◆14-4
「全く……せっかちな奴らばかりだな。もう少し楽しみたかったが」
姉の声に、僅かに飛んでいた意識が、戻ってくる。
瞼をどうにか開くと、戦場はすっかり静まり返っていた。辺りには未だ、黒い皹があちらこちらに走り――すべてが、光の槍で縫いとめられている。兵は退かれ、クレアチオネが間に合ったのだろう。安堵の息を漏らした後、まだ戦いは終わっていないことに気付き、顔を上げて――
「――、姉上」
見た光景に驚愕する。既に立ち上がっている姉の利き手、肩から腕が外れかけていた。亀裂が彼女の肩も抉って行ったらしい。片足も、太股が大きく裂けて血が溢れていた。彼女自身は、笑みを崩していなかったが。
今ならば、勝てるのではないか、そう思って体を持ち上げて――ぐらりと沈んだ。
片足が動かない。何故かと思って、どうにか振り向くと、脹脛が姉と同じようにばっくりと切り裂かれていた。……本当に、あの亀裂は無差別だったらしい。
「お前も大概、運が無いな。もう少し、遊びたかったがまあ……仕方あるまい」
姉が嗤っている。刃が欠けた槍斧をずるりと引き摺り、近づいてくる。
痛みを堪えて、立ち上がろうとする。滑る。躓く。血が足りないのか、指先が震える。上手く得物を握れない。
「お別れだ、シューラ。怖がるな、私もすぐにそちらに行くから」
嗤ったままの姉が、槍斧を振り上げ――ヴァシーリーは息を飲む。
その後ろに、傷だらけの黒猫の姿を捉えたからだ。
×××
コーシカにとっては賭けだった。
声を出さず、限界まで気配を消して、ここまで肉薄した。だが武器が振り上げられたことに我慢できず、飛びかかった。
絶対にさせない。主には後で邪魔をしたと怒られるかもしれないが、そんなことはどうでもいい。あの人が生きてくれるのなら、それ以上は望まない。
いつもと同じだ、音もなく忍び寄り、その首筋を掻き切る、簡単だ。
鎌が閃く。刃が、届く――その一瞬前に、無造作にアグラーヤに振り向かれた。
何故、と思う間もなかった。彼女が軽く手首を返すだけで、振り上げられた槍斧の刃先がこちらへ向かって落ちてくる。このままでは、自分は死ぬ。だが、それに構わず手を伸ばせば、自分の刃が彼女の首に届く。
一瞬で、そこまで考えて――コーシカは刃を引き、自分の体の正中線を守る。
過たず、刃ごと真っ直ぐに体を切り裂かれた。
×××
「っ、がぁ……!」
ばきりと鎌が折れる鈍い音と同時、僅かな悲鳴をあげて、コーシカの体が地面に転がった。血に塗れた槍斧をぶるんと振りながら、嗤ったままアグラーヤが近づいてくる。
「惜しかったな、猫。気配の消し方は完璧だったぞ? 振り向くまで解らなかった」
そんな馬鹿な、と思う。完全に動きを読み切られていたではないか。金色の瞳で睨み付けると、アグラーヤは子供を諭すような優しい声で告げて来た。
「そう怒るな。――シューラを殺そうとすれば、お前は必ず、止めに来るだろう?」
倒れたコーシカの顔を覗き込みながら、くつくつとアグラーヤは嗤う。
「一撃が、少し甘かったな。この片腕では止めを刺し切れん、悪いことをした。だが、お前も命懸けで飛び込めば、相討ちに持ち込めたかもしれんぞ?」
知っている。言葉には出さずそう思うと、ああ、と合点がいった声が聞こえた。
「そうか――シューラに命じられたのだな、死ぬなと。お前は本当に、良い猫だ」
不意に、アグラーヤがしゃがみ込む。手甲に包まれた手で、顔を撫でられた。
「お前には感謝しているぞ? お前がいてくれたおかげで、シューラがどれだけ生き延びられたか。……これは褒賞だ、受け取れ」
ぐい、と槍斧の刃が首に突き付けられる。悔しげに歯を噛むと、アグラーヤは本当に嬉しそうに嗤った。
「ふ、くく、あはははは!!」
無造作にコーシカの体が投げ打たれる。アグラーヤは嗤っている。その嗤いは猫ではなく、今まさに立ち上がった――自分の弟に向けられていた。
「ほうら――漸くあいつが覚悟を決めた」
本当に、楽しそうに。
×××
動け。動け、動け動け動け!
