過去
◆7-1
稲光の後、すさまじい雷鳴が響き、耐え切れず幼いヴァシーリーはベッドの上で蹲った。
まだ手合せで姉に一度も勝てたことの無い、臆病者と家来にすら謗られる彼にとって、世の中の殆どのものは恐ろしかった。
恐る恐る、分厚い鎧戸に近づいてほんの少しだけ開ける。やはり雨風が強く、また光が暗雲の中に瞬いていた。
こんな時、猫――コーシカがいれば自分の寝台の中に潜り込んでくれるのだろうが、昨日手紙をイオニアスとツィスカに届けに行って貰ったばかりだ。あれの足が速いのは知っているが、あと一日はどうしてもかかるだろう。
恐怖を我慢して、眠ってしまおう、と窓から離れかけたその時。
「――……?」
雨の闇夜の中で揺らめく、灯篭の光が見えた。
死女神ラヴィラの祝福を得られなかった死者の魂は、地下の国へ連れていかれずに地上をずっと彷徨い続けるという。姉から聞いたそんな話を思い出して、ますます恐怖におののいたヴァシーリーは、寝台の中に滑り込んだ。
目を閉じて恐怖から逃げようとするが、煩い雷鳴にちっとも眠気はやってこない。
やがて、それでも光と音が大分遠ざかり、うとうととしかけたその時。
ごとん、と下の階で何か音がして、今度こそ恐怖で飛び上がった。
賊が入り込んだのだろうか。先程見た人魂は、ならず者が使う灯だったのかもしれない。震えを堪えて、いつも枕元に置いてある剣を取る。子供ながらに背だけはすくすくと伸びたヴァシーリーにとって、振るいやすい長剣だった。
本来ならコーシカやリェフに声をかけるつもりだったが、今はどちらもいない。その代りに父王から護衛兵を借りている筈なのだが、どこにも姿が見えない。込み上げる恐怖を、手を噛み締めて我慢する。剣を構えたまま暗い廊下を進む。
がたん、とまた音がした。息を飲み、その音がした部屋の扉へ近づく。
何やら、中から声がする。それは、良く聞き覚えのある声で――
「……姉上?」
思わず声をかけて、扉を押し開けてしまった。
×××
最初に目に飛び込んだのは、白い肌だった。
机に置かれた僅かな明かりで浮かび上がる、寝台の上の小さな背中。何一つ、布を纏っていなかった。俯せになっており、顔は寝台に埋められて見えない。
その体を押さえこんで、圧し掛かったのは、荒い息を吐く、大きな男。
ほんの僅か聞こえる、呻きのような、姉の、声。
その時、自分が何を思ったのか、ヴァシーリーはよく覚えていない。
ただ、止めなければいけない、と思った。そして、嘗て処刑場で猫を助けた時と同じように、その時、止める為に一番確実な方法を使った。
すなわち――
「っぐがぁ……ッ!!?」
剣を両手に持ち、姉に覆い被さり、夢中に動いているものの肩に、思い切り叩きつけたのだ。
ばっ、と血が飛び散り、視界を塞ぐ。一旦剣を引くと更に赤が溢れ、寝台と床を汚した。
他に方法はあっただろう。だが、迂闊に声をかけたり、手加減をしたりすれば、自分が返り討ちに会うことも解っていたと思う。つまり、その時に自分はきちんと認識していたのだ――自分が切り殺そうとした相手が、誰であったかを。
「ヴァシー、リー!? 貴様、何故ッ――」
よろめきながら立ち上がろうとした、年を取っても大きな、父の体に、恐慌したのかもしれない。体は自然と動いた、動いてしまった。――不意を突いた今の内ならば、殺せると。
「げっ」
横薙ぎに、剣を振う。戦場で慣らした父王と言えど、完全な不意打ち、寝台の上で裸で、身動きが取れなかったが故か、何の抵抗も出来なかった。半分以上切り裂いた首から赤黒い血が冗談のように噴き出すのを、呆然と見ていた。
「……ッ、は、っひ」
どだり、と父の体が床に落ちる。ヴァシーリーはひきつけを起こしたように、浅い呼吸を繰り返すことしか出来ない。剣の柄から手を離せず、ただただ震えていると。
「……シューラ?」
むくりと、起き上がった姉が、自分を呼ぶ。いつも通りの、どこかとろりとした声で。
「っ……、あね、うえ?」
そこで漸く、自分が何をしてしまったのか、全部認識が出来て、震えるままに剣を取り落とした。解っていた筈なのに、自分には誰かを殺すことに対する、歯止めなど無いのだということを。
「っ、ぁ、ひぃ……」
「何故、そんな顔を、お前がするんだ。おかしなやつだな」
がくがくと震え、しゃくりあげる無様な弟をどう思ったのか。寝台からするりと降りた裸の姉は、その体の半分以上を父の血で汚しながら――凄絶なまでに美しかった。血に塗れた剣を、無造作に拾い、その柄をヴァシーリーに差し出す。
「私も、殺すか?」
そんな、今日の食後の菓子はどれを選ぶのかと聞くぐらい軽く、姉は嗤ったまま問う。咄嗟に思い切り首を横に振ると、何故か不思議そうな顔をされた。
「そうか、そうか。それじゃあ――」
だがすぐに、姉は嗤う。濃い色の唇の両端を持ち上げて、にんまりと。
「これは、貸しにしよう。シューラ。こいつは、私が殺したことにするから」
こいつ、と言いながら、もう動かない父の躯を軽く爪先で蹴る。そんな冒涜的な様から、目を離せない。
血に塗れた白い手が、べたりとヴァシーリーの両頬を覆う。青い二対の瞳が、向かい合う。普段濁って見える姉の瞳の奥に、何故か――炎のように揺らめく光が、見えたような気がした。
「その代り、いつか必ず、私を殺しておくれ。それが嫌だと言うのなら――私が、お前を、殺してやるから」
見据えられて動けないヴァシーリーに、
「ひとつ貸しだ、シューラ」
そう言って、姉は本当に楽しそうに、嗤って、いた。
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