◆8-3

 用意された部屋の中で、ミーリツァは溜息を吐いた。

 曲がりなりにもここは敵国だ。しかもこの国では邪神と呼ばれる神を信奉しているので、神経質にならざるを得ない。服の一番下に隠してある祈刃をぎゅっと握り締めて、声を出さずに死女神ラヴィラへ、自分と兄の加護を祈った。

 自分の命が兄の信用を保証できるのならば、遠慮なく使って欲しかった。きっと優しい兄はそんなことは絶対言わないだろうと解っていたから、自分から言った。

 ……だって、兄はきっともっと沢山の人を幸せに出来る人だ。コーシカだって、兄のことを絶対に守ってくれるけれど、それでももし兄に何かあったら、躊躇わずに後を追うだろうということも、ミーリツァは無意識のうちに理解している。だから、ずっと足手纏いになっているだけの自分が役に立つなら、後悔は無い。勿論恐怖はあるけれど。

 ぶるりと体を震わせて、柔らかな寝台の上に横になる。未だに、何故こんなことになってしまったのかという嘆きはあるけれど、兄がそれでも前に進もうとしているのだから、自分がその足枷になりたくなかったのだ。

『お前のニイサマ、お前のことを人質にする気満々なんだけど、それについてご感想は?』

「っ!? ど、どなたですの!?」

 不意に耳元で囁かれ、文字通りベッドの上で思い切り飛び上がった。扉が開いた音もしなかったし、何の前触れも無かった筈なのに、広いベッドの上に胡坐を掻いて座っている、髪も肌も真っ白な少女がいたのだ。呆然としてしまうミーリツァのことなど気にした風もなく、不機嫌そうな顔のまま矢継ぎ早に問うてくる。

『誰だっていいだろ。それより、僕の質問聞いてた?』

「ええ、と、感想、ですの?」

『そ。偉そうなこと言っといて、イモウトを盾にする気満々なんだけど、それでいいわけ?』

 膝の上に肘をついて掌に顎を乗せ、馬鹿にしたように聞いてくる自分よりも年下に見える少女に、ミーリツァはぱちぱちと目を瞬かせ、素直に答える。

「人質に、ということでしたら、わたくしが望んだことですもの、特に何か感想というものはありませんけど……」

 すると、今までつらつらと喋っていた相手の口がぱくんと塞がった。凄く訝しげに見られたので、わたくし何か間違ったことを申し上げたかしら!? と焦る。同年代の少女と、話したことが殆どないのだ。

『えーとじゃあ、質問替える。ネエサマの方は?』

「……姉様」

 言われて、思い出す。国を治める、忙しい方だから、お手紙の返事も中々来なかったけれど――お声をかけて下さるときは、とても、お優しかった。不都合は無いかと聞いて下さり、欲しいものがあったら何でも言えと笑って下さった。

 それが、全部、嘘だったなんて、思いたくないけれど――

『お、少し落ち込んだ。どう? 大切なネエサマに命狙われた気分は?』

「……わかりませんわ。とても辛くて、悲しかったですけども。結局わたくし、姉様に甘えるばかりで、姉様のことを何にもわかっていなかったんですのね」

 ベッドの上に座り直し、膝の上で両手を組んでほそほそと告げると、呆れたような溜息が聞こえた。

『そんなの当たり前だろ? 人間の心の中なんて、誰に見えるものでもない。相手がどんな腹の中かなんて、神様にだってわかりゃしないよ』

 突き放すような口調だが、言われたことは事実だった。神には祈るだけ、答えを求めてはならない。神官として身を捧げる時に、一番最初に教わった教義なのに、すっかり忘れてしまっていた。まだまだ未熟ですわね、と苦笑が漏れてしまう。

「ありがとうございます。……慰めてくださいますのね」

『はっ? いや、違うし』

 顔をちゃんと上げてお礼を言うと、真っ赤な瞳がぱちぱちと瞬いた。その顔は自分よりも年下のようにも見えて、失礼と思いつつ笑みが零れてしまう。

 全くもって、自分は何て恵まれているのだろうと、ミーリツァは本気で思う。

 この髪と瞳に、フェルニゲシュ王家の証は現れていない。母は父を裏切り、自分を産み落とし、自ら命を絶ったという。姉や兄は余計な話を自分の耳に入れないよう心を砕いてくれているけれど、どうしてもミーリツァの耳にも届いてしまった。

 それでも、放り込まれたアブンテの神殿で、長は泣くミーリツァに信仰を与えてくれたし、姉も兄も、自分を愛してくれた。コーシカは自分の拙い手紙を大切な人に届けてくれたし、何の力も持たない自分を、兄もコーシカも守ってくれている。今目の前にいるこの彼女でさえ、敵国の邪魔者である筈の自分を慮ってくれている。

「でも、もしわたくしがもう少し、姉様のことをちゃんと考えていれば、もっと違う道を見つけられたかもしれませんの。これはわたくしと、兄様が、背負わなければいけないことだと思います」

 姉が本当は自分が憎くて、殺したいのだとするならば。それは良い、良くないけど、良い。それ以上のものを、既に与えられているのだから。

「でも、わたくし、お馬鹿ですから。ちゃんと姉様に聞かないと、解りませんの。だから、もし許されるのなら――姉様と、お話をしたいのです。その上で姉様がわたくしの首を落としたいのならば、従いますわ。とても怖いですけれど、我慢しますわ」

