◆5-2
不意に声が聞こえたと思えば、背中に軽く寄り掛かる熱。普通なら驚いて飛び退るところだが、この声と温もりの持ち主に驚くことなど有り得ない。解りきっている名前を、少し強く呼ぶだけだ。
「コーシカ」
「はいはい、茶化すのは無しですよね、解ってますよぅ」
僅かな咎めにちゃんと気づいているらしく、ひょいと飛び上がって自分の隣に並んだ忠実なる猫は、素直に頭を下げた。ツィスカの思い人がヴァシーリーではないことを、一応説明してはいるのだが、コーシカ自身は話題が出る度に煽るようなことを言ってくる。……茶化しだと解っていても、ヴァシーリーの気持ちの方がどうにも飲み込めない。
憮然とした主の顔が面白いのか、猫はにやにやと笑いながら尚も冗句を続ける。
「いっそ、全てを捨てて我が国へ来い、とか言ってみたらどうです?」
「――本当に傍に来て貰ったとしても、守れる自信が無いのだ、私は」
互いの気持ちが国家間の婚姻に関わりは無いことは百も承知。だが今、これ以上弱みを増やせば、自分の首は皮一枚も残さずに切られるだろう。己の立場の弱さこそが腹立たしい。一つ息を吐くと、コーシカもふざけるのは終わりと解ったようなので、報告を受け取ることにした。
「コバルニィ伯爵の件はどうなった?」
「師匠に任せてきましたよぅ。十中八九、大将軍は蜥蜴の尻尾を切ります。マズルカの領主が次にどうなるかは、難しいところですね。貴族達もあそこは狙い目でしょうし、また仲間内でやり合うと思います」
「相変わらず、ということか」
「他ならぬアグラーヤ様が、好きにしろ、と一言仰ってましたしねぇ」
「……姉上」
手の甲を瞼に当てて空を仰ぐ。表向きはアグラーヤに忠誠を誓っているものの、貴族長も大将軍も、己の利益を得る為に王という存在を利用していることは間違いない。そしてアグラーヤ自身、その状況を喜んでいるようにも見える。また苦しむのは民達だろうに――詮方ない不満をぎり、と奥歯で噛み殺して、ヴァシーリーは話題を変えた。
「今回の婚姻で、我が国とリントヴルムの間は盤石となった。姉上は、皇国に本気で戦を挑むつもりか?」
「ちょっと考えたら無謀ですよねぇ。いくらうちの軍が精強で神官の数を揃えても、相性が悪すぎます。向こうの奇跡には勝てませんよ」
皇国が奉じる創造神を初めとする八柱神の奇跡は、崩壊神アルードとその眷属神の力を打ち消す力を振う。これもフェルニゲシュが皇国に、東方へと追いやられた理由だ。
「鷲獅子隊の力を借りてもか?」
「全部借りることが出来るんなら解りませんけどぅ。あの王様がすんなり出してくれるとも思えませんねぇ」
そも、リントヴルムは山の国、天然の要害に囲まれた守りの硬い国だ。攻め入るよりも攻めて来た敵を迎撃する方が圧倒的に有利。即ち、下手に国から出ない方が負けないのだ。皇国に攻め込む兵を出して貰えるかは難しい。
「……ゾーヤ・スリーゼニ殿について、何か解ったことはあるか?」
これも、王都に帰るついでに調べて欲しいとヴァシーリーが手紙で命じていたことだ。何らかの思惑があるのならば、と。
コーシカは少しだけ眉を顰めて、あんまり詳しいことは解らなかったんですけど、と前置きしてから話し出した。
「ゾーヤ様は、祝福持ちです」
「それは――」
驚いて目を見開くと、コーシカはひとつ頷いて、ひょいと東屋の手摺に座って話し出す。どこか、詰まらなそうな顔で。
「病神の祝福の一つに、蛇の目っていうのがあるんですよ。他人が持つ感情の向きを見ることが出来るっていう祝福です」
コーシカの両性の体も祝福の一つとされている。……本人にとっては、無駄に拷問を受けた原因であり、唾棄すべきものだけれど。
「それは――辛いだろうな。自分に向けられる思いが全て解ってしまうというのは。好意ならばまだしも、悪意なら尚更」
他者から悪意を受けるというだけで辛いのに、それを視認できてしまうというのは更に辛くはないだろうか。或いは隠しているものも全て自分に突き刺さってしまうのだろうか。まだ成人したばかりの少女には、重すぎる祝福だ。
