◆9-3
「ドロフェイ!! 無事か!!」
敬愛すべき主人の声が聞こえて、ドロフェイはすっかり重くなっていた瞼をぱちりと開けた。かなり視界は荒く見え辛くなっていたが、それでも夕暮れに負けぬ青色は見えたので、口の両端を引き上げて笑った。我等は間に合ったのだ、という満足から。
「おお……、殿下。申し訳、ありません。少々不覚を取りましたが、何、ご心配なく」
「痩せ我慢は止めて下さい。今神官殿が来られますから、もう少しみっともなく足掻いて下さい」
「ラーザリも、いるのか? ならば、まずは殿下を休ませねば。お前がついているといい、俺はもう少し、寝てから――」
「寝るな! 起きろ! このまま力尽きるのは許さん!」
「はは、ご心配なく、少し休めば、追いつきます故」
体は全然動かない。というより、動かすとあちこちがぎしりと軋み、皹が入る音がするのだ。あのような屍人に、自分もなるのだろうか――ぞっとしない。神官が来てくれるのなら、殿下や部下達を害することは無いだろうが、それまでこの意識が持つかどうか。
「……なんで、あんたはいつも……!」
憤ったような、ラーザリの声が僅かに掠れている。全く、子供の頃から変わらないなこいつは、と苦笑が漏れてしまう。怒ったり、悲しい時には泣かない癖に、自分の無力さが悔しい時だけ、大粒の涙を零して泣くのだ。
今回も、自分がもっとうまく動けばと猛反省しているに違いない。俺が先走ったのだから気にするな、と言おうとして――
「三文芝居の愁嘆場は良いんだよ。――ほら」
不意に、鈴を転がすような小さな声が聞こえて、鼻先にふっと誰かの吐息がかかった。その僅かに甘い香りを感じ取った瞬間、ふと体がぐにゃりと弛緩し――視界がはっきりとした。
「……お? おお、これは?」
傷はまだ痛むが、先刻まで自分の物では無かったように硬かった体が、すんなりと動く。自分の両腕を持ち上げて指を握り締めたり離したりしていると、傍で呆然としているラーザリと――やっぱり目尻が少し濡れていた――心底安堵したように、息を吐く主――ヴァシーリー殿下の姿が見えた。
「忝い、猊下。全ての兵に代わり、礼を言う」
「だから、そういうのいらないって。まあこれだけ噛まれて耐え切るなんて、根性だけは認めてやってもいいけどさ。傷は自分達で治せよ」
「……殿下、この女は……あの失礼な子供ではないですか! 一体どこから!」
「あんたの命の恩人なんですから黙っててください!」
覗き込んできた白い髪の女が、嘗て主にかなり生意気な口を聞いた子供だと気づき、がばりと起き上がった瞬間、ラーザリの拳を見事に顎に入れられ、もう一度倒れる羽目になった。
×××
「怪我のある人はどんどん奥に運んでくださいまし! 地下も開けましたわ!」
嘗ての神殿はすっかり荒れ果てて見る影も無くなっていたが、それでもミーリツァにとっては使い慣れた場所だ。開けるだけの部屋を開け、簡易的な怪我人の収容所が出来上がっている。
「ミーリツァ様、無理しないでくださいよぅ」
「今は神官のお仕事が山ほどありますわ! 微力ながら、お手伝いさせていただきます」
コーシカの抑えも、彼女の勢いには役に立たない。自国の民達は、今まで一度も公の場に出なかった末姫の、青を纏わぬ姿に戸惑いつつも、彼女が死女神の神官であることを知り、何も言わなくなった。ミーリツァが己の体に皹を入れるのも厭わず、怪我人たちへ治癒の奇跡をかけるので、泣き出して詫びる者達もいた。
「申し訳ありませぬ、ミーリツァ様……貴女様のことを、愚かにも疎んじておりました」
「まあ、気にしないでくださいまし。今まで王家に連なる者として、何の責務も負ってこなかったのですから当然ですわ。さぁ次の方、どうぞ」
「ふざけるな! 邪神の徒の治療など誰が受けるか!」
次に入ってきたのは、バガモルの残党を追った際に傷を負った、カラドリウス皇国の神官騎士だった。身分も高い者らしく、他の神官を呼べと騒ぎ立てる。
