思惑と束縛

◆5-1

 高い天井と青い擦り硝子で美しく飾り立てられたフェルニゲシュの王宮と違い、リントヴルムの城は質実剛健。飾り気など一切なく、有事の際に砦としての機能をふんだんに使える備えのある城だった。

 僅かな圧迫感を覚えるが、それは決してこの城の天井が低いからだけではない。何とも言えぬ空気の重さは、フェルニゲシュでヴァシーリーに与えられているそれと、よく似ている。人々の無意識の悪意が、まるで澱のように床に溜まっているような気がした。

「よくぞ参られた、ヴァシーリー・ドゥヴァ・フェルニゲシュ殿。まずは寛がれよ」

「ご健勝で何よりです、リントヴルム王。此度の婚姻、まこと目出度きことであると、我らが王も大変お喜びです」

 玉座に座っているのはイオニアスとツィスカの父、現リントヴルム王。20年前の竜人との戦で片腕を失って以来前線に立つことは無くなったが、それでもその武威は未だ国内外に響き渡る剛の者であり、その体躯と目の輝きは武人のそれだった。

「うむ、二つの国が今後とも、共に歩んでゆくことを嬉しく思うぞ。これで不肖の娘も、片付けることが出来るようになりましたな」

 ははは、と快活に笑いながら告げられる言葉に、周りの重鎮達も笑う。実に屈託なく、面白そうに。玉座の傍に控えているイオニアスは、笑っていなかった。ツィスカは――、いない。この謁見室に入ることすら、許されていないのだ。

 リントヴルムは、徹底的な男尊女卑の国だった。女は生まれては父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては息子に従う、という言葉が美辞のように伝えられている。皇国のような豊かさも、フェルニゲシュのような広さも無いこの厳しい自然の国で、そうしなければ女性は生きて来れなかったのだ――という歴史や事情は重々承知の上だし、他国の人間がそれを指摘するのは内政干渉と捉え兼ねられない。故にヴァシーリーも口を噤むが、それでも気分は良くない。

「して、そちらの女王は健勝か? 婚姻の話も未だ聞こえぬが」

「……婚約は結んでおりますが、今はまだ時期ではありませぬゆえ」

「ほう、ならば先にヴァシーリー殿が妻を娶るのは如何か。ツィスカも貴殿ならば文句はあるまい」

「私は未だ若輩の身ですし、王の婚姻が決まる前に王弟がでしゃばるわけにはいきません。ツィスカ殿のお心が真ならば、とても光栄ですが」

 つまり、リントヴルム王は、姉が現王として即位している今のフェルニゲシュすら軽んじている。当たり前のように、姉王の治世は一時的なもので、ヴァシーリーかいずれ生まれる息子に譲るものだと、何の疑問も無く思っているのだ。姉がそんなことを考えているわけがないし、ジラントは長子相続が原則であり性別を理由に可否されない。ただ、リントヴルムにとっては有り得ぬことだというだけ。

 そう考える王にとって、一番丁度良い娘の嫁ぎ先が、ヴァシーリーなのだろう。ヴァシーリーも王家の血を受けた以上、婚姻に己の我儘を入れることは出来ないと理解している。きっとツィスカの方も。……それでも、彼女のやり場のない思いを考えると、とても肯定は出来なかった。いつか決まる運命だとしても、猶予があるうちは、彼女を追い詰めたくない。

「此度は婚約の宴となる故、是非参加してほしい。正式な披露宴はいずれ、改めて開かせていただこう」

「光栄です、王よ」

 丁寧に頭を下げながら、ヴァシーリーはずっと噛み締めていた唇をそっと舐めた。



 ×××



 宴といっても、国の名士たちを集めて食事と酒を楽しむのが主題のような代物で、婚約の儀式は神殿で厳かに行うのが普通であるヴァシーリーはどうにも馴染めない。幸い部下達にも前庭で酒が振る舞われたので、彼らの長旅を労うことは出来たが。

