葉子はそれを見ながら、「喉が渇いたわ」と繰り返した。

陽はまだ陰ることなく照っている。庭の土埃が夏の暑い風に煽られて白く光る。




千葉子と私は毎日会っていた。私の方から、いつも会いに行った。千葉子は迷惑そうな顔はしなかった。それでいて、家に来いと誘われたこともなかった。私と千葉子の間には、いつも猫がいた。眼鏡に無遠慮につけられた指紋のように、私は猫を鬱陶しく思った。




千葉子とはそれからしばらく会えない日が続いた。医者の言いつけを破って、千葉子は海に行ったという。その日は夏にしては珍しく涼しく、乾いた陽射しの天気だった。はじめ、千葉子は陽の射す縁側に腕を差し出して、皮膚の異変がないことを確かめたという。歳の近い従姉妹が真っ白な脚を投げ出してラムネを飲むのに癇癪を起こして、千葉子は煽られるまま海へと着いて行った。この従姉妹たちは可哀想なことにみんな揃って醜い顔をしていた。自慢なのはやたらに長い蜘蛛の足のような下半身だけで、あとは千葉子の容姿にはとんと敵わなかった。

それで、半ば騙して千葉子を海へと連れ出したのだ。千葉子もすっかり油断して出たが最後、半日も経たぬうちにその皮膚は酷いことになった。

火傷のようだと医者は言って、千葉子に怒鳴った。千葉子はえんえん泣くばかりで、誰にも会いたくないと一切の面会を拒んだ。意地悪な従姉妹たちは日が沈むまで遠泳を愉しんだというのだから残酷だ。



千葉子と会えないままのある朝、私は目覚めた。まず手がおかしいことに気がついた。鞠のように十指が丸まって、毛に覆われている。それが猫の毛であることに私はすぐに気がついた。そのままぬるりと寝床から起き上がって、随分背の高くなった学習机に飛び乗った。


あぁ、猫になってしまったのだ。


私は鼻をむずむずとさせた。

ぴんと伸びたヒゲが震える。昨晩磨いた鏡には綺麗な毛並みの猫が映っている。そこで考えたのは千葉子のことだ。この不思議な運命についてではなくて、千葉子についてだった。

私は私でなくて、猫なのだった。そのまま窓から飛び降りて屋根伝いに千葉子の家へと私は向かった。

悲壮は感じなかった。むしろ楽しい心地で向かったのだった。



千葉子はぼうっとして寝床に転がっていた。枕元には幾分濁った葡萄酒が飲みさしのまま置いてある。剥けた皮が所々目立って痛々しかった。私は「千葉子」と声をかけた。

声は猫の喉を通して、猫の鳴き声になる。千葉子がおや、とこちらを見る。私は猫には似つかわしくなく背筋を伸ばして見せた。自惚れといわれようが、私は美しい猫である。千葉子の気にいるはずである。私はもう一声かけて見た。

千葉子は億劫そうに起き上がって、少し私を眺めていた。それから思い出したように、葡萄酒を舐めた。あまり美味くはなさそうである。寝巻きを着て、化粧のしていない千葉子はどこか朧で霞んで見える。それはまるで昼間に見る幽霊のようで、現実感がない。あわせの緩い寝巻きは首や胸元が隙だらけで、見てはいけないものを見てしまったような心地になる。

私は少しばかり、目を逸らした。千葉子は私を見るだけで懐には抱かなかった。そして、ついに呼び寄せることもしなかった。

そうして、人間としている私のことも結局それから何日経っても口には出さなかった。

千葉子は私のことなど、すっかり忘れてしまっているようだった。

私は千葉子の家の庭に、勝手に住み着いた。

それが精いっぱいの、猫なりの愛情表現であったのだ。



千葉子は冷えた日本酒を舐めている。手許にはまた新しい、頭に瘡蓋のある片目の潰れた猫が寝そべっていた。私は初めて激しい嫉妬に駆られた。千葉子の手は醜い猫の頭にのせられている。猫はそれを当たり前のような目をして受けている。

私は縁側にじっと座っていた。

「おや、お前また来てたのかい」

千葉子の頰はだいぶ綺麗になっていた。

「腹でも減ってるのかい、ほれ」

千葉子が天麩羅を寄越す。私は投げられた海老の天麩羅には目もくれずに千葉子の膝元ににじり寄った。瘡蓋のある猫がのっそりと頭を上げた。私はより一層憎く思って喉を鳴らした。


どうして私は愛されない。


千葉子は懐に醜い野良を抱いて頬ずりをした。私は投げて寄越された海老天の尻尾をぽりぽりとした。しばらくいじけて、私は眠った。



また目が醒めると、あの猫はいなかった。その代わりに縁の下から妙な匂いがした。私は伸びと欠伸をして、その暗がりに目を凝らした。猫の瞳はよく見える。そこには妙にぬらぬらとした獣が力を失って横たわっていた。

皮を剥がされた猫であった。頭蓋骨の形から、あの瘡蓋のある猫であったことは間違いなかった。私は頭を上げて振り返った。

橙色の電球を背にして、千葉子が猫の皮を吊るしていた。毛羽立った皮は一本一本の毛に影が寄って、微細な縞があるようだ。

「猫は皮を剥ぐにかぎるわね」

うっとりと千葉子が呟いた。千葉子の右手は薄皮のでき始めた頰に添えられている。

「まったく、できの悪い獣のくせに」

私は自然と鳴いた。千葉子が振り向く。

「おや、お前はまだいたの」

千葉子は初めて私をまじまじと眺めながら、日本酒の残りを舐めた。私は側によって、休んだ。

千葉子は何を思ったのか、盆に残りの日本酒を零してしまうと籐椅子に座って虫の音に聞き入った。

私は舌を伸ばして、盆の日本酒を舐めた。猫の体に酒はよく回るらしい。

「粋な猫だこと」

千葉子は素っ気なく呟いて、もう私の方は見なかった。私は回る視界の中で、千葉子を眺めた。

段々と呼吸が狭くなってきて、脳が浮腫むようだった。心臓だけがはっきりと強く打たれている。胃が踊って、喉元までせり上がる。私は少し胃液を吐いた。その後は次第に意識が遠くなるばかりだった。

千葉子はレコードをかけたようだ。針が円盤の上を滑る。自然と耳が立った。千葉子が歌っている。グノーのアヴェ・マリアだ。女声とピアノが千葉子の邪魔をしないように流れていく。

私はそれを念仏のように聞きながら、猫になった運命と、愛されない運命を思った。最初は分かれていた2つが静かに一つになっていく。千葉子は歌いながら、葡萄酒の瓶を探しに厨へ引っ込んだ。私は首をあげることもできずに、死んでいった。

畳はざらつき、瞼を擦る。



まこと、生きることは容易くない。

いわんや、ただひたすらに愛されることなど……。だが、すべてはこれでよい。

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愛猫 三津凛 @mitsurin12

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