◆4-3

「ヴァシーリー殿、お久しぶりです。ご助力感謝致します」

「いや、我等は何もしてはいない。こちらこそ徒に国境を騒がせてしまい、申し訳なかった」

 ヴァシーリー達が辿り着いた時には、完全に竜人達は引き上げていた。下手を打つとリントヴルムとの関係が悪化する可能性もあったので、内心安堵の息を吐きつつ、昔馴染みの王女と挨拶を交わす。

 先刻まで鉄火場に身を置いていたにも関わらず、この国の王女、ツィスカは涼やかな顔で微笑んでくれた。

「何を仰います。遠路はるばる、ようこそお出で下さいました。見苦しい格好で、申し訳ありません」

 無骨な鎧に身を包み、その顔は煤で僅かに汚れ、茶髪を女性としてはかなり短く切り揃えていても、彼女の美しさは決して消されるものではなかった。指摘したら、彼女は嫌がるかもしれないので口には出さず、別の問いを口にした。

「しかし、何故ツィスカ殿が砦の防衛に?」

 ツィスカはこの国の第一王女であるが、同時に騎馬部隊を率いる騎士でもある。このような砦の篭城戦等、もっとも苦手な筈。当然の疑問に、ツィスカはほんの僅か苦笑した。

「……ここしばらく、国境付近に竜人達が現れ、村々に不安が募っていたので、警戒しておりました。兄上の奥方様を安全にお迎えする為にも、と父上に命じられましたので」

 ツィスカの声がほんの少し震えたことに気付き、ヴァシリーは痛ましげに眉を顰めた。自分とは別の意味で、彼女の国における立ち位置も非常に微妙なのだ。

「そうか……。しかし貴方は、」

「それに、兄上にも既に知らせが届いていたようです。ほら」

 遮られ、空を見上げるツィスカに習う。青空を割くように、飛んでくる影。竜人よりも小さいが、その翼はとても大きい。太陽を遮るように一瞬影が走り、空から茶色い羽が落ちてくる。

 獅子の体と鷲の頭、そして大きな翼を持つ鷲獅子。リントヴルムにのみ生息するこの獣を、彼等は飼いならし、大陸唯一の「空軍」を得ていた。小国であるリントヴルムが、この山岳地帯に国を築けた一番の理由である。

 一際大きな鷲獅子が砦の上を一度ぐるりと旋回し、すれすれまで近づいて来た時、上に跨っていた男がひらりと飛び降り、砦の上に着地した。

「ツィスカ! 無事かっ!」

「兄上――」

 兵士が歓声をあげ、頭を垂れる中、男は大股でずかずかとツィスカに向かい――互いに鎧を身に纏ったまま、しっかりと抱きしめた。

「また忌まわしき竜人共が現れたと聞いて、駆け付けたぞ。すまん、お前には苦労ばかりかけるな」

「兄上……。どうぞ、ご安心ください。役目は果たしましたし、その、……ヴァシーリー殿が、そちらに」

 兄の腕の中で居心地が悪そうに身を捩る妹の頬を撫でて漸く解放し、男は今度はまっすぐにヴァシーリーの元にやってきて同じように抱擁した。大声で笑いながら。

「ははは、ヴァシーリー! 待ちかねたぞ! よくぞ来た!」

「ああ、久しいなイオニアス。お前も相変わらず、元気そうで安心した」

 色の濃い金茶の髪を短く刈り込み、妹と同じ赤みがかった瞳を輝かせているイオニアスは、体格はヴァシーリーの方が上だが、背丈は負けていない。遠慮なく肩鎧を叩かれ、がんがんと鈍い音が砦に響く。

