急転
◆6-1
フェルニゲシュ王宮に隣接して立てられている崩壊神アルードの神殿は、離宮よりも大きい。屋根も壁も青と黒のモザイクタイルで覆われた、豪奢な神殿だ。
その中で最も広い大聖堂に、バガモルが率いる兵士の一団が詰め込まれていた。一様に不安な表情を隠さないまま。
普段なら沢山の神官が詰めている聖堂だが、今日いる神官は一人だけ。黒い神官衣の裾を引き摺りながら、ゆっくりと兵士達の周りを円を描くように歩いていく。
その手首には、つい先刻己の祈刃によってつけられた傷口がある。そこから流れる血は細く長く、糸のように床に落ちていく。
聖堂の磨かれた床には、一見解らないが彫り込まれている溝がある。そこに落ちた血は溝を辿り、複雑な文様を描いていく。兵士達を囲むように、祝詞の彫り込まれた二重の円が広がっていく。
「――どうぞ、楽にしてください。既に彼方での準備は整っております。転移の奇跡は必ず成りましょうとも」
己の手首から血を流しながら、顔は青ざめている筈なのに、大神官の孫であり彼自身も優秀な神官である、エリク・パウークは目を細めて微笑んでいた。
黒髪に金の瞳は、この国ではアルードの髪目と同じとして持て囃される容姿だ。顔立ちも整っており、フェルニゲシュの男としては線が細いが、人当たりの良さと地位の高さも相俟って女の人気は高いそうだ。
対するバガモルは、その表情に不安と不信を隠さない。更にあからさまに怯える部下達を苛立った目でにらみながら、腕を組んで円の中心で仁王立ちをしていた。この状況は正直不本意だが、こちらも大将軍から命じられた任務の為逆らうわけにもいかない。
その姿に満足げに頷き、エリクは血に塗れた手を厳かに差し上げ、祝詞を唱える。
「崩壊と再生を司る我等が唯一神、アルードの名において。この世の理を壊し、敬虔なる眷属を血の道へ導き給え」
祈りの言葉に応えるように、血で刻まれた円と文字がじわりと黒く変色する。その黒い血は、まるで融けた硝子が固まっていくように盛り上がっていき、同時にぴしり、と音を立てる。最初は小さく、次に大きく、もっと、沢山。
「う、うわあああ!」
「狼狽えるな! 静まれ――」
宙に走る血は既に亀裂となり、出鱈目な落書きのように、壁や窓にではなく、部屋の中に広がる空気に、空間に走っていく。そして、陣を中心として粉々に砕けるような、激しい音が響いた瞬間――百人以上いた兵士は、どこにもいなくなった。
それを見届けて、ふらりとエリクは床に頽れる。傷つけた腕だけでなく、足や顔、全身に至るまで――細かい皹が入っていた。崩壊神アルードに、血肉が捧げられたのだ。
「良くやったぞ、エリク。これで、崩壊神様を再びこの地に降ろす為の贄を得られる」
儀式が終わったことを確認して入ってきた、腰のまがった大神官が満足げに労う。荒い息を堪えているエリクは応えない。手首を押さえ、体の中から奪われた贄を取り戻そうと必死に祈る。
「終わったか? 我が夫君殿」
大神官がほんの少し不機嫌そうに眉を顰めるよりも先に、どろりと甘い糖蜜のような声が響き、エリクは――自然と口の両端を引き合げ、微笑んでいた。
「おお、これはこれは陛下。我が孫に勿体なきことでございます」
「そう言うな。夫婦の逢引を邪魔するつもりは無かろう?」
「無論、いずれアルード様をその身に降ろす、貴女様の歩みを止める者などおりますまい。どうぞ、お好きなように」
言いたいことを言っている、祖父の声など全く聞こえない。甘美な響きのみにぶるりと体を震わせて、エリクは顔を上げる。既に祖父は聖堂から出てしまったらしく、目の前にはただ一人。
この国を総べる王。畏れ多くも、伴侶として侍ることを許された神の憑代。いずれ崩壊神アルードが彼女の身に降りた時、世界は幾度目かの黄昏に落ちて生まれ変わるのだと、アルード教の経典には記されている。確かに彼女のどこか破滅的な在り方は、大神官を初めとする信者達を信じ込ませるには充分過ぎるほどの説得力がある。
だが、エリクにとってはそんな事実には何の意味も無い。彼が口元に浮かべる笑みは、先刻までの貼り付けたようなものとは違う。我慢していた甘味をやっと口の中に入れた、無邪気な子供のような笑顔だった。
「アグラーヤ様……」
「グラーシャで構わん、と言った筈だが?」
「畏れ多いことです……」
床に腰を下ろしたままは不敬と思い、立ち上がろうとするエリクを、アグラーヤは手をすいと翳すことだけで止める。逆にその場にしゃがむと、エリクの傷を負ったままの腕を取り、その綺麗に付けられた傷にゆるりと舌を這わせた。
「あ、ぐらーや、さま」
「なんだ、妻に癒されるのはご不満か、夫君殿?」
その熱に耐え切れず引き攣った声を上げるエリクに対し、まるで肉食獣のように、赤く染まった口元から糸切り歯を覗かせてアグラーヤが嗤う。そのまま傷口に歯を立てられても構わないと言いたげに、エリクも微笑んだ。
「すべて、すべては、貴方の望むままに……我が愛しい主君にして、唯一無二の奥方様」
「ああ。始めよう、エリク。お前の好きにするが良い」
血に濡れた唇が触れ合うほどの位置で、囁き合いながら、夫婦になったばかりの二人は嗤っていた。
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