亡命

◆8-1

 カラドリウス神聖皇国への亡命は、簡単な事では無かった。

 まず、関は完全にフェルニゲシュの兵によって固められているのを、コーシカが確認した。そのうえで、国境を超えるには山越えしかないと進言し、ヴァシーリーもそれを認めた。

 フェルニゲシュとカラドリウスの間には、封折山脈と呼ばれる非常に険しい山岳がある。古き昔、崩壊神を地の底に封じ込める為、始源神が大陸を折り畳み、その折り目がこの山脈になったとされている。それが天然の要害となり、大陸の半分以上を支配する皇国に迂闊な食指を伸ばされず、フェルニゲシュやリントヴルムが領土を保てていた。それほどまでに国力の差があり、それを塞ぐだけの険しい山脈があるのだ。

 そんな山々にも、コーシカを初めとする密偵達は、自分達が利用する為の道を作っていた。当然山の中を縫って進むような獣道で、山歩きなどしたことのない貴族の子女が通ることは難しい代物だ。

 ヴァシーリーは当然だが、ミーリツァも、一言も文句を言わずに歩いた。足に酷い靴擦れと血豆が出来ても、手当は受け入れるが自分で歩くことを望んだ。慣れぬ野宿で深く眠ることも出来ないし、不安と心労から食事も満足にとれなくとも。

 一日、二日経ち、三日目でついにミーリツァは動けなくなった。十二の子供としては、限界以上に頑張った。ヴァシーリーは何も言わず妹を労うように抱き上げ、自分の背に負って歩き続けた。

 そこから、更に三日。ミーリツァはほぼ水しか受け付けなくなり、ヴァシーリーの疲労も限界に達していたが、決して泣き言は言わなかった。言っても如何にもならないことを言う趣味は無いし、何より。

「シューラ様、ユレーネの街を確認してきました。今のところ、皇国の兵士等も居ないようです」

 コーシカが、この六日間含め、自分達よりも休まずに仕事をこなしていることを良く知っているからだ。慣れてますから、といつも通りの顔で笑って言うが、この猫とて疲労は間違いなく溜まっているだろう。少しでも休ませてやりたいが、今も自分の目と耳として動き続けているのを止めることは出来兼ねた。詫びるのも、違う。

「有難う。後は……この髪が拙いな」

 岩陰に妹を下ろして休憩していたヴァシーリーは、後ろで括った髪を掴み、溜息を吐く。青の髪はフェルニゲシュ王家の証であり、またそれを知らずとも他国では非常に珍しい髪色だ。見咎められても仕方が無い。

「いっそ切るか、いや剃るか」

「えっ!!?」

 誤魔化す為にも必要か、と思ったのだがコーシカの声が思い切りひっくり返って驚いた。思わず二人で息を潜め、疲れから寝入っているミーリツァが目を覚まさないことを確認する。

「いや、あの、すいません。いきなりシューラ様がとんでもないことを仰ったので」

「……そこまで突拍子も無かったか?」

「えと、いえ、確かに悪目立ちする可能性もありますけどぅ、逆に亡命する王弟としての証にもなりますからぁ」

「それもそうか」

 コーシカのいつになくたどたどしい言に納得すると、そうですよね!? とずいと顔を近づけて来て思わずのけぞった。

「なんで、ぱぱっと髪だけでも染めちゃいましょう。瞳は誤魔化せないですし、全部まとめて頭巾で隠せば何とかなります」

「解った、任せる」

「任されました!」

 変装用の染粉をはたかれ、皇国では目立たない黒色になった髪をぐるりと頭巾で纏める。改めて妹を背負い、ヴァシーリーはコーシカと共に街の門を潜った。



×××



 ユレーネに着いてから、5日間は雨が続いた。

 元々、カラドリウス皇国の冬は、雨が非常に多いらしい。更に寒くなると堆く積もる程に雪が降ると、コーシカから聞いていた。どちらも少ないフェルニゲシュに住まうヴァシーリーにとっては、絶え間なく水が落ちてくる曇った空は珍しい光景だった。山を一つ挟むだけで此処まで天候は変わるのか、と宿屋に併設する食堂の窓から空を眺めて思う。