「始源神様の神官様は、わたくしよりも敬虔な方々ですわ。故に、重症の方々の治療で手一杯なのです。申し訳ありませんが、わたくし、尽力させていただきますわ」
「おい、触るな――ッ」
しかしミーリツァは怯まず、祈刃を握り締めると死女神へと祈りを捧げる。僅かに指の間から血が滲み、男の傷を少しずつ癒し――完全に塞いだ時、びしりと大きな音がした。
「っく……!」
「ミーリツァ様!」
「な――貴様、何を」
周りの民達や、治療してもらった男も驚いた。ミーリツァの手につけていた傷が完全な皹になり、ばらばらとその欠片が地面に落ちた。度重なる奇跡の祈りに、ついに彼女の体が取り返しのつかないところまで削り出されたのだ。顔を蒼褪めさせ、それでもなお祈ろうとしたミーリツァの手を、コーシカが掴んで止める。
「ご、ご心配なく。大したことはございませんわ」
「駄目です、これ以上無茶をされちゃあ、お命に関わります。シューラ様も心配されますから、一度お休みください」
いつになくぴしゃりと言い切ったコーシカの本気を彼女も感じ取ったのか、しゅんと眉を下げて手を引いた。
「……はい。申し訳ありません、皆様。すぐに戻りますので」
「そんな、どうぞお気になさらないでください、ミーリツァ様!」
「あとは我等が如何にかします、ゆっくりと傷を癒してください」
ふらつく体を支えられながら下がるミーリツァの小さな背を呆然と見送り――神官騎士はぼそりと呟く。
「やはり、邪神の類ではないか……あのような敬虔な娘の、体を蝕むなど」
悔しそうに、口の中だけで誰にも聞かれないよう声を殺し、神官騎士は持ち場に戻ることにした。
×××
元は貴族の子女が使用していたらしい広めの私室にヴァシーリーが通されると、中の人々が一斉に頭を下げた。
包帯を山のように巻いたまま立ち上がろうとして、ラーザリに無理やり座らされたドロフェイを初め、元々ヴァシーリーの近衛兵で、この騒乱を生き残った者達。そして、迫害と重税に耐え切れず流民となった者達のまとめ役らしい平民が数人。その中の老人に、ヴァシーリーは見覚えがあった。
「貴殿は――」
「おお、ヴァシーリー王弟殿下! よくぞ御無事でお戻りくださいました……!」
バガモルが税を徴収しようとしていた、開拓民の長だった。彼も長い籠城でかなり弱ってはいたようだが、その眼光は衰えておらず、深々と頭を下げる。
「王弟殿下に御慈悲を頂いた後、暫くは冬の蓄えを続けておりましたが――あのバガモルの上に立つタラカーン大将軍が、戦の為の輜重を徴収しに現れたのです。勿論我等は抵抗し――村の男は、その時に殆ど死にました。どうにか30人ほどの生き残りを集めて流民となりましたが、この神殿にヴァシーリー様の近衛様達が立て籠もっていらっしゃると聞き、馳せ参じた次第です」
聞かされた事実に、ヴァシーリーは口惜しさを込めて唇を噛み、――頭を下げた。
「……私の力及ばず、苦難を与えてしまった。申し訳ない……!」
「おお、何を仰いますか! こうしてお戻りいただいたのです、それだけで我等には充分ですとも」
仮にも王族が平民に向かって軽々しく頭を下げるなど、本来ならば許されぬことだろう。だが今、この国の民にとって、王族に何の価値があるだろうか。もっと早く、もっと善く動いていれば、彼等をここまで追い詰めることなど無かったかもしれないのに。
自責を堪えて、一息吸い込む。いつも通りの冷徹な顔に戻れたらしく、傍に控えてほんの僅か眉を顰めていたリェフが満足げに頷いた。どうやら尻に鞭は与えられないらしい。部屋の中の一同をぐるりと見渡し、静かに告げる。
「――現在、私はカラドリウス皇国猊下の命を賜り、この国の貧しさと重圧の元凶である、アグラーヤ王を廃する為、恥を濯ぎ戻ってきた。――祖国に弓を引く愚者の道を、貴殿らは共に歩んでくれるか」
「愚問ですな、殿下! 我等の主は元より、貴方様だけです!」