と、横から伸びた手が、ヴァシーリーの鼻をぎゅうと抓んだ。
「ん、ぐ」
「シューラ様ぁー。なんであんな失礼な女にまで同情してるんですか貴方は」
「……なんでお前がその辺りのことを知っている」
ゾーヤ嬢と自分が話しているところを見せた記憶が無く問うと、何故か勝ち誇ったように胸を張られた。
「俺が居ない間の護衛は、師匠の他の弟子が任されてるんですーぅ。そいつらから銀貨一枚で聞き出しましたともぅ」
「安いな……」
自分の情報が仲間内で、かなりの安価で取引されていることを知って天を仰ぐ。主の鼻を抓んだまま、コーシカは不機嫌そうに続ける。
「お優しいのは知ってますけどぅ、限度がありますよぅ。女性に優しくし過ぎると勘違いされますよぉう」
「元から怯えられていると思うのだが……」
「そういう、事じゃ、なぁくて」
ぎち、と指の力が強くなる。堪らず降参の意を込めて片手をあげると、溜飲を下げたように手を離してからどん、と肩に頭突きをしてきた。本当に猫のような懐き方をする、とついつい弛んでしまう頬を手で覆って隠す。
やっと機嫌を直したらしい猫に聞くには少し迷ったが、疑問を提示することにする。
「コーシカ」
「はい?」
「……自分の姿を自在に消し、現す奇跡、あるいは祝福は有り得るか?」
んん、とちょっと唸る声が肩口から聞こえる。この猫が基本的に神に対して距離を取りたがっていることは解っているのだが、知識が豊富なのも間違いないので、内心詫びつつも聞いてしまう。
夜の寒さが気になるのか、それとも単に嫌な事を思い出すのか。訴えるようにヴァシーリーの肩へ頬を擦り寄せながら、コーシカはひそひそと囁く。
「俺の気配消しは師匠直伝、体術の一種です。崩壊神、暴虐神、病神、死女神のどれからも聞いたことありません。考えられるのは皇国の――始源神を初めとするあっちの神様ですかね」
「やはりそうか」
あの、マズルカで会った、言うだけ言って姿を消した白い少女。皇国の人間であることは間違いないだろうし、始源神を信仰していることもほぼ間違いないだろう。
「……何かあったんですか?」
「お前達が竜人の子を助けた時。私達の宿に侵入者があった」
「えっ。は、早く言って下さいよそういうの!」
慌てたようにがばりと顔を上げる従者に謝りつつ、ヴァシーリーは淡々と続けた。
「すまん、あの後色々あって報告が遅れた。見た目は少女にしか見えないが、始源神の神官であると思われる者だ。あの街で奴隷売買が行われていることと、恐らく竜人が囚われていることも知っていた筈だ」
「本当に? ……ああもう、護衛の面目丸つぶれじゃないですかぁ」
ぎゅうと細腕が自分の二の腕に絡みついてくるので、宥めるようにその腕を指先で叩いてやる。
「離れるように命じていたのは私だ、気にする必要はない」
「解ってても気にするんですよぅ! しかし、敵国に態々侵入してそんな奇跡を使うなんて、余程腕の良い密偵なのか、あるいは――」
そこで言葉が途切れた。横を見ると、コーシカが随分と難しい顔で眉間に皺を寄せている。
「何だ? どんな細かいことでもいい」
「……始源神の、自分の魂を切り離せる奇跡、ってのが確かあった筈なんですよね。寝てる間に、意識を別のところに飛ばすことが出来るみたいな」
その言葉に思い出す。日の光に透けそうな、気配の薄い白い少女の姿を。
「……私達が見た者は、意識だけだったと?」
「いやそれもおかしいんですけどね。そもそもその意識ってのは見ることが出来るだけで、干渉なんて出来なかった筈ですし。……あー、ふわっとした知識ですいません」
「いや、充分だ。始源神の知識など持っている方がうちの国では珍しいしな。……嫌なことを思い出させたな」
労うように、絡みつかれている腕とは逆の手で頭を撫でてやると、せわしなく瞬きをしたコーシカが、耳の近くでも聞こえないぐらい小さな声でもごもごと呟いた。