「あら、シュウさん。もう御目覚めでした? 妹さんの具合はどうかしら」

 ヴァシーリーの偽名を呼ぶこの宿屋の女将は、非常にお人好しで、長旅で体調を崩したと告げた妹の事を大層心配してくれた。離れたら心配でしょうと普通の部屋の値段で二人部屋を貸してくれ、何くれとなく世話を焼いてくれている。

「ありがとう。もうすっかり熱も下がったので、食事を二人分用意して頂けないか」

「はいはい、お任せくださいな。妹さんには乳粥でいいかしら?」

「お願いする」

 ほんのりと甘く優しい、牛の乳で煮込んだ米の粥は、食べ慣れなくてもミーリツァの口に合ったらしく、昨日は椀一杯食べることが出来た。足の傷も大分癒えたし、もう心配は無いだろう。内心の安堵を吐く息に変えて、ヴァシーリーは立ち上がった。

「けど、本当に神官様を呼ばなくても良かったのかい? 奇跡を祈っていただければ確実だと思うんだけど」

「いや、路銀も心元無いので。お気づかいに感謝する」

 椀が乗ったお盆を差し出しながら、まだ心配そうな女将の優しさに、内心詫びつつやんわりと断る。この国では神官の数がフェルニゲシュよりも圧倒的に多く、また生活に密接していた。皇都から遠い街にも八柱神の神殿が全て存在しており、祈りを捧げるだけでなく、農作業や灌漑、道路の舗装など様々な工事に力を貸している。人々の生活を豊かにする為、神の奇跡が存在しているのだ。彼らは奇跡の発現に贄を必要としないらしく、それ故にここまで浸透が可能になったのだろう。

 しかし、迂闊に八柱神の神官と妹を会わせたら、彼女が死女神の神官であることに気付かれてしまうかもしれない。この国では崩壊神とその三子神の信仰は邪教であり、奉じることは罪となる。祈刃は勿論隠させているが、危ない橋を渡るわけにはいかなかった。

 狭い宿の階段を昇りながら、背中が涼しい気がして我知らず震える。――一番近しい守りが、今はいないからだ。

 コーシカは、主とその妹がどうにかこの街に腰を落ち着けるのを見届けて、返す刀でフェルニゲシュに戻った。狙いは情報収集と、リェフに連絡を取る為である。鷹が雨の合間を縫って、彼からの連絡を届けてくれたのだ。

「都を脱出できたので、アブンテで落ち合いたいそうです。いろいろ調べたいし、ちょっくら行ってきますよぅ」

 落ち延びてから働きづめの従者に少し休んだ方が良いのでは、と告げても「今休んだら間違いなく、師匠から尻に鞭喰らいますよぅ」と笑って駆けて行ってしまった。

 コーシカと離れること自体は、実は珍しくない。普段から諜報だけでなく、伝令なども任せてしまっているのは他でも無い自分だ。しかし常ならば、コーシカが離れている時はリェフかその部下が護衛として密かに着いてくる。本当に、何の守りも無い状態というのは、生まれて初めてかもしれない。

「……情けないな」

 護衛が居ないだけで、ここまで神経が尖ってしまうのかともう一度溜息を吐く。自分の身を自分で守る、当たり前の事すら猫に頼り切っていたのだと、今更ながら反省した。

 最早、自分には何の後ろ盾もない。一人で――進まねばならない。

 二階の、借りている部屋へたどり着く。決めた通りの調子で扉を叩くと、起きていたのか「兄様?」と声が聞こえた。

 中に入ると、ミーリツァはベッドに腰掛け、先刻のヴァシーリーと同じように外を眺めていたようだった。ただでさえ細い体が随分と窶れてしまったが、頬の血色は戻ってきている。安堵に緊張をほんの僅か緩ませて、部屋の鍵を閉めた。

「体調はどうだ。食事はとれるか?」

「まぁ、ありがとうございます。丁度お腹が空いていたところですの、お手を煩わせて申し訳ございません」

 ミーリツァの声に嘗ての元気は無い。無理もない、肉体的にも精神的にも、彼女は追い詰められ過ぎていた。それでも笑顔を見せてくる妹のいじらしさに、軽く頭を撫でてやってから盆を手渡した。

