◆10-2
「――そして、今に至ります。ヴァシーリー殿、我が国……いえ、リントヴルムの汚点を晒すようで、恥を覚えますが。どうか、タラカーンを止めて頂きたいのです。これ以上、竜人との戦を徒に広げることはなりません……!」
絞り出すように告げて、ツィスカはふらりと体を傾がせる。その体は良く見るとあちこちに火傷が残っており、同時にその傷口が銀色の鱗で塞がり始めているようだった。
「竜人の血を浴びて、体が竜人に近くなったんですねぇ」
「そんなことが、可能なのか?」
『普通の竜人じゃあ無理だろうな。原初の七竜の血を引いているこいつだから如何にか出来た話だ』
伝えるべきことを告げて、漸く張っていた気を僅かに緩めたらしく、くたりと体の力を抜くツィスカを辛そうに見届ける。
そして改めて、ヴァシーリーはイェラキに向かい合った。
「……イェラキ王。此度の件は全て、我が国の不徳の致すところ。必ずや下手人を上げ、かどわかしにあった者達を出来うる限り助け出そう。だが今、我が国は内に乱れ――」
誠意を伝えようとするも、ツィスカを抱えたままの竜王は、煩そうに手を振って答えた。
「解っている。巨人の国と、鷲獅子の国。どちらにも神の憑代が生まれる気配がある。あれを取り除かねば、我等が同朋を救う術もあるまい」
不意に意味の繋がらないような話を出されて、ヴァシーリーは混乱する。巨人の国はフェルニゲシュ、鷲獅子の国はリントヴルムを刺すのだろうが。やはり意味が不明だったのか、訝しげに声をあげたのはクレアチオネだった。
『鷲獅子の国も? ちょっと待て、誰だよ』
「なんだ、千里眼を持つ始源神の憑代でも、気づかなんだか。覗き見は得意な癖に、見たものしか信じぬ愚かな奴よ」
ふんと鼻を鳴らす竜人の王に、クレアチオネがむすりとしたまま返す。
『……どう考えても、次はフェルニゲシュの王じゃないか。あるいはそいつの子だ。他に誰が――待てよ? 病神か?』
何かに気付いたようにクレアチオネが表情を変えるが、ヴァシーリーとツィスカには話の展開が全く掴めず、飛び交う言葉に目を瞬かせている。しかし、コーシカは顔を青くして、不敬も忘れて声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!? 嫌ぁな予感がするから確定情報が欲しいんですけど、――神降ろしが起こるんですか?」
「神降ろし……?」
『少なくとも、フェルニゲシュの大神官の目的はそれだ。……成程な、考えやがった。おい鱗、病神が先なんだな?』
「病神……あの女か! ああもう、馬鹿か!?」
「コーシカ、落ち着け。説明をしてくれ」
クレアチオネの言葉にいよいよ頭を抱えてしまったコーシカに、我慢できずヴァシーリーは問うた。自分が仕えるべき相手の言葉にはたと我に返った猫が、ばつが悪そうに身を縮める。
「あ……すいません、シューラ様。ええとつまり、大神官の野郎の目的がはっきりしたんです」
頬を掻きつつ、忠実な猫は俄かには信じがたい事を口にした。
「アグラーヤ様か、ゾーヤ様……リントヴルムに嫁いだあの方を、神の憑代として使うんです。本物の神様を、この世界に降ろすんです」
×××
――まず最初に、始源神イヴヌスが在った。
彼は世界を作る為、7体の竜と7柱の神を生んだ。
炎を孕む大地を海原が包み込み、神に仕える為の新たなる命が生まれた。
しかし、命は増えすぎ、世界は膨らみ過ぎた。
始源神は困り果て、全てを壊す神――崩壊神アルードを生んだ。
アルードは地の底に住む魔女王を妻に迎え、暴虐神アラム、病神シブカ、死女神ラヴィラを産ませた。
アルードは子神達と共に大地を蹂躙し、全てを無に帰した。
そしてイヴヌスはアルードとその子神達を封印し、再び世界を創り上げた。
これこそが世界の理である。
×××
この大陸ならどの国でも知られている創造神話に軽く触れてから、物凄く嫌そうな顔でコーシカは続けた。
「あの爺――パウーク大神官の野郎は昔から、始源神に追いやられた神々の復活を声高に叫んできました。始源神に封じられた崩壊神の一派を、相応しい人間を憑代にして復活させるっていう」
