病神
◆12-1
海と山を軽々とその翼で飛び越え、イェラキは進む。
クレアチオネと共にその背に乗ったツィスカは、自分の故国を眼下に捕え、既に違和感に気付いていた。
「……王都に向かう人が少なすぎます。近ければ近いほど、旅商人も多くなる筈なのに」
「へぇ、てっきりほぼ全滅しかけてるもんだと思ったけど」
都に近づくに連れて、旅人がどんどん減っていく。否、都から離れていく者はまだいるのだが、向かうものが少なすぎる。悪びれないクレアチオネの言葉に眉を顰めつつ、不安を込めて王都の空を見詰める。心なしか、暗雲に包まれているような気がした。
「――ツィスカよ。その神の爪先を掴んでしがみつけ。振り落ちるなよ」
「え? ――きゃ……!」
僅かな悲鳴を飲みこみ、隣の小さな体をぎゅうと抱き込む。突然イェラキの体が急降下を開始し、地面に触れるぎりぎりで再び飛び上がった。思わず閉じてしまった瞳をそっと開けると、黒雲がまるで蛇のように撓み、また元の姿に戻っていくのが見えた。
「あれは……」
「病神の虚仮脅しだ。だが――もう既に、顕現が始まっているのだろうな」
「……急いでください!」
「元より!」
ツィスカの悲鳴のような声に応えるように、竜人の翼は大きく広がり、風を孕み舞った。
やがて辿り着く、岳山の上に聳え立つリントヴルムの城。ツィスカにとって、離れていたのはほんの数か月の筈なのに、酷く余所余所しく感じた。――普段は城壁に詰めかけている筈の兵士が、全く居なかったせいだろうか。不倶戴天の竜人王が現れたと言うのに、矢玉の一つも射けてこない。
「――兄上と父上の鷲獅子が、屋上に居る筈です。そちらから城に入れます」
「ふむ」
ツィスカの声に、イェラキが鼻を鳴らし、城の一番高い塔へ降り立つ。屋根は平らになっており、鷲獅子が羽を休める小屋も立てられている。だが――その中の鷲獅子は、既に事切れていた。
「一頭しかいないね。これ、誰の?」
「……兄上のものです。この傷は、間違いありません」
目の端についた古傷は、イオニアスがこの鷲獅子を屈服させた時についたものだ。国一の速さを誇っていた羽は、殆どが無惨に抜け落ちていた。倒れ伏した体も、毛が抜けて皮膚が剥き出しになっている。そこには、膿んだような汁を流す発疹が浮き出ていた。あまりの有様に口を覆ってしまうツィスカに対し、クレアチオネは軽く言い放つ。
「あーあ、こりゃあ駄目だね。ほら、こっち」
「え? ――わっ」
無造作に指で呼ばれて振り向くと、鼻先にふっと息をかけられた。ほんの僅か甘い匂いがしたと思ったら、不意に空気が吸いやすくなったような気がする。
「これで病神の奇跡は防げる筈だ。早く元凶を叩くぞ」
「は、はい」
息を飲んで、後に続くツィスカだったが――すぐに、絶望に襲われる。城の中の者達は、屋上の鷲獅子のような病に皆、侵されていたからだ。
「こんな――」
「触らない方がいい。鼻と口は僕の祝福で一時的に守ってるからいいけど、触れたら皮膚から感染るかもよ」
思わず助け起こそうとした手を止めてしまった。それでも、城の中で数少ない、自分を案じてくれていた下女達の死体の前から動けないでいると、鱗に包まれた腕にぐいと引っ張られた。
「……すみません。行きます」
「ああ」
イェラキは何も言わず、それが逆に有難かった。
やがて、三人は玉座に辿り着く。そこには――更に、理解の範疇を超えたものが鎮座していた。
「こ、れは」
思わず両手で口を覆い、ツィスカは呻く。イェラキはぐるりと喉を鳴らし、クレアチオネは舌打ちをしただけだったが、それに不快感を思っているのは同じだっただろう。