 どちらかと言うと、上座を用意されたイオニアスの隣、シブカ神官の神官衣を被って顔を見せようとしないゾーヤが、来客たちに拙い振る舞いをするのではないかという不安の方が大きかったが、驚くくらい彼女は落ち着いており、イオニアスも挨拶の合間に度々、自分の妻となる女性に笑って話しかけていたし、拒絶もしていないようだった。どうやら二人の相性は悪くないらしい。どんな形にせよ、友人が良い伴侶を得られるのならばそれに越したことは無い、と僅かな安堵の息を吐き、挨拶の為二人に近づいた。

「イオニアス、ご機嫌だな」

「おお、シューラ! 飲んでいるか? お前も堅苦しいことは気にせず、今日は楽しんでくれ」

 笑顔で差し出して来た杯を軽く打ち合わせ、横目で花嫁の方を確認すると、慌てたように俯かれた。

「許せ、我が奥方殿は恥ずかしがりのようだ。俺のような粗野な男ではこの方のおめがねに適わないかもしれんが、精一杯務めさせていただくとも」

「いえ、……そんな、ことは」

 おずおずとだが、ゾーヤが否定の言葉を囁き、イオニアスはまた笑う。どうなることかと思ったが、この友人にはこれ以上の不安は必要ないようだ。

「それならば、良かった。私はツィスカ殿のところへ行ってくる」

「ああ、すまんな。……頼むぞ」

 ふと、イオニアスの顔が曇り、それでもしっかりとヴァシーリーに視線を合わせて囁いた。父や家臣の事を鑑みて、表だって動くことは出来ないが、彼も妹のことを案じているのは間違いないのだ。

 その思いを受け止めて宴の席を離れたヴァシーリーは、その背をゾーヤが睨み付けていることに気付かなかった。



 ×××



 この城唯一の洒落っ気を見せる、大きな池と東屋のある裏庭は、子供の頃訪れた時からヴァシーリーの憩いの場だった。姉は王太子としての勉強があったし、リントヴルムからは軽んじて見られていた為、この国に呼ばれるのはいつもヴァシーリーだった。この城に泊まった時は、イオニアスとツィスカ、こっそりコーシカも混ざって遊んでいた。

 その庭園を通り抜け、外壁に通じる塔の一つの中に入り、階段を昇る。城の中にも関わらず見張りは殆どいない。

 塔の上階にある部屋の扉をノックする。ほんの少しの間の後、開いた扉の隙間

からツィスカが顔を出した。

「お疲れ様です、ヴァシーリー殿」

「……ツィスカ殿」

 対外的な宴の席に出ることも許されない彼女の自室が此処だった。流石に鎧は外していたが、ドレスではなくこの国の伝統的な、動きやすい装束を付けている。僅かに唇を噛むヴァシーリーに対し、ツィスカの方は穏やかに微笑んで問う。

「お気を遣わせてしまってすみません。私は大丈夫ですので、どうぞ宴にお戻りください」

「貴方は……」

 一滴の嫌味も無くさらりと言われる言葉に、ヴァシーリーの方が鼻白む。そんな彼の姿をどう思ったのか、ツィスカは困ったように眉を下げた。

「ヴァシーリー殿はいつも、私の為に怒って下さいますね」

「性別だけで地位を奪われるというのは、申し訳ないが国が違えど、納得がいかないもので」

「そちらは昔から、そうですものね」

 フェルニゲシュは古くから、男も女も戦に武器を持って戦う国だ。ヴァシーリーの部下にも、女性の兵士は少なくない。王族は特に、体格と膂力で性別差があまり無いせいかもしれない。

 流石に妙齢の女性の部屋に入るのは躊躇われたので、外に誘った。ツィスカはやはりほんの少し困った顔をしたが、他国の貴人を邪険に追い返すことも出来ないのだろう、素直についてきた。

