竜人の国

◆10-1

 遠い北東の海に浮かぶ険しい岩山の島に、竜人達の国がある。辺りの海は荒く、岩礁が非常に多い為、人間の使う船では中々近づけない。だが竜人の翼ならば、たったの半日で超えることが出来た。

「自力で掴まっていろ。落ちたらそのまま置いていく」

 容赦の無いククヴァヤの言葉に従い、ヴァシーリーは四肢でしっかりと竜人の背にしがみついて海を越えた。鞍もない、鱗の背に膂力だけで掴まるのは中々に辛い。

「しかしまさか、竜人の国に行く羽目になるとは、本当シューラ様についていくと初体験ばっかりですねぇ!」

 そんなヴァシーリーの四つ這いになった体と、竜人の間に大人しく縮こまっているコーシカが大声を上げる。風の音が強くて、声をあげないとこれだけ近くても耳に届かないのだ。

『あの偏屈な鱗の欠片が、一体どう言う風の吹き回しなんだかね』

 連れにはもう一人、竜人に併走するように飛ぶ、半透明の体を揺らしたクレアチオネがいる。彼女の本体は、進軍中の輿の中で眠り続けている。

「便利ですねぇその奇跡! 全世界見放題じゃないですかぁ! ていうかあんたまでこっち来ていいんですかぁ!?」

『僕はいることになってるから問題ないよ』

 兵の動きは、ドロフェイとグァラに任せている。戦時中に総大将とその後援者が二人そろって本隊から離れるのは本来有り得ないことで、グァラにも不満げに眉を顰められたが、今の状況で竜人まで敵に回す愚は避けねばならない。竜人達の思惑がどこにあるか今は不明だが、タラカーンと争っている状態ならば敵にはならないだろうというヴァシーリーの推論にリェフも同意し、最終的にグァラも押し切られた。

「――貴様は呼ばれざる客人だ、神の爪先め」

 ククヴァヤの方は、どうもクレアチオネの存在に思う所があるらしく、低い声を出している。勿論、対する白い少女は気にした風もなく、風に白い髪を好きなだけ遊ばせながら、鼻をふんと鳴らして嘯いた。

『僕の行く先は誰にも止められないよ。竜の残り香共にわざわざ会いに行ってやるんだ、感謝しろよ』

「貴様……」

「すいませんこの状況で喧嘩やめてくださーいー!」

 尚も言い合いを続けようとしたので、耐え切れずにコーシカが声を上げる。宥めるようにどうにか片手だけで頭を撫でてやると、幸いすぐに機嫌は直ったようだったが。

「……すいません、シューラ様」

「何、気にするな」

「いえその、無理やりついてきてしまいまして」

 主の胸に顔を埋めるようにした猫が、ぽつぽつ呟く。確かに、竜人が指名したのはヴァシーリーのみだが、流石に彼一人を竜人の巣窟に向かわせるわけにはいかないと、護衛の話が出た瞬間に手を挙げたのがコーシカだった。勿論、一番相応しい相手だと、近衛達だけでなくヴァシーリー自身も思っていたので全く問題なかったが。

「お前以外に、誰がいるのだ」

 耳元でぼそりと真意を告げてやると、びくりと猫は震えてその後動かなくなった。落ちると拙いので、もう一度細い体をどうにか抱え直す。

 そうこうしているうちに、断崖で四方を囲まれた巨大な岩山が現れた。

「あの穴が我が父の住処に繋がっている。頭を下げろ」

 悲鳴を上げる間もなく、縦にひらいた岩肌の隙間に体を傾がせながら竜人が飛び込む。体が触れるかもしれない狭い中を飛び抜けて、広い洞に出た。

 太陽に通じる穴は細い筈なのに、洞の中は驚くほど明るかった。壁自体が光を保っているようで、その壁に沿うようにククヴァヤは翼を大きく広げ、ゆっくりと床に下りていく。

 洞の中心に、様々な植物の葉や蔓で設えられた、まるで鳥の巣のような高台がある。それが竜人の王の玉座であり、ククヴァヤよりも優に数倍は巨大な竜人が、胡坐を掻いて鎮座していた。

