◆13-2
二つの陣が激突する、数日前のこと。
王都に設えられた崩壊神の神殿にて、熱に浮かされた老爺の声が響いていた。
「よし、病神の娘に、クレアチオネは食いついた。スリーゼニの娘も役に立ったものよ。ついに崩壊神アルード様が、この地に降臨されるのだ!」
大神官パウークは狂喜していた。己の策にまんまと忌まわしき始源神の憑代が釣られたのだ。この機会を逃す手はない。
本来ならば、アグラーヤではなく、彼女と自分の孫の子を憑代として使うつもりだったが、時間がない。自分の寿命が尽きる前に、なんとしても崩壊神の顕現を行わねばならぬ。
「漸く、漸くだ。仕込みに二十年を費やした。我等が作り上げた憑代がついに花開くのだ!」
狂気に血走った目を爛々と輝かせながら、大神官は聖堂の中で歓喜の声を上げる。
その床面に走った祝詞の溝には、既に血が満たされ巡っている。当然、パウークのものでは無い。辺りに倒れたまま、自分の血を全て流し切って動かない、彼の弟子達のものだ。
「神の血を引く王家だと? 愚か! 彼奴等は魔の眷属の末裔に過ぎず、神の栄光など欠片も背負えぬ! 故に我等が作り上げたのだ! 全ての理を壊し、世界を神代へと戻す偉大なるアルード様の憑代を!!」
本当に、長かった。素質がある者を見つけるのに半生を費やした。巨人の血を引く女児にその兆しが表れたのは業腹だったが、逃す手もなかった。
故に――その女児から、全てを奪った。
適当な理由を作り、母親と共に王都から遠ざけ、息のかかった者に襲わせた。無論、何か命令をしたわけでは無い。殺さなければ何をしても良いと、破落戸共に金を払っただけだ。
結果、彼女の母は狂い、父は絶望し、ただでさえ奪われ続けた彼女を底の底まで浚っていった。二人ともに、心を弱らせる薬を酒に混ぜて密かに飲ませていたものの、殆どは彼等自身の気質だ。否、寧ろ自分の敬虔な祈りがそうさせたのだと、パウークは本気で思っていた。
出来上がったのは、神を受け入れられるほどの、絶望の虚ろ。それを有した、ただ一人の女。この世全てを嘲り笑う、アグラーヤ・アジン・フェルニゲシュ。
「さて――誰か! 何をしておる、急ぎ陛下を連れてこい! 重大な儀式を行うとな!」
「大神官様」
唾を飛ばして扉の外へ声をかけると、するりと聖堂に入ってきたのは実の孫だった。
「おお、エリクよ。準備は出来た、早くアグラーヤを呼んで来るといい。千年続いた我等アルード教の悲願が、ついに達成されるのだ!」
高揚のままに口角から泡を吹き天を仰ぐ老体の喜びは、俗人には全く理解できぬものだろう。この国が出来るより遥か昔から信仰を培い、ただ神の復活という一点だけに命を費やしてきた老爺に、血を分けた孫であるエリクは僅かに微笑んで近づき。
どすり、と。
「はっ?」
間抜けな祖父の声を聴きながら、己の祈刃をその腹に突きこんだ。
「き、貴様、何を――ッ」
「おかしなことを仰る。あの方に仕える手足となれと、望まれたのは貴方ではありませんか、お爺様」
突然の忠実な孫が起こした乱心の意味が解らないらしく、白髪を振り乱してパウークは叫ぶ。
「すべては! すべてはこの時の為に用意したもの! あの女から全てを奪い、削りきり、我等の傀儡として神の憑代とする、これは我等の悲願であった筈だ! それを何故――」
その言葉を聞いて、エリクは初めて、心底不快そうに秀麗な顔を顰めた。
「ああ、そうとも。……あんたの悲願だからこそ、今この場でぶっ潰したかったんだ」
「え……エリク、我が孫よ。一体何を」
漸く目の前にいる者が、己の望みを叶えるつもりが全く無いことに気づき、パウークはよろよろと後ずさる。祖父のそんな姿に、孫は心底楽しそうに笑った。
「ああ――やっとあんたの声を聴かなくて済むと思うと嬉しくて仕方ない。嘗て修行と銘打って、薄汚い手で私を犯したお前を、苦しめて殺すことが出来るなんて素晴らしい」
「あ、あれは必要な儀式だったのだ! お前も解るだろう、いかに神官としての修養を積むか」
「黙れよ」
踏み込んできたエリクが、腹に刺さったままの祈刃の柄を掴んで突き込む。悲鳴が上がるが、誰も入ってこない。パウークの顔が段々と絶望に染まっていく。首から提げていた自分の祈刃は、引き千切られ放り投げられた。神に祈りを捧げることすら出来ない。
自分の悲願が、今まさに潰えようとしている事実を突きつけられた絶望。その一食に染まった愚かで哀れな老人の顔を見て、エリクは本当に楽しそうに微笑んだ。
「あんな悍ましい行為も、私が成人したら何事も無かったように振る舞ったのも、この穢れた体をあの方に捧げようとしたのも――あの方に、要らぬ絶望を与えたのも! 全て――全て許し難い。このまま寸刻みにして魚の餌にしたい程に」