リントヴルムの玉座の上には――死体と同じ痘痕だらけの腐った肉の塊が、鎮座していた。かろうじて、人と見える姿のものが、何人も折り重なって、融け合い、繋がっているのだ。あまりの悍ましさに湧き出る吐き気を堪えて、ツィスカは叫んだ。
「っ……父上!」
肉の一部に、鈍く光る王冠が埋もれていた。リントヴルムに代々伝えられていた宝冠に相違ない。恐らくこの肉塊は、この部屋にいつも詰めていた、王を初めとする重鎮達の成れの果てなのだろう。
「醜悪な。これが病神か?」
「違う。ただの贄だろう。シブカの毒気に中てられただけだ」
「……っ兄上は、兄上はどこに……!?」
まさかあの腐肉の塊の中に彼もいるのか。真っ青になったツィスカに、答えたは別の声だった。
「こ、ここにいるわよ。残念だったわね」
三人同時に振り向いたそこには――病神の聖印である鎖を首から下げ、黒い神官衣に身を包んだゾーヤがいた。その白い肌には疱瘡の一粒も無く、僅かに引き攣ってはいたものの笑みを浮かべている。そして――その腹は、子を孕んでいるのか、大きく膨れ上がっていた。嫁いでから、二か月も経っていない筈なのに。
「……ゾーヤ、殿。兄上は……どちらに?」
その姿とその笑みに、何故か背筋が寒くなりながら、それでもツィスカは問うてしまった。声の震えを止められぬまま。対するゾーヤは、心底勝ち誇った笑みを浮かべて――自分の腹を愛おしげに撫でた。
「ここに、いるわよって、言ってるじゃない」
言っている意味が解らず――否、解ってしまって、ツィスカの体がふらりと傾いだ。その身をぐいと引き寄せてやりながら、イェラキが不遜な声を崩さずに問う。
「女。貴様か、貴様の腹の中か、憑代はどちらだ?」
「よりしろ? そんなの、知らない、わ。もうこれで、このひとは、私だけを見てくれるもの」
ゆらゆらと膜が張っていたような彼女の瞳が、嗤う。ただただ、幸福そうに。
「シブカさまが、そう仰っていたわ。なくしたくないものは、お腹の中に飲み込んで、守れば良いって」
べろりと、人としては有り得ない程長い舌で唇を舐めるゾーヤに、ツィスカは戦慄する。つまり、あの、腹の中に。
「僕の足止めの為だけに、どれだけ面倒な奴! くそ、おいお前! 腹の中の奴を起こせ!」
「えっ……?」
不意に背中をクレアチオネに叩かれて、ツィスカは驚く。白い少女は不機嫌そうな顔はいつもと同じだが、いつになく焦っているようだった。
「まだ魂が消えて無い、その腹に呼びかけろ! こいつを完全に人では無くせ! そうすれば僕が封印出来るから!」
その言葉に、気づく。これが、彼女がツィスカを連れていくことに了承した理由なのだと。そしてどんな悍ましい状況でも、兄を助けられるというのなら、否は無かった。
「――兄上! そちらにおわすのですか!? 私です、ツィスカです。恥ずかしながら、戻って参りました!」
ツィスカの声に応えるように、ぶるりとゾーヤの体が震え、同時に彼女が怯えたように後ずさる。
「嘘。嘘よ。もう私が食べたもの、あんたになんか絶対渡さない!」
「兄上! 私の声が聞こえますか!? いまやリントヴルムは千々に乱れ、導く者が必要です! その役目は、兄上にしか果たせませぬ! どうか!!」
ぼこり、とゾーヤの腹が暴れた。それを押さえこむようにゾーヤは腹を抱え、その場からよろよろと逃げ出そうとする。
「――逃がすか、戯け!」
「ひっ……!」
ごう、と火が巻く。イェラキの吐いた炎が床を滑り、ゾーヤを囲むように広がった。怯えたように縮こまるゾーヤに、ツィスカは尚も叫んだ。
「私は何も出来ぬ未熟者ですが! 兄上の為ならば命も、何もいりませぬ! お願いします、――戻ってきてくださいませ……!」
「ぉ――ぁ――」