「無論だ! 我が国が戦で騒がしいのはいつものことだ、苦労はかけるかもしれんが、この名にかけて責任を果たそう。して、姫君はどちらに?」

 言われて、砦の下へ視線を送ると、ドロフェイの隊に守られてゆっくりと進んでいた輿が、漸く門まで到着したようだった。

「あそこか。――先に行くぞ!」

 それだけ言って、イオニアスは鋭く指笛を吹く。すると、空を旋回していた鷲獅子が見る見るうちに高度を下げ――主は躊躇うことなく、砦の縁から空へ飛び出す。

 間髪入れず飛び込んできたグリフォンの背に綺麗に跨ると、腹をひとつ蹴る。あっという間に大きな翼をはばたかせ、真っ直ぐに輿へと向かっていった。

「全く、相変わらずだな」

「落ち着かず、申し訳ありません。あれが兄上らしさゆえ」

 そんな風に、困ったように眼下を望むツィスカの横顔を見て、ヴァシーリーは何とも言えぬもどかしさを味わっていた。



 ×××


 ゾーヤ・スリーゼニには、病神の祝福が与えられている。神に祈れば誰もに与えられる奇跡では無く、生まれつき個人だけに授けられた力だ。

 それに気付かれたのは、八歳の時の事だ。ゾーヤが熱に浮かされたように、自分に向かってくる沢山の蛇の事を乳母に訴えかけ、それが父母の耳にも入った時。他者の感情が紐として見える瞳を持っているのだと、診療に来た神官に告げられた。

 両親には喜ばれた。祝福を得たものは神官として高い地位に付けるし、良い縁談も結びやすくなる。体が弱く、容姿も勉学もそれほど秀でたところを見せない娘に、売りどころが見つかったと喜んだのだろう。

 そう思ってしまうぐらいには、既にゾーヤは己に向けられる感情がどのようなものであるか理解していた。自分にずるずると巻き付いてくる紐は、いつも溝泥のような嫌な色をして、彼女の体を締め付けていたから。親は前述の通りだし、使用人たちはすぐに癇癪を起すゾーヤを持て余していたし、男達は育ってきたゾーヤを侮蔑と欲望の籠った感情で縛ってくる。

 故に、ゾーヤは他者との接触を避け続けた。幸い、神殿に修行として入れば、その望みはほぼ叶えることができた。

 勿論彼女とて、貴族の娘の端くれだ。いつかは必ず、誰かに嫁がなければいけないと理解している。他国の王子との結婚が決まったと言われた時は、正直嬉しかった。それぐらい夢を見ても罰は当たるまいと思った。

 自分がそこまで秀でた所も無い、器量も悪いことをゾーヤはちゃんと理解している。でも、だからこそ、そんな自分を愛してくれる相手がこの世の何処かにいるのではないかと、夢想してしまうのも、年頃の娘としては仕方ないことだろう。

 輿の外が騒がしくなる。あの王弟は護衛も碌に出来ないのだろうか。言葉だけは優しかったけれど、その感情は全くゾーヤに向かってこなかった。父の言っていた通り、姉とは比べるまでもない使えなさだ。

 そんな風に傲慢な思考に意識を遊ばせていたゾーヤは、不意に聞こえた羽音と声にびくんと体を竦ませた。

「ゾーヤ殿はこちらに?」

「ええ、ですがどうかお待ちを――」

「自分の妻の顔を改められぬ夫がいるのか?」

 ――まさか。

 天幕の外から聞こえた声の正体に辿り着き、おろおろと身を彷徨わせる。心の準備が出来る前に、無遠慮にばさりと入り口の布が開かれ――

「お初にお目にかかる。我が名はイオニアス・リントヴルム。鷲獅子と共にある国の王太子である。よろしく頼むぞ、我が奥方殿」

 ゾーヤの姿を一目見て、臆することなく微笑んで、こちらに手を差し伸べてくれた。

 まっすぐ向かってくる感情の紐は、今まで見たことが無いほど輝いていて、まるで矢のように彼女の心臓に辿り着いた。……今まで、自分に対する好感情など碌に知らなかった彼女にとって、ごく普通の好意すら輝いて見えてしまった。

 それだけで――、ゾーヤ・スリーゼニは、恋に落ちてしまったのだった。

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