 鱗は鈍く光る銀色。その上に刻まれた数多の傷は、彼が勇敢な戦士の証なのだろう。大きな翼で体を包み込むようにしており、何かを膝上に抱えているように見えた。

 その前に降り立ち、ばさりと翼を閉じたククヴァヤが、背中の者達を下ろす間もなく床面に膝をついた。

<父、イェラキよ! 申し訳ない、要らぬ者まで連れてきてしまった!>

 彼の発する声は馬の嘶きのような、言語化し辛い音だった。どうやらこれが、竜人の会話であるらしい。幸い、答えを返す竜人は客に対しての気遣いか、はたまたクレアチオネに対する意趣返しの為か、息子よりも流暢な共通語を喉奥から発した。

「――構わん。その覗き魔を止める等、無駄な事」

 ぐるりと喉を鳴らし、巨大な竜人の王――イェラキは鷹揚に告げた。笑ったのかもしれない。そしてそこで初めて、ヴァシーリーは、彼の胡坐を掻いた膝の上に、羽毛で編まれた毛布のようなものに包まっている人間がいることに気付いた。

「――ツィスカ殿!」

 思わず声を上げてしまったが、彼女はぴくりとも動かない。最悪の想像をしてしまうが、イェラキは無作法をしたヴァシーリーに構わず、僅かに目を眇めて答えた。

「案ずるな、生きておる。一時は危険だったが、我の血を与えた。――最早己には帰る場所も無い、と譫言を囁いておったのでな、ならば我が貰うとしたまで」

 両目を閉じたツィスカの頬を、爪を当てないよう指の背でついと撫でながら、イェラキはどこか面白そうに言う。その言葉にヴァシーリーは驚いたが、クレアチオネもほんの少し興味深そうに眼を瞬かせ、それでも嘲りの笑みを浮かべて言う。

『へぇー。よっぽどお気に入りなんだな、そいつが。一体どういう風の吹き回しだよ、世界の肉片でしかないお前らが』

「貴様には解らぬだろうな、神の爪先にすぎぬ者よ」

 目も合わさず言われて、流石のクレアチオネも鼻白んだようだ。どうも竜人と彼女の間には、一筋縄ではいかない確執があるらしい。ただ他者を見下すのとは違う、相容れなさが言葉の端々に感じ取れた。

 紅玉のような赤い目をぐるりと回した巨大な竜人は、そこで漸く客人へと鼻先を向けて口を開けた。

「巨人の末裔、よくぞ来た。では起きよ、我が血の果て。お前が望む者を連れて来てやったぞ」

「……ぅ……ぁ」

 小さな呻き声が聞こえ、はっとヴァシーリーは竜王の膝を見る。ほんの僅か、ツィスカの伏せられた瞼が震え、その下から赤みがかった茶の瞳が見えて――驚愕に揺れた。

「ヴァシーリー、殿!? こ、れは、無礼をっ……」

 よろめきながら立ち上がろうとして、体に力が入らないらしく、また竜人の膝の上にへたりと座り込んでしまった。裸の肩から一糸纏わぬ姿が晒されかけて、慌ててヴァシーリーは目を逸らそうとするが、見過ごせぬものに気付いてしまった。

「ツィスカ殿――それは」

 彼女の皮膚は、その半分ほどが、竜人の長に似た銀色の鱗に覆われていた。まるで、傷を癒す為の瘡蓋のように。

「も、申し訳、ありません……このような体たらくで……」

 よろめきながらも、恥じらうように自分の体を隠そうとする彼女を、まるで玩具のように軽々とイェラキが抱き寄せた。くるりと羽毛で包み直し、膝の上に寝かせる。ツィスカも先刻とは別の意味で恥ずかしそうだが、抵抗できるほどの力も無いらしい。

