◆6-2

 次の日、空は腹が立つほど明るく晴れていた。

 王とイオニアスに惜しまれつつも、ヴァシーリーはリントヴルムの王城を発った。ツィスカとはあの後、顔を合わすことが出来なかったが、落ち着いたらいずれ手紙を書こうと思い、僅かな心残りを振り切る。

 実の兄に道ならぬ思いを抱くツィスカの気持ちは、ヴァシーリーには解らない。だが、結ばれることを許されぬ相手がいるのは、同じだったから、どうか幸福になって欲しいと祈る。また国内が荒れてしまえば、時間がかかってしまうかもしれないけど、いつかは、と。

 異変に気付いたのは、マズルカに辿り着き、明日は王都へ向かって発つと決めた夕暮れの頃だった。

「――あれは……?」

 遠目から見ても解る、細く長い狼煙が三本。色は僅かに赤みがかっている。……戦場で、敵襲を受けた時に援軍を求める狼煙だ。上がっているのは、南――皇国との国境に聳える山の上。

「まさか……、アブンテか!?」

 周りの兵士達もそれに気づき、ざわざわと動揺が走る。真っ先に動いたのは、コーシカだった。

「――先行します!」

 駆け出した従者の背に、ヴァシーリーは僅かな迷いを捨てる。スゥイーニに跨り、声を張り上げた。

「馬に長けた者のみ私に続け! ドロフェイ、ラーザリ両名は後詰、麓に待機し兵を纏め上げた後に来い!」

「「御意!!」」

 命令を告げ、ヴァシーリーは思い切り愛馬の腹を蹴る。真っ先に駆け出したコーシカの背はもう見えない。

(まさかもう既に、皇国との戦端が開かれたのか?)

 嫌な予感は幾らでも湧いてくる。もし皇国に宣戦布告した場合、真っ先に狙われるのはアブンテだ。もし自国が準備をしており、アブンテが堅牢な砦になるとしても、そこには間違いなく妹がいるのだ。普段神の存在から目を逸らしているヴァシーリーも、無意識のうちに祈りを捧げていた。

(――無事でいてくれ、ミーリャ……!)



 ×××



 フェルニゲシュの山中には、蛇道と呼ばれる道がある。一見獣道にすら見えない、特殊な印がつけられたその道は、この国の密偵達が使う、険しいが近道となる道であると、コーシカもリェフから教わっていた。

 自慢の脚力で駆けあがれば、この山道を馬よりも早く抜けるが出来る。街道を使っても一日かかる道を、半日で駆けあがり、狼煙がいまだ立ち上っている神殿に辿り着いた。

「――シッ!」

 僅かな呼気と共に愛用の得物を外壁に向かって投げ、繋がった鎖を命綱にして壁を駆け上がる。壁の上で気配を殺し、床にへばりつくように態勢を下げた。

 神殿の中は静まり返っていた。勿論普段から騒がしいものがいる神殿では無いが、この静寂はわけが違う。

 前庭に、倒れ伏している黒い神官衣の神官達がいる。周りの草むらに、赤黒い液体を撒き散らしたまま。

 足音を殺して、前庭に下りる。先に後続を迎え入れる為、門の閂を抜いてから、下生えを掻き分けるように低く進み、手近な神官の首筋にそっと触れた。

(……息は無い。抵抗した様子もない。暗殺? これだけの腕の暗殺者なんて、王家付の奴等しか考えつかない)

 浮かぶ疑問は、僅かに聞こえた悲鳴で遮られた。思考を止め、もう一度得物を思い切り放り上げると、全力で聖堂の外壁を蹴って駆けあがる。悲鳴の出所は間違いない、聖堂の一番上にある隠し部屋であり――この神殿での、ミーリツァの部屋だった。