「馬鹿な。そんなことが――出来るというのか?」
『出来るよ』
一言でクレアチオネが肯定した。自分の胸元を親指で差しながら言われて、その事実に否が応でも気づかされる。彼女も、神の憑代として他国で崇められている身であり、言葉一つ発することなく奇跡を顕現できる存在である。
『うちの神官共は皆憑代だ。神を降ろすこと自体に大がかりな儀式なんて必要ない。奇跡を使うこと自体が、神にその身を捧げることになるのは、崩壊神を奉じる奴等も同じだろ? その中で、素養のある――つまり、神って奴を受け止める器のある奴が、いずれ神になる。それだけのことさ』
クレアチオネの声音は冷静だが、その顔は何時にも増して不機嫌だ。事実として認めてはいるが、それが許せない、というように。
『アルードとその子神達が、邪神と呼ばれる訳を教えてやろうか? 奴らは八柱神によってその身を封じられているが、その抜け道として信徒に声をかける。更なる力を与えてやるから体を寄越せ、ってね。それに了承を返しさえすれば、そいつの体は神に乗っ取られて――暴虐、病、死、そして崩壊をこの世に齎すんだよ』
滔々と語るクレアチオネの言葉に、竜人の膝に抱かれたままのツィスカが顔を青くしながら囁く。
「病神……もし、リントヴルムにそれが顕現されたら、国は、民は――どうなるのでしょうか」
「病神シブカ――世界を巻き取り海の底へ沈める蛇の顕現。山河は病毒に侵され、如何なる命も満遍なく刈り取られよう。全て大蛇の腹の中よ」
「なんてことを……!」
淡々と説明するイェラキの言葉に、がたがたと震えるツィスカを案じつつ、ヴァシーリーはどこか冷静に考える。あまりにも突拍子もない話に実感が湧かないこともあるし、どうしても理解できない部分もあったからだ。
「崩壊神を、姉上に降ろすと? そも、何故そんなことをするのだ。神話を見る限り、崩壊神の顕現は即ち、世界の終わりではないか」
「至極、同感だ。己の支配者を蘇らせることを何故神人は望むのか、理解に苦しむ」
『上に誰かいないと安心しない人間なんて、山のようにいるんだろうさ』
「それに、どうせいつか甦るんなら早い方がいいとでも思ってるんじゃないですかね? 私が一番忠実ですよぅ、という阿り込めて」
頷くイェラキ、嘲るクレアチオネに続いて、コーシカが言った言葉に一瞬全員沈黙する。
「――ふむ。納得がいく理由だな。貴様、聡明ではないか」
『うん、僕もちょっと納得したな、悔しいけど』
「俺だって嬉しくないですよーぅ」
大神官の事を思い出しているのか、コーシカは渋い顔だ。嘗て彼に逆らって危うく処刑されかけた身としては、許せるものではないのだろう。労うように猫の背を軽く叩いてやってから、改めてヴァシーリーは問うた。
「……まずは、考えよう。クレアチオネ猊下、本当に神がこの地に降ろされるとして、それを止める方法はあるのか?」
『あるよ』
またあっさりと言われすぎて、逆に出鼻を挫かれた。ヴァシーリーとツィスカの縋るような視線を受けて、何でも無いことのようにクレアチオネは告げる。
『僕が直接、神の憑代と相対して封じ込める。僕だって始源神の憑代だ、そして絶対に崩壊神とその眷属は始源神に勝てない。その理は神が生まれた時から決まり切っている』
「神話の通りって奴ですか。ますます甦らせる理由が不明になるんですけどもぅ、まああの爺ならやりかねないっていうか」
詰まらなそうに言い捨てるクレアチオネに頷きつつも、自分の体をそっと撫でて、コーシカがぼやくのをヴァシーリーは眉間に皺を寄せて聞いた。この猫が、神殿で虐待まがいの修行を受けていた理由も、崩壊神の妻として顕現させる為だった、と昔聞いたからだ。あくまで信仰の中の儀式であるだけだとヴァシーリーは思っていたのだが、まさか本気だったとは。
クレアチオネはコーシカの機微に気づくことなく、心底不快だと言わんばかりの顔でぼそりと告げた。
『ただし、遠見じゃなくて、僕が直接行かないと干渉は出来ない。……鱗、力を貸せ』
「ほう? 珍しいではないか、覗き魔の爪先が随分と前のめりに」
面白そうに尾を揺らす竜人の王を睨みつけながら、尚も続けた。