「王家に対する不満と、それに対する殿下への期待は、非常に大きくなってきております。今こそが、動く好機かと」
真っ先にドロフェイ、ラーザリが声を上げ、他の近衛兵達もおう、と声を上げる。民達の顔にも希望が灯り、喜びに抱き合っている。
――これが、自分の選んだ道だ。例え実の姉の血に塗れても、この国を正さねばならない。
「話は済んだか? そろそろ今後についての話もしたいんだけど」
「――クレアチオネ猊下」
ノックも無く扉が開き、グァラと共にクレアチオネがずかずかと入ってきた。人々は最初不敬さと唐突さに戸惑い、ヴァシーリーが呼んだ名に驚き、民達は慌てて膝を折った。
「ああ、そういうのいらないから。 別にお前ら、僕の民じゃないし」
部屋の隅に据え置いてあるベッドの上にひょいと飛び乗り、ごろんと横になる少女に威厳など全く無い筈なのに、何故か咎めることも出来ない。ひらひらと促すように少女に手を振られ、グァラが一つ溜息を吐いてから覆面の下の口を開いた。
「申し遅れました、カラドリウス皇国第六位、グァラ・セスト・カラドリウスと申します。この度は猊下クレアチオネ様の名代として、ヴァシーリー殿下にお力添えをさせて頂きます」
丁寧な礼を見せるグァラに、とりあえずはクレアチオネの不敬さに不機嫌そうだったドロフェイも矛を収めたらしい。何より、ラーザリの方がクレアチオネを信用しているようで、諌めるようにドロフェイの肩を叩いていた。――あのままドロフェイが死んでしまったかもしれないところを助けたのだから、当たり前かもしれないが。
民達はとりあえず、物資の配給等を行って貰う為下がらせてから、改めてグァラが口を開く。
「まず、現状をお伺いしたい。ヴァシーリー殿下が国を追われて以来、この国内で何が起こったのでしょうか」
「では僭越ながら私、リェフが説明させて頂きましょう。殿下、宜しいですかな?」
「許す。私も聞きたいところだった」
丁寧な礼を主に返し、リェフはいつも通り、口髭の下を綻ばせながら語りだした。
「畏まりました。――現王アグラーヤ様が信仰の統制に対する触れを出してすぐのことです。陛下はカラドリウス皇国及び、リントヴルム国へ向けて宣戦布告を行いました」
「リントヴルムにも、か?」
驚いて問い返す。もし皇国と戦争を起こすとしても、それはリントヴルムと同盟を結ぶことが大前提だった筈だ。
「ええ。ヴァシーリー殿下を、ツィスカ王女と婚姻させることにより引きこもうとしたというのが、名目として掲げられておりました。リントヴルムはそれを否とする為――タラカーン大将軍にツィスカ王女を嫁がせました」
「――馬鹿な!?」
次に続けられた言葉に、思わず声を荒げてしまった。何故、彼女が――これ以上、リントヴルムの犠牲にならねばならないのか。感情的になってしまった主を咎めるように一瞬リェフは眉を顰め、すぐに笑顔に戻った。
「ええ、国内外でも様々な不満が噴出しましたが、リントヴルム王が押し、ツィスカ様は了承されたそうです。それで一旦、二国間は落ち着いたのですが……その後、国境沿いのタラカーンの領地を、竜人が襲撃したのです」
「竜人が!?」
グァラが驚きの声を上げ、クレアチオネがぴくりと身じろぐ。
「ツィスカ王女はタラカーンの妻として戦場に立ち、竜人と激突。行方不明となったそうです。それにより、リントヴルムではツィスカ王女を他国の者として見殺しにしたのではと国民感情が悪化。今や国境でにらみ合いを続けている状態です」
「なんという……リントヴルム王もそうだが、姉上は――アグラーヤは一体何を考えている? これではまるで、」
国そのものを滅ぼしたがっているようだ。その言葉を咄嗟に飲み込む。まさにこれが、答えであるような気がして。あの人はもう既に、国どころか――この世界そのものに、絶望しているのではないかと。
「考えを読むのは良いが、感応するのは止めておけ。頭がいかれるぜ」
