◆9-2
天に翳していた細い手を降ろし、輿の端にひょいと腰かけた白い少女――たった今、始源神の奇跡を、山頂の神殿を包み込む形で顕現させたクレアチオネは、不機嫌そうな顔のまま、馬に跨ったヴァシーリーに告げた。
「そら、お膳立てはしてやったぜ? この僕がここまで出向いてやったんだ、結果を出せよ」
「忝い。――グァラ殿、馬が得意な者は何騎程いる?」
後ろに控えていた戦神の神官も馬に乗っていたが、やはり不慣れらしく馬の方が足踏みを繰り返している。
「今動かせるのは、精々50騎ほどですね」
「充分だ。先導は私がする。コーシカ、先行しろ。狙いは神官、屍人の奇跡の元締めだ」
「了解でぇす」
その声に、彼の背が僅かに揺れる。外套を纏った斥候は、神官達にも気配を悟らせることなく駆けだす。ヴァシーリーもその背を見送ることなく、借りた馬に跨る。フェルニゲシュの馬と比べると随分小さく、ヴァシーリーの体躯と借り物の鎧は重そうだが、我慢して貰うしかない。
「このまま、敵の背を食い破る。――いざ!」
後ろは振り向かない。己の信頼が嘗ての敵国の兵士達には無いのは承知の上で、一人でも突き進むつもりだったからだ。
「騎馬隊、続け!」
勿論すぐさま、戦神の憑代であるグァラが号令をかけたお陰で、後続はついて行ったが。大声を上げたせいで軽く咳き込みつつ、ひそりと呟く。
「……あれが巨人の国の王弟。臆病者と謗られていたと聞きましたが、人の噂など当てにならないものですね」
走り去っていく騎馬達を見送りながら、クレアチオネはぶらぶらと足を揺らしながら嘲るように呟く。
「いいや、臆病な事に変わりはないだろ。出来る限り戦を避けようとするのも。だから、いざ戦場に駆けこめば、自分の力を最大限に使って戦を終わらせようとするわけだ」
「はい、兄様はとてもお優しい方なのです! でも、兄様ならば、必ず勝ちますわ!」
輿の奥に、強気の声と裏腹に、しっかりと目を閉じて祈りを捧げているミーリツァがいた。クレアチオネがほんのちょっと、困った風に眉を顰めるのをグァラは初めて見たので、驚いた。そんな、見た目の年相応に見える表情など、自分が召し上げられてからの十二年間、全く見たことが無い。
「なんでそんなに……ああもう、いいから引っ込んでてくれよ。お前がここに居ると煩い奴はいっぱいいるんだから」
「はい、クレアチオネ様。お心遣い感謝致しますわ」
「……うん」
漸く祈りを終えたのか、目の端にほんの僅か涙を浮かべながらも笑顔を見せるミーリツァに、やっぱり困ったように頷いてから、ついに視線を逸らせてグァラの方へ助けを求めるような目をした。耐え切れずにグァラは覆面の下で思い切り唇を噛んだ。敏い猊下には気付かれてしまったが。
「おい。今笑ったなお前」
「いいえ、全く、そんなことは」
「嘘つけこの餓鬼! くそ、だから外に出るのなんて嫌なんだ! 碌なことがない!」
「クレアチオネ様も、普段は神殿から出ない生活を続けていらっしゃるそうですわね。わたくしも同じですわ、お立場を比べるのはおこがましすぎますけども」
「だから、――ああもう! 調子狂うなぁ!」
苛立ちのままに叫ぶクレアチオネの声が響き、グァラは今度こそ耐え切れず吹き出してしまった。幸い、猊下の輿に近づく兵士は殆ど居ないので、誰かに聞かれることは無かったが。
×××
「おい、如何した? 何があった!」
己の命が狙われた恐怖に騒ぐ大神官を輿に押し込め、下山を始めていたバガモルの後詰が停まった。苛立ちを込めて部下に名を呼ぶと、焦った伝令が駆け寄ってくる。
「て、敵襲です! 旗は、皇国の!」
「何だとぉ……!」
「おのれ、始源神共の眷属が、この聖なる地を土足で……!」
憤る大神官の声が聞こえるが、すっかり臆しているのか、輿から出てきそうにない。神官達も輿を守ることしか考えていないらしく、バガモルは舌を打ち、武器を構える。
この参道は狭く、敵も味方も陣を細く引くしかない。ましてや、皇国の連中にそこまで早い馬の使い手がいるとは思えない。出来る限り列を詰め、隊列を――
ドッ、と鈍い音がする。