「ツィスカ殿、無理をせず。まずは、ご無事で何よりだ」

「い、いえ……」

 竜の腕に抱き込まれたままのツィスカは心底申し訳なさそうに体を縮め、羽毛布に潜り込む。その下から恨みがましい目で竜王の顎を睨み付けた。

「感謝は、しますが……何故、すぐに起こさなかったのですか」

「まだ血が馴染んでおらぬのだろう。今はゆるりと休め。そしてお前が伝えるべき言葉を伝えるが良い」

「――っそうでした。ヴァシーリー殿、どうかお耳に入れたいことが」

 また体を起こそうとするツィスカを手で制しながら、イェラキに目線を動かして了承を得る。鷹揚に頷いた竜王に頭を下げて、玉座の傍に座り込んだ。

「話してくれ、ツィスカ殿」



 ×××



 一ヶ月前。即ち、ヴァシーリーとコーシカ、そしてミーリツァがアブンテを追われてすぐのことだ。

「父上! ――本気ですか! ツィスカをフェルニゲシュへ嫁がせると!?」

 リントヴルムの会議室で真っ先に声を荒げたのは、イオニアスだった。

「何を騒ぐか。以前から決めていたことではないか、ツィスカの嫁ぎ先は」

「それはシューラが相手である前提の納得です! 貴賤を問いたくはありませんが、タラカーン将軍は貴族位を持たぬ、己の腕だけで大将軍まで伸し上がった男であると伺いました。その強さに敬意を表しても、我が国の姫に相応しい地位とはとても思えませぬ!」

 ばん、と円卓を叩いて尚も言い募る息子に、王は不機嫌そうに眉を顰めながら吐き捨てるように告げた。

「そのヴァシーリー殿下が、現王へ反逆したという汚名を着せられたのだ。我等とて女王が治める国に従うは業腹だが、今は拙い。まずは我等が二心なしと示す為、その為にツィスカに役に立ってもらわねばならぬ。――であろう、ツィスカ。お前はその為に存在するのだから」

「父上! 貴方は其処まで――」

「兄上、良いのです」

 イオニアスの怒りの声を止めたのは、他ならぬツィスカだった。珍しく会議場に入ることを許された彼女は、父の目的がこれであったことに既に気づいていたのだろう。ほんの僅か寂しげだけれど、粛々とした笑顔で頷いた。

「勤めを果たして参ります。父上、兄上、皆様方。今まで大変、お世話になりました。どうか私の部隊の者達は、よしなにお願いいたします」

「案ずるな、お前にはもったいないほどの強兵達だ。国を守る一助としよう」

「父上!」

「くどいぞイオニアス。本人が認めているのだ、何の問題もあるまい」

 歯を噛み締めて、イオニアスは周りを見渡すが、彼に追随する者は一人もいない。皆、王家の女の役目などそれ以外に思いつかないのだ。竜人達との戦を国境で食い止めていたのは彼女であるのに!

 憤りを込めたまま妹の方を見ると、ツィスカはやはり――諦めたように、微笑んでいた。



 ×××



 自分の母の事は、ツィスカ自身もよく覚えていない。父はいつも竜人との戦に夢中で、顧みられることは無かった。城の中の男達は皆、「二人目が娘とは、使えない女だ」と密かに囁き合っていて、それはツィスカの耳にすら届いた。……わざと聞かせていたのかもしれない。

 城の中はどこも息苦しくて、兄の部屋に逃げ込んだ。兄の邪魔をするなと周りの者達や父にもまた叱られたけれど、兄だけは自分を邪険に扱わなかった。

 彼にもっと近づきたくて、役に立ちたくて、槍を習い、馬に跨った。王女が下手な遊びをしていると、陰口は聞こえたけれど。

 兄の乗る鷲獅子に自分も跨ろうとして、嘴で噛まれたのもこの頃だ。兄は庇ってくれたが、誇り高い鷲獅子が自分の主以外を軽率に乗せるわけが無いと、槍の指南役にすら呆れられた。また、自分は間違えてしまった。

 どうしようもない、出来の悪い妹を、兄だけは慈しみ、守ってくれた。それが嬉しくて、嬉しくて――抱いてはならない感情に、気づいたのは何時だっただろうか。

 毎年、短い夏にこちらを訪れてくれていた、ヴァシーリーが指摘してくれた時だろうか。

「ツィスカ殿は、イオニアスの事が本当に好きなのだな」

 今よりも随分幼い顔で、笑って言われたのを覚えている。その後すぐに、自分は取り乱し、号泣してしまった。彼は絶対に誰にも言わないと約束してくれたけれど、重荷を増やしてしまったようで却って申し訳なかった。その後すぐに彼の父王が亡くなり、リントヴルムに中々来られなくなってしまったから、尚更。