「粥以外も食べたければ、私の盆から好きなものを持っていけ」

「まぁ、それでは兄様のお食事が無くなってしまいますわ。わたくしよりずっと大きいのですから、しっかり召し上がってくださいまし」

 軽口を交わしながら、ヴァシーリーは軽く、ミーリツァは丁寧に食前の祈りを捧げて、匙を手に取った。

 ふうふうと粥を覚ましながら少しずつ食べるミーリツァの姿に、ふとこうやって食事を共にとることすら、今までは有り得なかったことに気付く。こんな状況でありながら、ほんの少し楽しみを見出してしまう己の図太さに苦笑を噛み殺し、ヴァシーリーは自分の皿を空にした。

「このお粥は麦のものより、柔らかくて甘くて、美味しいですわね。……ふふふっ」

「如何した?」

「ごめんなさいまし、兄様。こんな状況で、兄様に沢山迷惑をかけておりますのに。……兄様とご飯が食べられるのが、嬉しいと思ってしまいますの」

 眉尻を下げて、思わず笑ったことを詫びる妹に、ヴァシーリーの方が笑った。

「私も同じような事を考えていた。気にするな」

「まぁ、そうですの?」

 まだ申し訳なさそうだったけれど、それでも隠し切れない嬉しさでミーリツァの頬が綻んだ。兄と考えることが同じだったことが、血の繋がりを憂う彼女にとっては慰めになったのかもしれない。

 そのまましばらく、雨の音を聞きながら黙り――ふと、粥を食べ終えたミーリツァが呟いた。

「兄様。わたくし、色々な事を考えましたの」

「ああ」

「姉様のこと。長様や、皆様のこと。国のこと。死女神様のこと。沢山、沢山考えましたの」

「ああ」

「……でも、解りませんの。先程まで、兄様の考えていることがわたくしと同じと、解らなかったぐらいに、解りませんの」

「……そうだな」

 他者の心の内など、声に出さなければ解らない。当たり前の事だが、忘れてしまっていたことを、今更ながらヴァシーリーは思い出すことが出来た。

「姉様が何を思って、このようなことをされたのか、わたくしには全く解りません。ちゃんと、姉様に伺わなければ……解りませんの」

「ああ――ああ。全く、その通りだ」

 妹の目の端に、滴が浮かんだことに気付き、ヴァシーリーは食事の盆を脇に避けると、妹の体を抱き寄せた。小さな頃と同じように、胸元に潜り込んでくる背をゆっくりと撫でながら。

「兄様。わたくし、姉様にお会いしたいですわ。怖いけれど、何が起こるか解らないけれど――姉様がわたくしのことを御嫌いだとしても、会って直接、お伺いしたいのです。わたくしは愚かですから、それしか考えられませんでした」

 涙声で、それでもはっきりと望みを告げる妹を奮い立たせるように、腕の力を込めた。

「辛い道になるぞ。争いは、避けられん。……お前の命を、守り切れないかもしれない」

 情けない真実を告げる兄に、妹は泣きながら笑ってくれた。

「ええ、ええ、解っております。ですがわたくしには、何の力もありません。兄様を矢面に立たせてしまいますのに、愚かな願いを告げる妹をお許し下さいませ」

「お前の望みは、私の望みと合致する。たとえそれが血を流すことになるとしても、お前を利用してでも、私は――姉上にお会いせねばならない」

「はい――はい。どうぞミーリツァもお連れ下さいまし、兄様。私の命を、ご自由に、存分に、お使いくださいまし」

 やはり彼女は、自分と姉の妹に相違ないとヴァシーリーは確信する。例え己の力を持たずとも、戦うことを恐れない――寧ろ自分より、勇ましさはずっと姉に似ているかもしれない。

 互いに覚悟を告げ、もう一度しっかりと抱き合い、親愛の口付けを旋毛に落とす。涙目でも満面の笑みを見せる妹に安堵の笑みを見せてやり、ヴァシーリーは窓の外に目を向けて――僅かに眉を寄せる。