 ×××



「い、一体何者ですの貴方達は……! こんなことをして、ラヴィラ様はお怒りですわよ!」

「王女様、お下がりください……!」

 ミーリツァは、当然だが混乱していた。突然、降って沸いたとしか思えない狼藉者達が、この神殿でいつも通り、静かに過ごしていた神官達を、誰何もせず悉くを殺したのだ。

 抵抗したものも殺された。抵抗せぬものも殺された。いつも食事を作ってくれた下女も、庭の手入れをしていた使用人も、

「老い先短い私は構わぬ、だがこのお方は――っごぅ」

 今まさに、構えていた祈刃を取り上げられ、心臓を貫かれた――ミーリツァを庇った神官長の老女も。

「長様ッ! ……ひっ」

 慌てて駆け寄ろうとしたミーリツァに、細い剣が向けられる。刀身は黒い。王家付の暗殺者たちが多用する、毒塗りの針剣だ。

「……っ、なんてことを……! あなた方の行い、神々は見ていらっしゃいます! 必ずや神罰が下りますわよ!」

 恐怖と怒りから、目の端から零れ出そうになる涙を必死に堪えながらミーリツァは叫ぶ。黒づくめの狼藉者達は、全く言葉を交わすつもりはないらしく――暗殺者としては当然のことだけれど――無言のまま、武器を構えた。

「っいや……嫌です! 兄様! 姉様! どうか……」

 躊躇いなく近づいてくる男に怯え、思わず縮こまり、来るはずのない愛する兄と姉を呼んでしまったその時。

「そこで名前を呼んでいただけないのが、ちょぉっと残念ですねぇ?」

 金属同士がこすれ合う嫌な音。僅かな水音と、どさりと何かが倒れる音。ぎゅうっと閉じていた目を開く前に、遠慮がちにだがしっかりと抱きしめられた。

「……ぁ」

「申し訳ありません、遅くなりました、ミーリツァ様」

「……コーシカ!」

 既に部屋に入り込んでいた三人の狼藉者は倒れ伏している。鎖のついた刃を掴んで、にやりと笑う猫の姿に、ミーリツァは堪らず抱き付いた。

「来てくれたのね! っわたくしは良いから、みんなを、長様を……!」

「お気持ちはお察ししますが……残念ながら」

「そんな……!」

 首を振るコーシカに、ミーリツァは縋りつく。まだ成人もしていない少女にとっては辛すぎる現実を少しでも癒すため、片手で背をそっと撫でてやった。

「重ね重ね、遅くなって申し訳ありません。シューラ様も向かっていますから、まずはここから――」

 ミーリツァを抱き上げて、まずは脱出しようと階段を下りていくコーシカだったが、ふと違和に気付く。暗殺者達のやり口は良く知っている、何故なら自分の師匠も元そこの出身だからだ。毒の刃の威力も叩きこまれている。一寸でも傷を付ければ、毒はあっという間に体に周り、全身をぶす青くして倒れるのだと。

 しかし、外にあるものも含め神官達の死体は皆、恐怖に顔を歪めてはいるものの毒の効果は見えない。ミーリツァから見えないように、抱き上げて宥めつつ、足で一人の体をごろりと転がしてやると。

「……ッ」

 息を飲む。心臓に突き立てられていたのは、恐らくこの神官の祈刃だ。まさか自殺は有り得まい、態々奪って心臓に刺した、のだろう。――己の血肉を贄にし、祈りを捧げる為の刃で。

「拙い!」

「えっ、きゃあ!?」

 全てを悟って、ミーリツァを抱えたまま全力で走り出す。一刻も早くこの神殿から逃げ出さなければならないことに気づいたからだ。

「ミーリャ! 無事かっ!!」

「兄様!!」

 そして前庭に、恐らくほとんどの部下を置いたまま駆けてきてしまったのだろう、馬から飛び降りて駆け込んできた主に、普段ならば有り得ないが軽く舌打ちをしてしまった。完全に、敵の術中に嵌った、という後悔からだ。