今動かなければ、コーシカが死ぬ。無二の存在であるあの猫が、殺される!!
震える足を持ち上げる。滑る。近場に放り棄てられていた槍斧を掴み、支える。何とも無様な立ち方だが、立てた。
「あ、ね、上ぇ……!」
「そら、早く来い。――殺してしまうぞ?」
にやりと嗤った口から零れた挑発に。獣のような雄叫びが、ヴァシーリーの口を劈いた。
「ぉ、ああああっ!!」
走ることは碌にできない、前に倒れ込むような突撃。一歩だけ、それだけ踏み込めれば充分。槍斧を全力で振りかぶり、真っ直ぐに前へ。
「はっは!」
アグラーヤは嗤いながらその温い刃を叩き落とすが、その体はぐらりと傾ぐ。彼女も右半身はもう使い物にならなくなっている。それでも笑みを絶やさず、止まろうとしない。
「ぅおオァ!」
ほとんど体当たりのような格好で姉の懐に飛び込み、地面に転がる。拳を握り固め、その顔に思い切り振り下ろす。ごつ、と鈍い音がした。
「ふっ!」
お返しとばかりに、裏拳を顎に叩き込まれ、引き摺り落とされた。ぐらんと頭が揺れて、立てなくなる。その場に転がっていた、どちらのものか解らない槍斧を、拾って立ち上がったのはアグラーヤだった。
「終わりにしようか。シューラ」
いつも通り、世界全てを嘲笑するように、微笑んだまま。
×××
アグラーヤは、この世界全てが嗤えて仕方ない。
自分の笑顔に、周りの人間が戸惑ったり恐れたりしていることは解っているが、止めようがないのだ。笑おうとする前に、嗤えてしまうのだから。
命と貞操惜しさに、娘を売った母親も。
罪悪感でとち狂って、娘を犯した父親も。
いつまで経っても夢を見て、駄々を捏ね続ける弟も。
何も知らずに、無邪気に自分を慕う妹も。
自分を利用することしか考えない者達も。
自分に救いを求めることしかしない者達も。
時たま、思い出したように話しかけてくる、神とやらも。
全て、全てが嗤えて仕方が無い。
何をそんなに、命一つに、皆必死になっているのだろうか。この世界の一切は、おぞましき煉獄でしかないのに。――生きているということは、全くもって、いいことではないのに。
だからアグラーヤは、嗤って武器を取る。これ以上苦しみが続かないよう、終わらせてやろうと。
臆病な弟に無理難題を吹っかけた自覚はあるので、楽にしてやるのも自分の務めだろう、と本気で思っている。
片腕でも槍斧は振るえる。立ち上がろうと足掻く弟の肩を蹴り、地面に転がした。崩壊の皹で裂かれた体が痛むのだろう、悲鳴を上げている。
ほんの少しだけ、羨んでしまった。痛みなんて、もうとうの昔に忘れてしまったから、今どれだけ弟が苦しいのかも解らない。
自分も片腕はもう動かないし、血が流れ続けていることは知っているけれど、それは寧ろ喜ばしいことなので何も気にならない。
これで、終われる。
やっと、終われる。
倒れたまま、それでも自分を見上げてくる弟の瞳は、光を湛えている。……どうして、こんな目で私を見ることが出来るのだろうな、と思いながら、無造作に槍斧を振り上げた。
瞬間、体ががくりと傾ぐ。もう血が足りなくなったのかと思い、自然と視線が後ろに動く。
自分の片足にいつのまにか、鎖と鎌型の刃が巻きついていた。
ああ、と納得の息が唇から漏れた。
――そうだ、忘れていた。主に倣って、あの猫も大概、諦めが悪かったのだ。
跳ね起きた弟が、槍斧を引っ掴んでもぎ取り、倒れこみながら自分の首筋に押し付けてくるのを見届けて――やはり、アグラーヤは嗤った。本当に、嬉しそうに。
×××
どさりと、二人の体が地面に落ちる。
ヴァシーリーは、槍斧の刃を両手で抱えるようにしながら、アグラーヤの首に押し当てていた。このまま体重をかければ、容易く首は落とせるだろう。だが、ヴァシーリーは止まった。
「……どうした? お前の勝ちだぞ、シューラ」
早く首を取れ、と姉が言う。その青い瞳は今でも酷く濁っていて、光が届かない。
「……殺しません。貴女には、この戦を起こした責任を取っていただく」
くふ、とつまらなそうに、死を目前にした女は鼻で嗤った。