下の道で、僅かな血煙が上がった。宙に舞う、首も。
地を叩く蹄の音。近づいてくる血煙と、増える首。
バガモルは、一度こんな光景を戦場で見たことがあった。――二頭の獅子に戦車を引かせ、巨大な槍斧を振う――現王、アグラーヤ・アジン・フェルニゲシュの戦う姿に、重なった。
あれは最早人間では無い、人の皮を被った怪物、動くだけで命を奪う神の化身のようなものだ。だからこそ、自分も、自分達の長であるタラカーン将軍も、あの女に膝を折ったのだ。
馬鹿な、と思い返す。少なくとも今は、あの女は味方の筈だ。あのような地獄を生み出せるのは、あの女しか居ない筈、なのに――
恐怖で竦んだバガモルは、咄嗟に何も命じることが出来ず。参道を駆け上がってきた一頭の馬の接近を、完全に許した。
皇国製の白い鎧を纏ってはいるが、手に持っているのは銀の戦斧。皇国の神官騎士が使う武器ではない。そして兜の下から覗く、風に靡いて散るのは、青い――髪の――
「ヴァシーリー!?」
「――退け!」
その名を呼んだのが限界だった。肉薄した斧が、バガモルを馬から叩き落とす。そしてそのまま、恐慌した神官達の中へ飛び込み、ぐるりと戦斧を回す。血風が飛び、バガモルの頬を汚した。
「ば、馬鹿な――何故お前が、ここに!」
バガモルの声は虚しく響くだけだ。恐らく、ヴァシーリーの耳には届いていない。
何故なら彼の狙いは、崩壊神の聖印が刻まれた輿にしかなかったからだ。
「エメリヤン・パウーク!」
「お、おおお、この不敬ものがあああ!」
足場の悪い山道にも関わらず手綱を果敢に繰り、道を塞ごうとした神官を容赦なく切り飛ばす。あっという間に死体を増やし、輿の中で叫ぶ大神官へ突貫する。
馬鹿な、馬鹿な、とバガモルは繰り返す。あの臆病な『慈悲深き王弟』がこんな様を見せるなど、聞いていない!
あんな、あんな姿は、まるで王と同じではないか――!!
「――おおッ!!」
僅かな気合。振り下ろした戦斧は、輿の天板を叩き割り、底まで抜けた。血が飛び散り、天幕の中を真っ赤に濡らす。
「――チ」
だが、ヴァシーリーは思わず、無作法な舌打ちをしていた。体の正面を斧で裂かれ、ゆっくりと倒れるのは――アルード教の聖印を下げた、若い神官だった。
「お、おのれ! このような場所で私は死ぬわけにいかん! 未だ我等が神はこの地へと降臨せぬ! 憑代が生まれるまでは――!」
己の弟子を盾にした神官は、そのまま己の姿をぐにゃりと歪ませ、消えた。弟子の命が消える前に、それを使って転移の奇跡を発現させたのだろう。死体の背中に、彼女のものであろう祈刃が突き刺さっていた。
僅かに黙礼をし、ヴァシーリーは馬に跨り直す。大将が逃げてしまったことで、すっかり恐慌状態になっている部下の神官達には目も暮れず、馬に一蹴り入れて山頂へと向かっていった。
「くそ、くそ、なんであんな奴が――」
「そろそろ養分になってくださいよぅ」
「――へ?」
不意に後ろから声をかけられた、瞬間。バガモルの首がぐらりとずれた。
何故、と思い、思わず自分の頭を支えようとして――銀の光を放つ、奇妙な形の刃が視線に入る。紐に繋がったそれは、嘗てこの国一の密偵であったリェフが使いこなしていた銀の鎌であり、今は彼の弟子の手に渡って――
思考が出来たのは、そこまでだった。ごろりと転がるバガモルの首を軽く踏んで止め、コーシカは全く笑顔の無い無表情で得物の血を払う。
「雄の蟷螂には、それが似合いでしょうが」
この男に対して一切の慈悲は無い。他者の力を笠に着て、自分の主とその妹を理不尽に追い詰めた男だ。一撃で殺さずもう少し甚振れば良かった、と本気で思っている。今は時間が無いから、しないけれど。
「早くしないと、師匠に本気で尻叩かれますからねぇ」
こんな首手柄にならないと言わんばかりに、耳だけ切り落として証とし、その首は山の斜面に蹴り棄てる。後は後ろを振り向くことなく、神殿に向かうべく山道を駆け上がっていった。
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