『アルードの好き勝手にやられるのなんて真っ平御免だね。お前の羽なら、一日で僕の体を拾ってリントヴルムまで行けるだろう。それで病神の方は何とかする。ヴァシーリー・ドゥヴァ・フェルニゲシュ、お前はその間にフェルニゲシュの王都へ向かえ。僕が辿り着くまであの女を抑えろ』
「吾がそれを聞く謂れは無いが?」
己の目的と合致していて否は無い為、ヴァシーリーは素直に頷いたが、いっそ愉快そうにイェラキが告げる。どうも、いつになく食いついてくるクレアチオネをからかっているらしい。全力で罵声をかまそうと息を吸う皇国猊下へ手を翳して抑え、改めてヴァシーリーは一歩進み出た。
「では、交換条件としよう。――タラカーンを捕え、我が国に奴隷として囚われた竜人達を救出する。出来る限り生きての奪還を、命を奪われたものには最大限の保証を約束する」
「大きく出たな。国を追われたに過ぎぬ者が如何に行うと?」
イェラキの当然な嘲りを受け、一歩も退かずヴァシーリーは宣言する。
「故に、私がアグラーヤを退け、王となるまで待って頂きたい。アグラーヤに任せていれば、奴隷商人どもは地へと潜っていくだけだ」
事実、今のままではタラカーンを厳罰に処すことは出来ない。空手形しか出せないのを承知の上で、退くわけにはいかなかった。
「成程、巨人の国の末裔は随分と傲慢だ。故に貴様に力を貸せと?」
「然り。この地を総べる王である貴殿に向けて、いずれフェルニゲシュを総べる王となる私が約束する」
拳を握り、左胸に当ててはっきりと誓う。――既に覚悟は決めている。例え簒奪者の誹りを受け、どれだけの血を流そうと、姉の歩みを止めるにはこれしか方法が無いと理解しているからだ。
ぐるるる、とまた竜の喉が低く鳴った。どうやら、笑ったらしい。
「――良いだろう。乗ってやる。吾とて、神が再びこの地上を総べるのは我慢がならぬ。そしてもう一つ――貴様には借りがある」
「借り?」
不意に心に引っかかる言葉を言われて驚くヴァシーリーから視線を逸らし、イェラキは大口を開けて叫んだ。
<ククヴァヤ!!>
<こちらに!>
ずっと洞の隅で控えており、竜人語で答えた実の子へ、イェラキは傲岸な響きの声で告げた。
<五十翼、戦士を連れて行け。あの忌まわしき男の地を蹂躙し、貴様の誇りを取り戻せ!>
<ただちに!>
竜人語は殆ど聞き取れなかったが、勇ましい吠え声と共に翼を広げて洞の天井に向かって飛んでいくククヴァヤを見送れば、彼が戦いを命じられたのが理解できた。改めて、イェラキはヴァシーリーに向かって告げる。
「貴様が動かなければ、我等は仇名す相手を違えたままであり、我が子の命を失うやもしれなんだ。その借りは必ず返そうぞ」
「……有難く!」
『最初からそうするつもりだったんじゃないか、勿体ぶるなよ』
「まぁまぁまぁ」
頭を下げるヴァシーリーの後ろでぼやくクレアチオネをコーシカが宥めているうち、ツィスカがどうにか起き上がった。
「わ――私も! お願いいたします、私も、リントヴルムにお連れ下さい!」
洞の中に沈黙が落ち、誰よりも先に口を開いたのはイェラキだった。
「何故だ? あの国は既にお前を見捨てた。ならばお前があの国を見捨てても、何の罪もあるまい」
優しさすら籠っているように聞こえる竜人の言葉に、ツィスカは確りと首を横に振った。
「……いいえ。国が私を捨てたとしても、私の祖国はリントヴルムです。只の道化であり、何も出来ぬとしても……私には、守りたい人が、民が、あの国にいるのです。その誇りだけは、捨てられません」
今にも倒れそうな、異形と化しかけた体をどうにか支えながら、それでも立つ彼女に、竜人の王はぐるりと瞳を回し。
「――ようやっといつもの顔に戻ったな」
鼻息と共に、満足げにそう言った。戸惑うツィスカの前でゆらりと巨体を立ち上げ、大口を開けて朗々と告げる。
「馬に跨り、我に向かって槍を振うお前の顔だ。悪くない、許そう。共に来い、ツィスカ」
「――感謝を」
ほんの僅か安堵で弛んだ頬を隠すように俯き、ツィスカが頭を下げた。
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