「シューラ様、全ては後で! ここから逃げます!」

「!? ……解った、ミーリャ、こちらへ来い!」

「兄様、兄様ッ!」

 聖堂に走り込んだ瞬間従者にそんなことを告げられたにも関わらず、打てば響くように頷いてくれる主を嬉しく思うが、あまり時間が無い。顔をくしゃくしゃにして抱き付いてくる妹を軽々と片腕で抱き上げる主と共に、外へ抜けようとするが、残念ながら――間に合わなかった。

 突然。聖堂のあちこちに放置されていた神官達の死体が、一斉に――弾けた。

 びしゃりと血肉をぶちまけ、まるで花のように地面を、床を彩り――別の階で殺されたのであろう者達の血が、天井からずるずると別の生き物のように這い降りて来た。それは退路を塞ぐように聖堂の入口へと殺到し、凝り固まる。あまりの悍ましさに、ヴァシーリーもコーシカも目を逸らせず、兄が妹の目を塞ぐのが精いっぱいだった。

 やがてそれは繭のように丸くなり、宝石のように硬質化し――びしりと皹が入る。

「王弟殿下――!」

 そこで遅れていた部下達が漸く馬を乗りつけ、聖堂に向かって走ってくる。

「来るな!」

 咄嗟にコーシカが声を上げるが、間に合わない。そして血の繭が、割れた。

 カップが割れるような軽い音だった。硬質化した血が砕け散り、びしゃびしゃと液体に戻って辺り一面に降り注ぐ。頭から血を浴びてしまい、状況の把握が出来ず慄く部下達と、咄嗟に主とその妹を庇う為前に出るコーシカの前に――大将軍旗下の兵士達が、どこか呆然とした体で現れた。

「……! なるほど、これが転移の奇跡か。便利なものだ」

 最初に我に返ったのは、その一団の長――バガモルだった。部下を含め、彼等は皆演習では有り得ない程の重装備で、既に武器を抜いている。以前開拓村で理不尽な税収を行っていた男であることに主従が気づくと、嘲るような笑みを細い顎の顔が浮かべた。

「これはこれは、慈悲深き王弟殿下ではありませんか。このような辺鄙な神殿に何の御用で?」

「そちらこそ、この状況は一体どういう事ですかねぇ? とんでもない奇跡を無理やりやらかしたみたいじゃないですかぁ。いくら王弟殿下に意趣返ししたいっつったって、やりすぎじゃあないですかねぇ?」

 コーシカの嫌な予感が的中した。この神殿の神官全員を生贄にすることによって、転移の奇跡を可能にしたのだろう。こんな大がかりな儀式を、軍部が出来る筈が無い。間違いなく糸を引いているのは、神殿――大神官だろう。

 主とその妹を背に庇いながら武器を構えるコーシカの軽口に、バガモルは不快そうに眉を顰め、あくまでヴァシーリーの方に向かって話しかけた。

「フン、密偵風情が話しかけるな。ですがご心配めさるな、王弟殿下。これは全て、我等が偉大なる王、アグラーヤ様のご命令なのですから」

「……!」

 息を飲む音がする。ヴァシーリーと、恐らくミーリツァの分も。コーシカも出来ることなら二人の耳を塞いであげたかったが、残念ながらその余裕は無い。低く冷徹な声――しかしコーシカはその僅かな震えに気付いていた――でヴァシーリーが問う。確信を持って。

「王……否、貴殿の目的は、私の命か」

 山道を登ってきた部下達も前庭で武器を構えてはいるが、道は塞がれ、人数の差も有りすぎて迂闊に動けない。邪魔な王弟に優位に立てたことが余程嬉しいらしく、バガモルは嫌らしい笑みを隠さないまま悠々と話を続ける。

「それだけではありませんよ、王弟殿下。陛下はアルードの神官であるエリク・パウーク殿と正式な婚姻をされたことを受け、この国の国教をアルードのみに束ねるという触れを出されました。故に、他の神の神殿には改宗を望み、拒否した場合はその命を有効に使え、と。勿論、ラヴィラ神官であるミーリツァ様も例外ではございませんよ?」

