アブンテの戦い

◆9-1

「腹が減ったな」

「その言葉、もう今日だけで六回目ですよ」

 アブンテの神殿――今や完全に砦となった見張り塔の上で、ドロフェイとラーザリは麓を見下ろしたまま言葉を交わしていた。

「仕方あるまいよ。籠城してから早一月、物資はそろそろ限界だ。義勇兵も流民たちも良く耐えてくれているが、こちらの食事を削るのも限度があるぞ」

「愚痴を言って状況が改善するのなら幾らでもどうぞ。生憎、訴えた方が尚更空腹を感じてしまうので」

「何だお前も腹が減っていたのではないか!」

 からからと快活に笑うドロフェイを、ラーザリが眉間に皺を寄せて睨み付ける。その顔はいつも通りだが――どうしようもない陰りが二人共にある。主を――ヴァシーリーを守ることが出来なかった後悔からだ。

 アブンテの麓で隊列を整えているうち、山側と麓側から挟撃を受けた。山側から屍人兵が降りてきたことに驚愕し、主の無事を祈りながら山道を駆け上がり――その勢いでアブンテを占拠した。残念ながらバガモルはいち早く逃げ出したらしく見つからなかったが、屍人兵は皆燃やして埋めた。

 そして――ヴァシーリーとミーリツァを、助け出すことは叶わなかった。嘆きも恨みもあったが、今冷静さを保てているのは、現在の部隊中で長と二番手の地位を持つ者が、迂闊な姿を見せるわけにはいかず、幸いなことに主の命だけは無事なことは知らされていたからだ。

「貴方がたは本当に、二人で丁度良い平均値になりますね」

「リェフ殿!」

 後ろからやってきたヴァシーリーの侍従、リェフにドロフェイが破顔し、ラーザリが頭を下げる。嘗ての戦争で勲功を積み、また密偵としての能力も高いリェフは二人にとっても尊敬の対象だ。何より彼が先日このアブンテに辿り着いた際、ヴァシーリーとミーリツァが皇国への亡命を成功させたという知らせを告げてくれて、ずっと肩に入っていた力を互いにほんの少し、緩ませることが出来たからだ。

「さて、二人とも。良い知らせと悪い知らせがありますが、どちらから聞きますか?」

「どうせ聞かねばならないのなら、良い知らせからお願いします」

「おう気が合うな! 俺も良い方から聞かせて頂きたい、悪い知らせを聞くのも楽になる」

「思い悩むのは後からで十分ですので」

 全くもって正反対の隊長と副隊長に苦笑して、リェフは口を開く。

「では良い知らせから。――ヴァシーリー殿下が、皇国猊下のお力を借り、軍を率いて凱旋されます。あと二日ほどでこのアブンテへ到着すると、猫から連絡がありました」

「おお……! それは喜ばしい! 殿下、よくぞ御無事で!」

「我々の顔を忘れていないでいただけると、有難いですがね」

「私達がここに籠城していることも猫に伝えておきましたので、問題はないでしょう。ではもう一つ、悪い知らせですが」

「おう、今なら何も怖くはないぞ、なんでも言って下され!」

 拳を振り上げて上機嫌なドロフェイと、珍しく口元に笑みを浮かべているラーザリを前に、リェフは変わらずいつも通りの笑顔のまま。

「明日には、大神官率いる屍人の一団が到着します」

 沈黙が落ちる。倒れた死体全て、敵味方問わず己の軍として吸収できる屍人兵。戦えば戦うほど戦力が上がる地獄の部隊だ。そんなものと籠城戦など、いつまで持つか解らない。

 悔しさから奥歯を噛み締め、ラーザリが問う。

「……神官が転移の奇跡を使う、という噂は真でしょうか」

「事実ですが、今回の戦で来る可能性は低いでしょう。効率が悪すぎます」

 一番の懸念が解消されたことに、僅かにラーザリが安堵の息を吐くと、隣でドロフェイが快活な声を上げた。

「なんと! それではたったの一日、ここを持たせれば良いということですな! 何も悪い知らせでは無いではありませぬか!」

「……貴方は、」

「皆喜べェーッ! あと一日敵の攻勢に耐えれば、王弟殿下がお戻りになられる! 最早勝利も同然よ!」

 砦壁に陣取っていた兵士達から、おお、と喜びの声が上がる。中庭で柵を作ったり、矢を作っていた流民や、崩壊神以外の神官達も同様に。皆此度の触れに反発し、逃散や反乱を起こし追い散らされた者達だった。今年の税の免除を聞いて喜んでいた者達も多く、皆ヴァシーリーに感謝をしているからこそ、逆賊となった彼を未だに慕っている。少ない物資を如何にか運び込み、耐えてきた民達と兵士達が、喜び、拳を打ちつけ合っている。