「え、いや、そんなお気になさらず。お役に立てるんなら使ってくださいよぅ」
すっかり大人しくなった猫の姿に、今度こそ口を綻ばせてしまった時。
ふとコーシカが顔を上げ、ヴァシーリーから離れると、羽音も無く闇夜を抜けてきた一羽の梟を腕に停まらせた。足に巻かれた手紙を解いてから餌を与える。
本国にいるリェフと連絡を取る為の鳥だ。昼間は鷹、夜は梟が引き継いで手紙を放つことが出来る。ヴァシーリーに目線で礼をしてから中身をざっと確かめたコーシカの瞳が僅かに瞬く。
「……シューラ様、ちょっと面倒なことに」
「如何した?」
「姉王様が、大神官の孫にあたるエリク・パウーク殿と、正式に婚姻を結ばれるそうです」
告げられた言葉に目を見開く。何故今なのか、と思考を回転させながら従者に問う。
「リントヴルムへは?」
「正式な発表はまだです。こっちの男至上主義に敬意を払ったわけじゃあないでしょうがね。何にしろこれで、王の腰巾着共の力関係が変わります。早めに戻った方が良いって、師匠も言ってますよ」
「そうだな……、ミーリャの約束を破るのは忍びないが」
急ぎならばマズルカから真っ直ぐ王都へ向かわねばならない。アブンテに寄れば一日遅れてしまうだろう。生真面目な主の言葉に、コーシカも済まなそうに頷いた。
「ミーリツァ様が臍を曲げた分はどうにか宥めますから。シューラ様はお怒りを解くお手紙の文面を考えておいてくださいよぅ」
無論二人とも、あの妹姫が駄々を捏ねることなどないと解っているからこその軽口だ。ぱちりと片目を瞑って見せるコーシカに、ヴァシーリーも漸く僅かに口元を綻ばせた。
「それは……解った。すまない、コーシカ」
「そこは有難う、でお願いしますよぅ」
×××
一方、自分の部屋に向かっていたツィスカは、その途中で驚きの人物と出会っていた。
「これは……義姉上様。如何なさいましたか? まだ披露宴の途中では」
いつ会場から出てきたのか、ヴェールをかぶったままのゾーヤが、沢山の傍女を連れて塔の前に陣取っていた。戸惑いを押し殺して問うと、地を這うような低い、震えた声が聞こえた。
「……と、取らないで」
「え?」
「も、もうわたしのものだもの! あの人を取らないでよ!」
不意に声を荒げられ驚くと、傍女達が素早く間に入り頭を下げる。このような癇癪に慣れているのかもしれない。
「申し訳ありません、ツィスカ様。奥方様は少々気が立っていらっしゃるのです」
「み、見えるもの! わたし、わたしにはじめて、あんなに綺麗な『紐』を伸ばしてくれた人、初めて! それなのに、なんであんたの方が太いの、なんでなのよ! なんで、あの人に、そんなものを向けてくるのよおお!」
意味の解らない糾弾の筈だった。だが、一瞬ツィスカは痛みを耐えるように眉を顰めて――す、と柔らかい笑みを顔に貼り付けて、頭を下げた。
「……義姉上。どうぞ、お疲れならばお部屋にお戻りください。兄上には――誰か、伝えておくように」
「かしこまりました」
自分が行った方が良いだろうが、宴の会場には入れないし、ここでそう言えばますますこの新妻はいきり立ってしまうだろう。従者の方も承知したようで、無表情ながらも深々と頭を下げた。
未だ騒がしいゾーヤを宥めながら去っていく一団を見送り、ツィスカも己の部屋へ向かう。一国の王女としては随分と狭い、塔の上の部屋、その扉をしっかりと閉め、ほそりと呟いた。
「――見抜かれるほどに、迂闊でしたか」
その顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。その事実すら彼女は耐え切れず、両手で顔を覆い、爪を立てる。
「……あにうえ、」
絞り出したその呼び声は、恋い焦がれる少女の声にとても似ていた。
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