 己の中にあるこの気持ちは、美しいものではない。他に縋ることが出来ない縁を、手放したくないと嘆きしがみつく執着だ。こんな悍ましいものが、愛である筈が無い。

 捨てなければいけないと解っているのに、他の者達の嘲りが、誹りが、聞こえる度に、削られる心を護るようにその思いが膨れていった。このままでは駄目だと、都を離れ本格的に軍に入ることにした。最初は女が槍を取るなど、と侮られたが、実力でねじ伏せた。兄は心配してくれたけれど、それでも軍に対して口を聞いてくれて――思いをどうしても捨てられない己に嫌気が差していく。

 だからこれは、自分に与えられた罰なのだと思う。

「リントヴルムの姫、か。安心しろ、お前のような田舎女を抱こうとは全く思わん。戦場に出られるのならば、その使いようはあるだろうしな」

 顔合わせの席で、結婚相手――フェルニゲシュ王国大将軍タラカーンの第一声がこれである。ツィスカは反論することなく、ただ諾々と従った。逆らう気持ちも、起きなかった。

 僅かに幸いだったのは、フェルニゲシュは女が戦場に立つことも普通であり、咎められることは無かった。例え妻としては虐げられていても、馬に跨り、リントヴルムとは違う広い草原を駆けるのは、嫌では無かった。行方の知れぬヴァシーリーのことは心配だったけれど、こうやってこのまま、生きていくのだと思っていた。

 だが――有り得ぬものを、ツィスカは見た。

「……これは、どういうことです」

 夫の部屋で見つけてしまった、命令書。リントヴルムの印が入っていたから、てっきり自分宛の書簡だと思ったのだ。

 だが、それは――父王から、タラカーンへと向けられた、依頼書だった。

「何故、何故――奴隷売買などを、父上が命じているのです!?」

 既にフェルニゲシュは愚か、他国でも皆廃止されている奴隷制自体を嘲るように、商人たちに資金を与えて援助を行っているのは、紛れもない自分の父だった。しかもその真の目的は、竜人を捕えることであると。

「ああ、それか。前大将軍の頃から、何度も取引は行われていたらしいぞ。俺はその後を継いだだけだ」

 帰った途端に問い詰めて来た名ばかりの妻を煩そうにしながら、長椅子に横になり酒を煽りながらタラカーンは告げた。

「リントヴルムに港は無い。竜人の住まう海に出るにはうちの東方港を使うしかない。使う船にはリントヴルムの紋をわざわざ着けていくぞ? おかげで稼がせて貰っている」

 何故、何故、と問うたが、タラカーンは気づかないのかと嘲るだけだった。

「リントヴルム王の望みは一つだけ、親を殺した竜人達への復讐だ。だが東方海に閉じこもられたら、鷲獅子隊だけではとても敵うまい。この大陸まで、奴らを呼ぶ必要がある。あいつらは馬鹿だからな、一匹でも子を浚われたら、総出で取り返しにくるだろう?」

 これほどの絶望など、感じたことはなかった。騎馬部隊を率いる自分を、要所の守りに命じたのは父だ。疎まれていることは知っていた、だがこれは――只、犠牲になれと、言われているも同じだった。

 だから、何処から情報が漏れたのか、竜人の軍がリントヴルムではなく、タラカーンの領地であるこちらに真っ直ぐ向かってきたと知らされた時、どこか安堵したのだ。竜人との戦には慣れている、戦線に立ちたいと、自ら申し出た。

 結果は――酷いもので。

 怒りに燃えた竜人達は、この国の軍を蹂躙した。自分とて、騎馬部隊だけでは刃が立たなかったのだ、対空部隊を持たぬフェルニゲシュが勝てるものではない。

 馬も人も舞い降りる竜人に切り裂かれ、食い殺され。いつの間にか周りには誰もいなくなって。竜の血で濡れた槍で手が滑りやすくなった頃に、空を覆うように現れた――銀の竜人王。

 その時、ツィスカの心に去来したのは、間違いなく、安堵だった。

 もうこれで、苦しまなくても済むのだという安堵に、近づいてくる滅びの顎が開かれるのを、ただ見届けて――炎を、その身に浴びた。

 後の記憶は、酷くとぎれとぎれで。自分が眠っているのか、起きているのか、はっきりしない。

 ただ――長年の、不倶戴天の仇である、竜人の声で。

「死にたがる敵を殺す謂れは無いな。生きろ」

 そう言われて、胸板の鱗を容易く己の爪で引き裂いた竜人の温い血が、自分の体に降りかかってきたのを覚えている。

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