 小降りになってきた雨の中、真白い法衣に身を包んだ、八柱神の神官の一団が宿へと向かってきていた。



 ×××



「あらいやだ、シュウさん。服が濡れてるよ、外に出ていたのかい?」

「ええ、少し。外に、神官様達が集まっているようだが、何かあったのですか」

 裏口から戻ってくると、女将が驚いて出迎えてくれた。表の窓にへばりついて興味津々なのを隠さない彼女に苦笑しつつ、傍に向かう。

「そうなんだよ、あたしも吃驚しちゃったんだけどねぇ。あの方達が下げている聖印は間違いないよ、憑代様のお付の方達だよ」

「憑代――国を総べる八柱神の生まれ変わりとされる方々が?」

「そう、そう。なんでまたこんな辺鄙な街までいらっしゃって下さったのかしらねぇ。御利益を下さるんなら、こんな有難いことないけど」

 やはり、この辺境の街であれだけの物々しい神官達がやってくるのは非常に珍しいことらしい。窓の外を改めて見ると、街の神官らしい者達も軒並み迎えに出て、頭を垂れていた。対するは、暗い雨を弾くような真っ白い鎧を一様に着けた、一見軍隊とも見える一団。しかしその先頭に立つ青年だけは、ゆったりとした白絹の法衣を纏い、傍付きに傘を差し掛けられている。

「あれまぁ、あのお姿は戦神ディアラン様の憑代、グァラ様だよ。間違いないよ、生まれつき喉が悪くて、皇帝猊下が手ずからお造りになった魔除けを着けているんだって」

 お喋りの女将がぺらぺらと話す内容を聴きながら、外を伺う。法衣の青年は、確かに奇妙な形の皮を巻き付けたような覆面で、鼻から首までをすっぽりと覆っていた。

 神話では暴虐神アラムと相打ちになった、戦神ディアランの生まれ変わりとされるには随分と痩せぎすな青年だったが、その目線は鋭い。何やら傍付きに耳打ちをして、――ヴァシーリーのいる宿へまっすぐに歩を進めてきた。慌てて女将が出迎えに行き、ヴァシーリーも一つ息を吐いて覚悟を決めた。

「失礼します。この宿の主と見受けますが」

「は、はい! これはこれは大神官様、ようこそおいで下さいました」

「挨拶は不要です。我々は猊下の託宣を持ってこの地を訪れました。この宿に居る客にお目通りを願います」

 入ってきた神官の声は、覆面の下からでも良く響いた。猊下の託宣――即ち、この国の皇帝、あの白い少女が神の名の元に命じたということに相違あるまい。ヴァシーリーはまっすぐに彼らの前に進み出て、髪を覆っていた頭巾を解いた。

「え、シュウさん……」

「――貴方は」

 既に大分落ちていた染粉は、先刻雨でしっかりと流してきた。広がって落ちる鮮やかな青の髪に、女将だけでなく神官も目を見開く。

「失礼。こちらの事情により、挨拶が遅れたことを謝罪しよう。貴殿の探す者は、この身代に相違ないか」

「……その髪。成程、託宣の意を受け取りました。――あのチビめ」

 最後にぼそりと呟いた声は、小さかったうえに隠語だった為意味が解らなかった。他国の貴人と恥ずかしくないだけの礼儀を見せる会話は出来るが、ヴァシーリーもそこまで皇国語が得手なわけではない。

 神官は先刻一瞬眉を顰めただけで、あとは穏やかに眼を細めている。恐らく笑っているらしく、両手を重ねて目の前に翳し頭を下げる、この国独自の礼を見せた。女将や周りの神官達も驚いている。この国で一番偉い筈の、憑代の一人が頭を下げるなど、皇帝か、神か――他国の客人にしかされないと知っているからだろう。

「お初にお目にかかります。我が賜りし名はグァラ・セスト・カラドリウス。序列六、戦神の憑代でございます。猊下の託宣を受け、お迎えに上がりました。どうぞ我等と共に皇都へお越しいただきたい――猊下がお待ちに御座います」

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