 庭の東屋まで降りてくると、空を見上げてツィスカはほんの少し嬉しそうに微笑んだ。

「子供の頃はここで、良く遊びましたね」

「ああ。折角鷲獅子の背に乗せて貰ったのに、私は怖くて泣いてしまった」

「ふふ、すみません。そうでしたね」

 何の命綱も無く空を飛ぶというのは中々に恐ろしく、散々イオニアスに笑われたしツィスカには心配されてしまった。情けなさに頭を掻くと、ツィスカはまた笑ってくれたが、寂しげな微笑みだ、とヴァシーリーは思う。

「……申し訳ありません、ヴァシーリー殿」

「? 何故」

 笑ったことを改めて詫びたのかと思いきや、ツィスカは本当に申し訳なさそうに眉尻を下げていた。

「兄上の婚姻が、決まったので。……次は私と、ヴァシーリー殿の話になるかと思われます」

「ああ、そうなるだろうな」

「なので、申し訳なく。貴方の想いを、私は知っているのに、止めることが出来ません」

「それはこちらの台詞だ。私とて、貴方の本心を知っているのに、それを叶える術が思いつかない」

「……本当に、相変わらずですね、ヴァシーリー殿も」

 どこか安堵したようなツィスカの顔はやはり寂しげだったが微笑んでおり、どこか憧れるようにヴァシーリーを見ていた。

「如何なる理不尽に苛まれても、貴方は決して諦めないのでしょう」

「……どうだろうな」

「私には、できません。諦めることも、諦めぬことも。……浅ましいと、お思いでしょうが。どうしても、かなぐり捨てることが出来ないのです。私に関わる全ての人を、不幸にするにも関わらず」

 見上げる彼女の瞳は、今まさに宴が開かれているであろう広間の窓に向かっていた。苦しそうに絞り出されたツィスカの声に、ヴァシーリーは言葉を失ってしまう。彼は知っている、彼女がどんな思いを抱えて、それを昇華することも捨てることも出来ず、一人で苦しみ続けていることを。

 まだ、幼い頃の話だ。何かの拍子にヴァシーリーとツィスカが二人きりになった時。次期王として忙しい兄を支えられるようになりたい、だが女では政治には関われないからせめて軍人になりたいと夢を語る彼女に。

「貴女は本当に、イオニアスが好きなのだな」と、姉にはあしらわれ妹には何も出来ぬ自分から、僅かな羨望を込めて告げた時。

 幼いツィスカは、見る見るうちに顔を蒼褪めさせて、泣き出してしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も謝る彼女を、只管宥めることしか出来なかった。

「……私に何か、出来ることは無いか」

 この問いも、何度も続けてきた。その度に、彼女は首を横に振るのだ。

「そのお気持ちだけで、本当に充分なのですよ、ヴァシーリー殿」

 これ以上貴方まで悩ませるつもりは無いのだと、言わんばかりに。

「覚悟は決めております。この想いを誰にも悟らせぬまま、煉獄に落ちるさだめと思っておりました。この胸の内を貴方が知り、覚えていてくださるだけで、本当に充分なのですよ」

 そうやって笑う彼女の顔はとても穏やかで、ヴァシーリーは何時も何も言えなくなる。数少ない友人の大切な妹を、助けてやりたいという気持ちはあるのに。……彼女が何より、それを望んでいないから。

「少し、冷えました。戻りますね」

「ああ。……ツィスカ殿、どうか息災で」

 月並みな言葉しか言えない己が腹立たしいが、ツィスカは何の憂いも無く微笑んで、軍式の礼では無く、ドレスの裾を抓むふりをして、優雅にお辞儀を見せた。

 静寂が戻る。宴の席の音はまだ遠い。

 東屋の柵に寄り掛かったまま、暫く空を見上げる。まだ夜の深い空は黒くて、何故か安心した。

「逢引、終わりました? 妬けちゃいますねぇ」

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