「――負けぬぞ、ラーザリ。何があろうと殿下がお戻りになるまで、此処をお守りする」

「……無論です。そちらこそ、痺れを切らして無茶なされぬよう」

 疑うことなどない真っ直ぐなドロフェイの瞳に、ラーザリが目を伏せて辛辣に囁く中。

「全員意気軒昂、といった所ですが。――お急ぎください、殿下」

 リェフは笑みを絶やさぬまま、ゆっくりと藍色に染まっていく空を見上げていた。



 ×××



 風に乗って、呻き声が聞こえる。

 ざりざりと、鎖が引きずられる音と共に。

 荒野を裸足のまま、歩かされるのは、屍人の群れ。皆首に鎖を巻かれ、十人ほどがその鎖を束にして、崩壊神の神官達に連れられている。致命傷となった傷口から、ぼろぼろと黒い水晶の破片を落としながら。

 不気味な一団の後ろを馬で歩きながら、バガモルは忌々しげに溜息を吐く。屍人兵は確かに便利ではあるが、神官の簡単な命令しか聞かないし、何よりこの悍ましさが如何ともしがたい。一度使ったことがある故に、二度と御免だったのだが、他ならぬ直属の上司であるタラカーン大将軍に、王弟を取り逃がした罰として、再び反逆者の命じられてしまった。

「して、どう出るのですか、パウーク様」

 並んで進む輿に向かって問うと、天幕が開けられた。其処に座してアルードへの祈りを捧げ続けていた大神官は、皺の奥から黄色に濁った白目でバガモルを睨み付けて来た。

「我が孫が漸くアグラーヤ様に捧げられたのでな、儂も少しは仕事をせねば。まずは一陣、突きこませよう。種は幾らでも出来る故」

 つまり、屍人を只管投入しアブンテを落とすつもりらしい。あくまでこれは前哨戦、カラドリウス皇国との本格的な戦の予行に過ぎない。バガモルとて屍人と轡を並べたくはないし、あの神殿の攻め難さは良く知っている。だからこそ、王弟達を追い詰めた時には転移の奇跡が使われたのだ。神殿の守りが硬くなり、また侵入できる腕を持つ影の者達も、王弟の部下に殆どが殺された為、同じ手段は使えなくなってしまったらしいのもまた腹が立つ。

 あの時大人しく王弟と、妹と嘯く娘を血祭りにあげておけば、こんな面倒な事にはならなかっただろう。ドロフェイ達にアブンテをあっさりと奪われたことを棚に上げて、バガモルは苛々と唾を吐いた。

「ふむ、この辺りで良いか。――鎖を外せ!」

 先刻までの嗄れ声が嘘のように、朗々とパウークの言葉が響く。神官達が一斉に鎖を自分達の祈刃で切り落とし、屍人を山へと放していく。あの忌まわしい神殿が屍人で溢れて落ちるのならば、とバガモルも漸く溜飲を下げて笑みを浮かべた。



 ×××



「来たぞぉ! 屍人だ!!」

 見張りに立っていた民の一人が、大声をあげ、ラーザリ旗下の兵は防壁の上で一斉に弓を構えた。森の中を縫うように、ゆっくりと這い上がってくる屍人達の数はどんどんと増えていっている。臆す兵士達を鼓舞する為、ラーザリは堂々と己の愛用の弓を構えて立ち上がる。

「――怯むな! 弓矢の一本や二本では屍人を屠ることは敵わない。だが――」

 きしり、と僅かに弦が軋んだ瞬間。空気を割いて矢が放たれる。

 木々の隙間を縫うように飛ぶ矢は、屍人の膝に見事に突き刺さった。ぐらりと傾ぐが、倒れない。だがただでさえ足場の悪い山道を登っている屍人の足は酷く覚束ない。よろよろと木に引っかかり、更に他の屍人の道を塞いでしまっている。

「我等の役目は、これで充分。砦に辿り着く前に出来るだけ足止めをします。構え!」

「「はっ!!」」

 一斉に弓を構える部下達を見守りながら、ラーザリは厳しい顔を崩さない。

 どれだけ持たせられるか。持たせなければいけない、辿り着かれれば、次はドロフェイたち白兵戦の兵士が出なければならない。そうすれば後は、少しずつ削られていくだけだけだ。