「そんな、馬鹿な――!」

 びくりと兄の首にしがみついたままだったミーリツァの体が震える。その小さな体をしっかりと抱き寄せてヴァシーリーは否定するが、バガモルは一層楽しそうに嗤い声を上げた。

「おやおや、陛下の言を疑うと? 全て事実ですよ、不満ならば王都まで戻り問うてみれば良いでしょう。まぁ――ここで全て、終わらせますがね。何せ、逆らう者の命は全てアルード様に捧げよとの仰せなもので」

「う、うわああああ!!!」

 外から悲鳴が聞こえた。何が起こったのか、内部でもすぐに解った。

 前庭に倒れていた死体は、奇跡の行使に使われなかったらしい。その事切れていた筈の者達が、ゆらりと青白い顔で立ち上がっていた。その胸や首筋に祈刃を突き刺し、血を流し切ったまま。その傷口から、血の代わりに黒い水晶の欠片を零しながら、ぎしぎしと動く死人はそのまま兵士に襲い掛かり、温もりを求めるように腸を引き裂こうとする。対する兵士に切りつけられても、その体はまるで蝋のように硬く、倒れない。あっという間に外は悲鳴と血潮に満たされた。

「――屍人兵まで出しますか!」

 思わずコーシカが叫んだのは、この国の汚点とも言える恐るべき奇跡。死と言う理そのものを崩壊させることにより、永遠に動き続ける傀儡の兵士とする。嘗ての戦争で使われたものの、あまりの悍ましさから禁止されてきた筈のものだ。

「生憎俺達はあれを操れるわけではないので、早めに済ませたいのですよ。聖印があれば襲われる心配は無いそうなのでね」

 印を傷で刻んで貰った手の甲を見せびらかしながら、酷薄な笑みを浮かべてバガモルは進む。続く部下達も兵士達は背後の地獄に怯えつつも、数多の刃を三人へと向けてくる。沈みかけた日が青いステンドグラスを通して、赤で汚れた床を撫ぜていく。

「なんてこと……なんてことを。姉様が、こんな……」

 かたかたと震えるミーリツァの顔はヴァシーリーの肩口に埋められて見えない。だが、声は泣くのを堪えていた。今この場で泣き叫んでも、何にもならないことを彼女自身が知っているからだ。今縋れるのは、兄の体しかないのだろう。敵から目を逸らさないまま、ヴァシーリーは妹の体をきつく抱きしめていた。せめてその震えを止めてやろうとするように。

「……シューラ様。ちょっと俺に従って貰えます? まずはここを、突破します」

 同じく敵から目を逸らさないまま、コーシカはぼそりと呟く。

「どうすればいい?」

 横も見ないまま返事が返ってきて、安堵する。この二人を助ける為なら、何でも出来ると改めて誓いながら。

「今から数えて三つめに、全速力で後ろの窓に走って下さい。俺がぶち割りますので、躊躇いなく外へ。後は俺が何とかします」

 崩壊神とその子神達が描かれた青い大きなガラスの向こうは、崖に面している。その底には川も流れているが非常に流れも早く、落ちたらまず助からない。それでも――コーシカの言葉に、ヴァシーリーはただ小さく頷いてくれた。

「解った。……ミーリャ、目を閉じて、しっかり掴まっていろ。今は耐えろ、必ず長様達も、安らかに眠らせられる時が来る」

 ミーリツァはまだ震えていたが、彼女の腕にはぎゅっと力が籠り、こくりと兄の肩口で頷いた。ヴァシーリーが一瞬だけ、コーシカと視線を絡ませる。後は何も言うことは無かった。

 信頼されている。この状況を、コーシカならば突破できると信じてくれる。かなりどうしようもない状況なのに、それがどうにも嬉しくて――コーシカの口元は自然と綻んでいた。

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