不意に聞こえた鈴の音のような声とふてぶてしい内容に、我に返る。クレアチオネがごろんとその身を俯せて、不機嫌そうに肘をついてこちらを覗き込んでいた。
「どちらにしろ、この国がやばいってことだけ解れば充分だろ。お前が新しく立つ理由は申し分ない。問題は――」
不意に言葉を止めた白い少女が、むくりと身を起こし、不快そうに窓の外に視線をやる。それを追い、部屋の中の者達全員が驚いた。
「あれは――」
×××
巨大な灰色の――金陽の輝きを閃かせると銀にも見える――翼を広げ、大きく旋回する影がゆっくりと中庭に降り立つ。人間の二倍は大きさのある竜人が、長い首を伸ばしてぎょろりと辺りを睥睨した。
「何故竜人がここに……?」
「知るか。あの蜥蜴どもの末裔が、何でこんな内陸までやってきている?」
遠巻きにしている人々を潜り抜けてやってきたヴァシーリーとクレアチオネを見て、竜人はぐぱりと大口を開けて共通語で問うた。
「ミーリツアはここにいるか!」
「「……何?」」
思わず二人同時に同じ言葉が漏れた。何故ここで、少しだけ発音は危ういものの、彼女の名が出てくるのか、ヴァシーリーは勿論だが、クレアチオネにも全く分からないようだ。
「ど、どうしましたの? わたくしに何か……」
「ミーリャ、出てくるな!」
「ミーリツァ様!」
騒ぎに気付いたらしく、疲れを見せながらもミーリツァが中庭に出てきてしまった。咄嗟にヴァシーリーが声を上げ、傍に付いていたコーシカも庇おうとするが、既に竜人はその瞳をぎょろりと向けて、ずいずいと足を進めてくる。
背丈が二倍以上違う相手に覗き込まれながら、全く臆しないミーリツァを真っ直ぐに見詰め、竜人はやはりどこかたどたどしい発音でゆっくりと話す。
「久しいな、ミーリツアよ。お前の勇気と奇跡により、我の翼は全て癒えた。感謝を捧げよう」
「え……えええ! まさか、あの子ですの!?」
「……どういうこと? 説明しろよ」
心底訝し気にクレアチオネが問うてくるが、ヴァシーリーも驚いていた。まさか、目の前の巨大な竜人が――嘗てマズルカで助けた、あの幼く小さな子が成長した姿だというのだろうか。
「クレアチオネ猊下が、私に忠告をした時、マズルカで解放した竜人です。ミーリツァと同じぐらいの大きさの、子供だった筈なのですが」
「竜人の成長は早いよ、あれだけ育ってもまだ十かそこらだ。……あの女本当に何者なんだよ?」
心底不審げに眉を顰めるクレアチオネに構わず、ミーリツァは久々の再会をただ喜んでいる。
「ええと、ククヴァヤ様でしたわね。お久しぶりです、またお会いできて嬉しいですわ」
「そうか。……我等は神の血に寄らぬ者との会話を所望する。ヴァシーリーという男は何処にいる?」
ぐるりと首を回して遠巻きの人垣を眺める竜人に、周りが慄くのにも構わず、ミーリツァはぱっと顔を輝かせる。
「それはわたくしの兄様ですわよ!」
「ニイサマ、とは血の縁があるもの、であったか。ならば話が早い。――我が父が、ヴァシーリーという男を連れてくるように、と命じられた」
「……私が、ヴァシーリーだ。貴殿の父とは?」
ヴァシーリーが進み出ると、竜人はぐるりと大きな瞳を回し、首をぬるりと伸ばしてくる。庇いに入ってきたコーシカをそっと抑え、一歩前に出た。
「父が認めた神人が、お前に伝えることがあると言っている。我等の国まで来るが良い」
「父――まさか」
そこまで聞いて、知識と目の前の事実が繋がる。竜人達の王は、今目の前にいる者のような、銀色の鱗を持っていた筈だ、と。
竜人は胸を張るように顎を反らし、朗々と、驚くべき宣言をした。
「然り。我が父は四百年を数えて王と立つイェラキ。ヴァシーリーよ、我等竜人の国、スチュムパリデスへと来い。そこにお前に伝えるべきことがあると、我が父と矛を交えた強き神人、ツィスカという者が待っている」
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