ゾーヤの口から、彼女とは違う低い声が僅かに漏れた。慌てたようにゾーヤが両手で口を塞ぐが、腹が代わりにぶるぶると震え続けている。
「やめ、やめてやめてやめて――このひとはもう私のものよ!!」
怯えながらもその傲慢な言い草に、我慢できずにツィスカは訴えた。
「兄上は誰のものでもありません! 貴方が兄上を愛しているとしても、兄上の望まぬ姿に押し込めるのは、止めてください……!」
「うるさい! うるさい! うるさい!!」
恐慌し、子供が駄々を捏ねるように足踏みをするゾーヤに、どうすればと唇を噛んだ時。
「――行け。あれの腹を切り裂け。後は神の爪先が事を成す」
背をぐいと押されてから、イェラキに手渡されたのは、竜の爪から削りだしたような、酷く無骨だが鋭い湾曲した刃だった。しっかりとそれを握り締め――ツィスカは駆け出す。僅かな距離だ、二歩、三歩で間合いに踏み込める。
「い、いや! 助けて、シブカさ――」
「遅いよ」
ゾーヤが咄嗟に神へ祈りを捧げようとするが、クレアチオネが許さない。彼女が裸足で石造りの床をぺたりと踏んだ瞬間、そこからまるで蜘蛛の巣のように広がった光の網が、床から伸びあがって彼女の体を絡め取る。そして竜の爪が――ゾーヤの腹に届いた。
「ぎっ――」
悲鳴と共にどぶ、と大量の血が湧き出て、ツィスカの肌に纏わりつく。悍ましさを堪え、躊躇わずに、その腹の中からまろび出て来た、自分に伸ばされた腕をしっかりと掴み、思い切り引いた。大きな体を抱き寄せ――腰を再びイェラキに引っ張られ、倒れる。
「……兄上ぇっ!!」
腕の中の身は既に、足先がぐにゃりと融かされており、最早人としての姿も崩れかけていたが――ツィスカには、愛する兄の姿だと、すぐに解った。せめてこれ以上崩れぬようにと、自分の身が血と腐汁で汚れるのも構わずに抱きしめる。
「やめて、やめろ、やめろやめろやめろ! 返せエエエエエッ!!!」
「五月蠅い」
怒りと恐怖に震える声が、クレアチオネの静かな声で遮られる。ツィスカが顔を上げた時には既に、網と言うよりは組まれた足場のような、広間の半分以上を覆う巨大な光の骨組みの中に、ゾーヤは囚われていた。
「その執着は、病神シブカの余波に過ぎない。お前は生まれてこの方ずっと、憑代として選ばれていた。お前の気持ちなんて、どこにもない」
「うそ、うそ、うそうそうそうそ」
クレアチオネの言う言葉は、恐らく真実では無いだろう。だが、余りにも神に同調し、揺らぎ始めているゾーヤの魂には覿面に聞いた。四肢を折り畳まれ、瞳から腐汁の涙を流しながら、現実を拒み続ける。
「神に応えたものはもう戻れない――神にしかなれない。故に、始源神イヴヌスの名において、病神シブカを糾弾する」
そして、クレアチオネの声が変化していく。少女の声がまるで若々しい男のような清冽な声に代わり、容赦の無い判決を告げる。
「貴殿の罪は三つ。忌まわしき崩壊神と魔女王の間に生まれ落ちたこと。その母を疎み、育ての母にその命を捧げたこと。そして――生きている限りこの世に病毒を撒き散らすこと。罪を償い、今暫し眠れ」
光の檻が少しずつ縮んでいく。ぎしぎしと体ごと折り畳まれ、既にゾーヤは――ゾーヤであったものは悲鳴も上げられない。
檻はどんどん縮み、掌に乗せられるほど小さくなって――そして、ことりと二十面体になって焼け焦げた床に落ちた。その時には既に、イェラキの炎も消えていた。石造りのおかげで、類焼はしなかったらしい。
「終わったよ。これで少なくとも、僕がこれを持っている間は、病神は顕現しない」
「……殺した、のですか?」
「始源神に誰かを殺すことは出来ない。封じただけだよ」