「これが一番、後腐れの無い方法だろうに。……相変わらずだな」
「この戦が終わっても、王都に巣食う貴族達を廃するまで時間が必要です。明確に罪状を調べる為には、貴女の証言が必須になる」
「なるほど。そうやってクレアチオネに言い訳するつもりか? お前にしては、考えたな」
「……欺瞞は承知の上です。いずれこの首は、必ず私が落とします。だが一時、一瞬でも良い。私は出来うる限り、それを遠ざけます。……貴女の命を救う方法が見つかるまで」
酷い矛盾だ。だが、本当に、どうしてもヴァシーリーは、全てを――姉の命すら、諦めることが出来なかった。あの嵐の日、姉を殺せなかった時から、ずっと、ずっとだ。殺さなくていい道筋が、ほんの糸一本でもあるのなら、諦められなかった。
「は、はは。本当にお前は」
しょうがない奴だな、という呆れた吐息が、何かを理解したように姉の口から漏れた時。
『――姉様、兄様ッ!!』
不意に、空から妹の声が届き、一瞬二人とも気を取られた。まさかこんなところに来られるわけが無い。
突然その場に現れたのは、白い髪の少女と共に、体を半分透けさせたミーリツァだった。どうやらクレアチオネの夢見の力を貸して貰ったらしい。手を繋いだままこちらに駆けてくる二人にどうしても視線を向けてしまって――
やはり、ヴァシーリーは姉には敵わなかった。
弟よりも早く我に返った姉は、無造作に手を伸ばして――弟の持つ槍斧の刃を、思い切り、抱き締めた。
ばしゃ、と血が自分の頬にかかり、ヴァシーリーは何が起こったのかを一瞬で理解する。
「――姉上ぇ……!!」
ずるり、と姉の手の力が抜けて、地面に落ちた。その首筋に、深々と槍斧の刃を刺しこんだまま。
そして漸く、ミーリツァが駆け寄り、傍に跪く。
『姉様! 姉様ッ! わたくしです、ミーリツァです! どうか、お聞きくださいまし!!』
半透明の体で姉の体に縋りつこうとするが、夢見の姿は現世に干渉できない。血が流れ続ける傷口を塞ごうとしても、その手は擦り抜けしまう。
「……あぁ。まいったな、お前も来たのか」
一度閉じていたアグラーヤ瞼がゆるゆると開く。その下の青い瞳は、いつも通り濁っていて、光は無い。
「せめてお前は、殺してやりたかったけど、もう無理だな……」
絞り出すようなその声を聴いて、そこで初めてヴァシーリーは、姉の想いが慈悲であったかもしれないことに気付かされた。例え本人が望まなくても、彼女は死を愛する妹に与えることが、救いだと思っていたのだろうか。
『姉様、姉様!』
妹が必死に姉を呼ぶ。聞きたいことは色々あるだろうに、それしかできないらしい。死女神の神官であるからこそ、姉にもう時間が無いことが解ってしまったのだろう。だからこそ、涙で引き攣る喉のままに叫ぶ。
『姉様! わたくし、姉様のこと、大好きですわ!! 兄様と同じくらい! 大好きですの!! 大好きですから、だから!!』
ぼろぼろと幼子のように泣きながら、ミーリツァは叫ぶ。姉に聞きたいことでは無く、姉に伝えたいことを、必死に。ヴァシーリーには感触が無い妹の手と一緒に、姉の手を握り締めることしか出来ない。
「ああ――そうか。そうだな」
何かの理解の光が、アグラーヤの瞳に灯った。気のせいかもしれないけれど。
「お前達が、まだ、諦めていないのなら、」
煉獄の世界で生き続けていた姉が、まだ弟と妹はそこに落ちていないのだということに、漸く気づいたのかもしれない。
「それなら――まぁ、いいか……」
ほんの僅か、アグラーヤの瞳が細まり、口元が僅かに綻ぶ。世界を嘲るのではなく、安心したように笑って――動かなくなった。
『姉様? 姉様!? 嫌です姉様、起きて! 起きてくださいまし! 姉様ああああ!! あああああ!!!』
ミーリツァの泣き声が、すっかり晴れて、皹も無くなった空に響く。
大陸の半分を揺るがしたフェルニゲシュの大戦は、こうして終焉を迎えた。
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