 しかし弓矢にも数に限りがあり、一日は長すぎる。……本当に王弟殿下は間に合うのだろうか? 元々悲観的な性質なのだ、嫌な想像ばかり浮かんでくる。

 ――ラーザリの生まれは荒野の遊牧民だ。馬の上で生まれ、馬と共に過ごし、馬と共に走れなくなれば死ぬ。この広いフェルニゲシュの荒野で、そうやって生きて来た、様々な氏族に分かれた民族だった。

 だが丁度ラーザリが生まれた頃、フェルニゲシュ先王による徹底的な定住化を命じられ、逆らったものは血による粛清を受けた。故に彼は物心ついた時には弓矢を手に取り、馬に跨って広い荒野を逃げ回っていた。……結局それは、自分達の寿命を縮めただけだったが。

 やがてラーザリの一族も、皆殺され――生き残ったのは一番年下の、ラーザリだけだった。命が助かったのは幸運というほどでもない。兵を率いてきたフェルニゲシュ軍の隊長が、子供は殺せぬと駄々を捏ねただけだ。

 思考とは別に、腕は動く。釣る瓶打ちに矢を放ちながら、ラーザリはすぐに思い出してしまう不愉快さに歯噛みをする。こんな、未熟な餓鬼一人を助ける為に、あの人は。

「槍兵、準備! 構えーッ!」

 中庭で叫ぶ声がする。ラーザリは心底不愉快そうに眉間に皺を寄せた。あのどうしようもないお人好しの、貴族のどら息子だった彼は、自分の地位と手柄を捨ててでも、遊牧民の子供を一人助けてしまったのだ。

 一瞬、視線を中庭に向ける。生き残った兵士達の意気を見て満足げな顔のドロフェイが見える。視線を感じたのか、彼が顔を上げ――にかりと屈託なく笑った。

 はぁ、と大きく溜息を吐き、残り少なくなった弓束に手を伸ばした。太陽は、まだ高く、屍人の群れはついに神殿へ到達しようとしていた。



 ×××



 屍人の知性は無きに等しい。神官からの明確かつ単純な命令しか聞くことが出来ない。

 だからこそ、神殿の外壁近くまで辿り着いた屍人兵達は、体に刺さった矢玉に全く気を払うことなく、度重なる戦いで崩れてしまっている壁の一部へと殺到する。

「――ぬうんっ!!」

 そして、辿り着いたものからドロフェイの槍斧で首を落とされる。流石の屍人も首を落とされれば前が見えなくなるらしく、ふらふらと体も傾いで倒れる。

「見よ! 屍人なぞ恐れることはない、首を撥ねれば殺せるのだ! 決して囲みを抜かれてはならんぞ!

 入り込んできた屍人を、槍衾と即席の柵で囲い、袋叩きにする。疲れたものは下がり、他の者に代わる。

「ぐわああ!」

 だが、それでも限界はある。隙を突かれた兵士が屍人兵に掴まれ、押し倒される。乱杭歯からだらりと涎を垂らしながら、肩口に噛みついた瞬間、まるで飴細工のように鎧が割れて砕け、その下の筋骨に突き刺さった。

「グアアアアア!」

 悲鳴が響く。崩壊神の奇跡によって顕現した屍人兵達は、この世の理を砕いて壊す。鎧は身を護らぬ欠片となって散り、血肉は結晶となってまた砕かれる。びくびくとその体は痙攣し、ゆらりと立ち上がる。――屍人兵がもう一体増えた瞬間だった。

「ええい、小賢しい……! 死体を押さえこめ! 神官殿を呼んで来い!」

 数人で動き出したばかりの屍人兵を押さえこみ、神官が祈刃を突き刺して祝詞を唱えると、あっという間に屍人は灰と化す。奇跡を神に返納したのだ。だが、曲がりなりにも屍人の奇跡を齎しているのはこの国一の大神官だ。神殿の中にいる生き残りの神官達だけでは、とても全ての屍人にまで手は回らない。

 そして、溢れる屍人は壁の隙間だけでなく、壁面にへばり付き昇ってこようとする。弓兵以外の兵士や民達が、石や熱した油をかけて落とすが、こちらもいつまでも続くものではない。

「ドロフェイ様! 油がもう尽きます! 矢玉も既に……!」

「糞尿でもぶちまけてやれ! 投石を続けろ!」

 戦場は地獄の様相を呈してきた。更に、屍人兵は増えるばかりなのに、味方にはただ疲労が溜まり、物資は尽きてくる。兵士達も良く戦ってくれているが、義勇兵として参加してくれた民達はもう限界を迎えつつあった。