「ゾーヤ様、ごと……?」
「あれはもう神の憑代に成り果てていた。そうでもなけりゃ、人間一人を腹に飲み込むなんて芸当出来ないよ。……イヴヌスが人間を好きでなけりゃ、こんな面倒なことしなくて良かったんだ」
小さな掌の上で、僅かに輝く多面体を転がしながら吐き捨てるように言う、この大陸一の神官にして神の憑代に、かける言葉を失った時。ツィスカの腕の中で、イオニアスが僅かに呻いた。
「ぁ……兄上!?」
「……、……すまない」
その瞳に最早光はなく、何の像も結んでいないようだった。それでも妹の声は彼の耳に届いたらしく、震える唇を動かして詫びを伝えた。
「何故、何故、兄上が謝るのです? 悪いのは私です、何も言わずただ諦めて、全部兄上に背負わせてしまったから――」
「ツィスカ……、お前、だけは」
肉が腐り落ち、骨が覗いている腕が、頬にほんの僅か触れた。ツィスカの喉が震え、子供の頃から暫く流していなかった筈の涙が、零れた。
「あに、う」
「どう、か、しあわせ、に」
言葉が途切れた。ずるりと、腕が――肩から崩れて床に落ちる。その体もまた、ぐずぐずと崩れていき――イオニアスだけでなく、城に残っていた肉塊全て。病神の奇跡によって命を奪われ、人ならざるものとなって存在を許されていた者達は、その神が封じられたことにより、皆何も残さず、溶けて崩れ落ちた。
「――どうしてッ!!」
耐え切れず、ツィスカは叫んだ。腐肉が散らばった床に爪を立て、僅かでも残滓をかき集めるように。一度堰を切ってしまった涙は止まることを知らず、汚れた床に落ちていく。
「どうして、兄上が、死ななければならないんですか!? わたしが、私が代わりに死ねばよかったのに……!」
彼女にとって、この国に必要なのは間違いなく兄だ。足を引っ張ってばかりの自分ではなく、彼が生き残るべきだと本気で思った。もう何も残っていない床を掻きむしって嘆くツィスカに、表情を変えぬままイェラキが告げる。
「死に理由なぞない。死そのものは、死女神にすら決められぬもの」
「そんな、そんなの――ッ」
「嘆くのは良い。我とて、一の妻を亡くした時も、二の妻の子を殺された時も嘆き悲しんだ」
ぐいと腕を引き上げられ、僅かな抵抗も許されなかった。咄嗟に相手を睨み付けると、大きな赤の瞳で睨み返された。
「だが、一の妻は命と引き換えに、ククヴァヤを我に授けた。二の妻の子は、最期にこの国の長の首を取る手柄を上げた。お前は、この男から何か得るものは無かったか」
竜人の硬い胸に引き寄せられ、冷たい鱗が頬に触れる。思ったよりも静かな声が頭の上から降ってきて、頭の中の熱が少しずつ抜け落ちていく。
「――全てを」
頬を伝う涙も、少しずつ冷えていくようで。大切な宝石をそっと包むように、ツィスカは囁いた。
「全て、頂きました。優しさも、慈しみも、全て」
この想いだけは、誰にも奪われたくなくて、ぎゅうと己の体を抱きしめる。一瞬だけ、慰めるように竜人の爪の背が、濡れた頬を撫ぜた。
「ならば、忘れるな。それだけで良い。生者はそれしか、出来ん」
「……、は、い」
また新しい涙が零れそうになるのを堪えて、頷く。突き放すような言葉だが、却って覚悟が決まった。少なくとも今は、嘆き続けていることは出来ないのだから。
そんな二人の姿を、心底詰まらなそうに、掌の上でゾーヤだったものを転がしながらクレアチオネが告げる。
「……愁嘆場は苦手なんだってば。さっさとここの病毒を全部祓って合流するぞ。もし崩壊神が顕現したら、これぐらいじゃ済まなくなるんだからな!」
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