「ならばっ、どうするというのだ! あのような、破滅しか齎さない女を、あのまま――」
怒りに血の泡を飛ばす老人以上に、エリクは激昂した。笑みが消え、声を荒げ、祖父へ飛びかかり抑え込む。
「貴様如きが! あの方のお心を慮るような真似をするなアアア!!」
ごりごりと骨まで削らん勢いで、祈刃をねじ込む。汚い悲鳴が上がり、エリクは一層うっとりとした声で告げた。
「……あの方は。私に全てを与えて下さった。お前の悍ましい鎖に雁字搦めにされていた私を、救って下さった。……血の繋がりや地位などどうでもいい、殺したい相手は殺せば良いのだと」
「ま、まて、まて、えり――」
「私の名はもう呼ばせない。そのまま、死んで行け」
ぐり、と刃を刺さったまま腹を縦に切り裂くように押し上げ、心臓にまで届けた。びく、びく、と枯れ木のような体が震えて、動かなくなる。
祖父の血に塗れながら、エリクは嗤う。その顔は――とても、愛する妻に良く似ていた。
「エリク様」
終わったことに気付いたのか、ぞろぞろと神官達が聖堂へ入ってくる。凄惨な現場を見ても、眉ひとつ動かさない。彼らはエリクにのみ忠誠を誓う神官であり、彼の意志に賛同した者達だからだ。
黒い神官衣に赤い色をべっとりとつけたまま、エリクは立ち上がり、穏やかに告げた。
「大神官は死女神に導かれました。これより、わがアルード教の神官は全て新しき大神官である私に従いなさい。……屍人兵の準備に入ります」
生きている神官は皆跪き、祝詞を唱え――倒れていた全ての死体が、黒い水晶に塗れてむくりと起き上がる。
しかし、己の命すら神に捧げられなかった老爺は、事切れたままぴくりとも動かず、捨て置かれた。
×××
「――っ、ぁ」
ようやっと、エリクは悪夢から這い出せた。汗だくの身を捩ってみるも、此処は王都ではない。戦場に建てられた、王専用の天幕の中、据え付けられた寝台だ。幼い頃の悍ましい経験を、また夢に見てしまった。顔を両手で覆って大きく息を吐く。
「嫌な夢を見たのか?」
「……アグラーヤ様」
隣に寝転んでいた妻が、ゆるりと身を起こした。月明かりに浮かぶ、一糸纏わぬ白い肌が艶めかしく、思わず息を飲んでしまう。
「申し訳ありません。……あれを殺せば、見なくなるかと思ったのですが」
醜悪なあの老爺が、寝台の中に自分を引き摺りこんで、思い出したくもない行為をさせられた。あれを殺したことを後悔などしていないが、死んでもなお己の魂にこびりつくあれが、心底不愉快で仕方ない。
「そうはいくまいさ。悪夢なんてものは、ずっと腹の底にへばり付いて、取れないものだ」
自分の腕を枕にして、いつも通り嗤いながら言う妻に、エリクは汗を拭ってそっと問いかける。
「貴女も、そうなのですか?」
「そうとも」
いっそ楽しそうに嗤いながら、アグラーヤは尚も続けた。大した事でも無いように。
「暴漢共に『娘を差し出すから私を助けて』と願い、泣きながら犯されたあの女は、気が触れて神殿の尖塔から飛び降り、脳漿をぶち撒けて死んだ。あの女を責め、拒みながら失ったことを嘆き、私に救いを求めたあの男は、背と首を切り裂かれ、血を噴き出して私の前で死んだ。その癖、何度も何度も、飽きるほどに出てくる」
おかしそうに両親の話を続けるアグラーヤに堪らなくなり、エリクは妻の体をそっと抱き寄せる。抵抗はなく、しっかりと筋肉がついているのに柔らかい体を支えた。
「……私に出来ることならば、貴女の悪夢を全て消して差し上げたい」
守るように、縋るように、腕に力を込めるエリクの耳元で、くつくつと嗤う音がする。
「その思いだけで充分だとも。もう少し寝るか?」
「いいえ。目が覚めました。――明日には、決戦ですね」
「ああ――」
そこで初めて、ずっと濁っていた筈のアグラーヤの青い瞳が、闇の中で僅かに煌めいたように見えた。悋気を押し殺し、エリクはその美しさを堪能する。
「ああ。漸くだ。漸くあれを追い詰めた」
彼女にそんな目をさせる、あの男が――王弟ヴァシーリーが、この手で殺したいほど憎くて仕方が無いけれど。己の細腕では出来ない事だし、何より為すべきことが自分にはある。
「……屍人兵は全て私にお任せください。ですので、どうか、」
抵抗の無い体を、再び強く抱き締める。離れることを、恐れるように。
「どうか――存分に。世界は必ず、私が壊します故」
耳元で囁かれる声に擽ったそうに身を捩り、アグラーヤはただ嗤う。
「さて、どうなるか。全ては明日、あれにかかっている。嗚呼――楽しみだ。楽しみだ」
その声は、贈物を待ちわびている幼子のようにも聞こえた。
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