×××



「戦況は膠着しておりますな」

「問題はあるまい。既に屍人は増え始めておる、何れ崩れるものよ」

 山の中腹で待機していたバガモルが問いかけると、輿の幕がばさりと開いた。

「すべては我等が崩壊神様をこの地に顕現させるため、贄の一滴でしかない。おお、おお、ご照覧あれ!」

 すっかり感極まったように祝詞を捧げる大神官に、不快を表す溜息を堪えて神殿を見上げた瞬間。目の端でちかりと、何かが光った。

「――ッ大神官殿!!」

 警告を発した時には、既に鏃は目前に迫っていた。

「おオオッ!?」

 驚愕の叫びを上げた大神官の目の前に、黒水晶の壁が現れ、矢が深々と突き刺さった。高位の神官は当然のように身に纏っている黒壁の奇跡だ。発動しなければ、大神官の脳天に矢が突き刺さっていただろう。代償を払った神官が血を吐いて倒れるのも省みず、パウークはがちがちと歯を鳴らした。

「お、おのれ卑怯な……! 下がれ! 下がらんか!」

 この年になっても自分の命にしがみつく老爺を内心嘲りながら、バガモルも後退の命令を下した。



 ×××



「外したかッ!」

 己の不覚に、ラーザリは歯噛みをする。戦況を変える一手を取る為に、ラーザリは愛用の弓ではなく、この神殿に来てから勇士たちが木から削り出し作り上げた、大弓を構えていた。

 威力と飛距離は普段使っている弓の二倍はあるだろうが、間に合わせなので強度は無い。今の一発で弦はすっかり伸びてしまい、もう同じ飛距離は出せないだろう。天幕が下がっていくのを、ただ見ていることしか出来ない。千載一遇の好機を、逃してしまった。

 既に屍人兵は神殿の周りをぐるりと囲み、押し寄せる波となっている。

「ドロフェイ様! これ以上は……!」

「……最早これまでか。義勇兵達を神殿内に逃がせ!」

 部下に命じたドロフェイが、すっかり蝋と死肉に塗れた槍斧を振って、ずいと前に出た。ぼろぼろになった柵をひらりと飛び越え、横一文字に槍斧を構えたまま門の外へ走り出す。

「俺が外に出たらここを崩せ!」

「隊長、無茶です!」

 部下の静止にもドロフェイは止まらない。屍人兵達を押さえこみ、ずいずいと砦の外へ押し出ていく。その腕や脚に屍人ががじがじと齧り付いても。

 黒水晶の牙が鎧を通して皮膚に刺さる。崩壊神の奇跡は世界に走る皹だ。ドロフェイの皮膚にもぴしぴしと亀裂が走り、零れる血肉は黒水晶に変わる。それでも、彼は止まらない。皹が顔まで到着しても、足を止めない。

「――義父殿ッ!!」

 咄嗟に、砦の麓へ飛び込まんばかりに覗き込み、ラーザリは叫んでしまった。親を殺された恨みを向ける幼い彼を、息子と呼んで生かしてくれた男のことを。

 一度砦の上を見上げたドロフェイは、にかりといつも通りの笑みを見せ、ずいずいと屍人兵を押しながらついに門の外へと進んでいく。

「貴様等、何を萎れている! 殿下が到着するまで、耐えれば済むこと。やることは何も変わってはおらんぞ!!」

 ドロフェイ当人からの檄が飛ぶ。止めたくても、持ち場を離れるわけにはいかない。唇を噛み締め、既に暮れて来た空を見上げて――ラーザリは違和に気付く。

「……あれは?」

 空の上に、何かが広がっている。丸く、丁度砦を囲む、光の輪のようなものが。それはゆっくりと、ゆっくりと降りて来て、その中から星のような輝きをちかちかと吐き出し――雨霰のように、神殿の内外問わず降り注いだ。

 それは剣だ。光の剣。稲妻のような素早さで、しかし音もなく、あっという間に砦どころか山頂全体に降り注いでくる。

 咄嗟に目を閉じるが、痛みどころか感触も何も感じなかった。ラーザリの肌に触れた瞬間、光は淡雪のように融けて消える。しかし、それが屍人兵に触れた瞬間――その体の中から、数多の光が剣となって飛び出し、爆ぜた。

「な――ッ」

 神殿を囲んでいた屍人兵達は次々と弾け飛び、黒水晶の欠片となって崩れ落ちた。あまりにも唐突な事態に、誰もが呆然とするが、真っ先に我に返ったのはやはりドロフェイだった。その光の剣が、己の体に刺さっているにも関わらず。

「――何にせよ好ー機ッ!! 何をしている、態勢を立て直せ! 次はこちらから打って出るぞ!」

 命令に、ラーザリを初め全員が我に返り、鬨の声をあげた。

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