『なにそれ。……なんで、そんな。あんなの、そんな上等な奴じゃないのに。お前が何か、出来るわけでもないじゃん』

 白い少女は、心底わからない、と言いたげに顔を顰めて、怒っているようだった。姉のことも、知っているのだろうか。――ほら、今知りあったばかりの人さえ、自分の為に怒ってくれているではないか。これ以上望んだら、命を落とした後、死女神様からきつい罰を与えられるだろう。

「ありがとうございます。あなたはとても、お優しい方ですのね。ええ、あなたのお言葉で、わたくしは救われましたわ」

『何言って……』

「たとえ姉様が、わたくしのことを殺そうとしても。たとえ兄様が、姉様と戦を開くことを良しとしても。わたくしは――兄様のことも、姉様のことも、大好きですわ。それだけは絶対変わりませんもの」

 手は無様に震えている。声も無様に掠れている。怖くて怖くて、今にも泣きそうだ。それでも、これは間違いなく、ミーリツァの本心なのだ。

 白い少女は、唾でも吐き掛けそうに唇を歪めて、信じられないと言いたげに首を振り、俯いた。

『……なんで……、いや』

「?」

『わかった。今すぐ部屋出て、聖堂に来なよ。ちゃんと宣言してやるから』

「え?」

『周りの連中には話つけとくから、ほら早く!』

「え、え、えええ?!」

 そう言い捨てた瞬間、少女の姿はまるで幻のように掻き消えて。

 驚愕の叫びを上げたミーリツァの目の前で、鍵がかかっていた筈のドアが大きく開いた。



 ×××



「――信じられんな。フェルニゲシュ王家はその身に青の髪と瞳を得る。それが無いあの妹姫殿は不義の子だともっぱらの噂ではないか」

「……下世話な話に乗るつもりはないが。そうだとして、だから何だという? 私にとってミーリツァは何よりも大切な妹であり、私の命を縛るに値する者だ」

 嘲りを抑えぬソーレに、一歩も退かぬまま、ずっと視線を天幕に向けていたヴァシーリーだったが――ふと、気づいた。

 薄布の天幕の中、何かが動く。中で寝転んでいたものが、起き上がったような。ビスティアがそれに気づいたのか、また天幕に近づくが――驚いたように目を見開き、もう一度小声で何事か確認しようとすると。

「いいから、とっとと開けろよ。乗ってやるから」

「!! 猊下……!?」

 驚愕の声が、神官全員から上がった。ビスティアが急いで、天幕を巻き上げる。まるでベッドのように設えられた長椅子の上、小さな体を寝転がらせている――たった今上半身を起こしたのだろう、白い少女が、不機嫌な顔のまま、赤い瞳でヴァシーリーを睥睨している。

「兄様!」

「え、ミーリツァ様!?」

 すると、完全に封じられていた筈の聖堂の扉が大きく開き、中へ白い神官衣を着せられた少女が走り込んできた。コーシカが驚いて声をあげ、ヴァシーリーも慌てて振り向く。

「ミーリャ! 何故ここに?!」

「邪魔をして申し訳ありません! あの、白い髪の方に呼ばれましたの」

 駆け寄ってきた妹を抱き寄せて問うと、更に周りの神官達が大声を上げた。

「げ、猊下!? 一体何をお考えなのですか! その娘は――」

「五月蠅い」

 少女が思い切り、低い声を出した。それを聞いた瞬間、オルディネは自分の両手を、ばしんと音を立てて口をふさぐことに使った。自分の意志と関係なく、怒りと恐怖を瞳に浮かべたまま。

「猊下! どうぞお許しを! オルディネはまだ若輩故に!」

「僕の邪魔をしないんならいいよ。ほら、喋るなよ」

「が、っは! ……ッ」

 その言葉一つで、オルディネは自分の口を解放することが出来たが、がくりとその場にひれ伏して動かなくなる。まるで先刻まで、呼吸どころか心臓まで停まっていたように。

 命じるどころか、ただ言葉を発するだけで、始源神イヴヌスは世界の理を編み出すと言われている。彼女は――クレアチオネは、その憑代であるのだろう。

 周りの畏敬の視線を受けて堂々と裸足を組み返す白い少女は、第六位の席の前に立つグァラに視線を動かす。

「決定だ。フェルニゲシュに兵を出す」

「御心のままに、猊下。私の近衛から準備致しましょう。――そこの斥候よ、フェルニゲシュの正規軍が動くとして、どれ程の兵が用意されるか解りますか?」

 クレアチオネに深々と腰を折ったグァラが、コーシカに向かって問う。未だに地位の格差から跪いてはいるものの、敬意を払うつもりはないらしいコーシカははきはきと答えた。

「少なくて五千。アブンテは天然の要害ですから、大軍は却って動けなくなる故、減るかもしれません。ただ、屍人兵が動く可能性もあります」

「ならばこちらも五千、用意しましょう。屍人兵については神官を中心に準備をすれば――」

「ああ、いらないよ。僕が行く」

 あっさりと言われたクレアチオネの言葉に、また会議場に沈黙が落ち。オルディネがまた叫びそうになったので、慌てて隣にいるサジェッサに口を塞がれている。

「邪神共の奇跡なんて、僕が全部祓ってやる。その代り、巨人の国の王弟殿下」

「――はっ」

 不機嫌そうな顔のまま、唇の端をぎしりと音が出るほど大きく吊り上げるクレアチオネに、ヴァシーリーは一歩も退かず、僅かに礼をするだけで答える。傍に控えるコーシカと、後ろからそっと覗いてくるミーリツァを護るように。

 その仕草はかの猊下を満足させたのか、凶悪な笑みを浮かべたまま少女は告げた。

「力を貸す代わりに逃げ道は塞いでやる。あのとち狂った女を、必ず止めろ」

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