◆3-6
コバルニィ伯爵の応接室で、ヴァシーリーは無言のまま長椅子に座っていた。背筋を伸ばしたまま、出された茶に手を付けることもなく。
目の前の椅子に座っているコバルニィは、一見和やかに話しているが、時たま隣の執事に何やら耳打ちをしている。何を企んでいるかは大体解っているので、気にはしない。
……正直、あの謎の白い少女が現れた時は、半信半疑だった。だが、その後すぐにコーシカから伝えられた、奴隷商から逃げて来た竜人の子供というのが決定打になった。言葉は拙いが、彼の証言を元に、旧市街にある、奴隷達が囚われた廃屋敷を発見した。その屋敷が嘗て、戦が多い時代に使われていた、領主の館からの脱出通路を守るための屋敷であることも判明した。
故にヴァシーリーは待っている。兵の殆どは旧市街に向かわせ、囚われた者達の救出を最優先するよう命じた。恐らく部下からの連絡がまだ届かないらしく、コバルニィが苛々としながら向かいの椅子から立ち上がったその時。
「あ、シューラ様。只今戻りましたぁ」
「、は?」
不意に場違いな明るい声が響き、コバルニィの間抜けな声が漏れる。ごそごそと音がして、火の入っていなかった暖炉からひょいと顔を出したのは、煤に塗れたコーシカだった。
「ここが隠し通路の入り口だったんですねぇ。浚われた子供達は竜人含めて無事保護しましたから、ご心配なく」
するりと猫のように這い出して、灰塗れの体をぱんぱんと叩く黒髪の密偵にコバルニィが呆然とするうち、ヴァシーリーは一つ息を吐いて立ち上がった。
「よくやった、コーシカ。証拠は?」
「商品の帳簿的なものは見つけました。もう隠れ家の中に人は居ないみたいですし、処分される心配もないと思いますよぅ」
服の下からばさりと落とした羊皮紙の束を素早くドロフェイが拾い、ヴァシーリーに渡す。そこで漸く、コバルニィは自分が追い詰められていることに気付いたようだった。
「だ、だ、誰かある! この狼藉者共を取り押さえよ!」
顔色を赤くしたり青くしたりしながらも、壁に走り寄って呼び鈴の紐を思い切り引く。声に応えてあっという間に部屋になだれ込んできた手勢の兵士達に取り囲まれ――
「無礼者ッ!!!」
誰よりも早く、ドロフェイが動いた。部屋の中でも構わず持ち込んだ巨大な槍斧を思い切り振り、主の前に立つ。がしゃりと石突を床に叩きつけながら更に大声を上げた。
「全員武器を捨て、床に伏せよ! 王弟殿下の御前であるぞ!!!」
そのあまりにもまっすぐ過ぎる勧告に、コバルニィの部下達は失笑を漏らした。こんな間抜けに何が出来ると、武器を構えて包囲を狭める。
「馬鹿が――ぐわあ!?」
「おぐっ……!」
そして、躊躇いなく振りぬかれた槍斧に薙ぎ倒された。大の男の体を軽々と、三・四人吹き飛ばして。幸い刃の方では無く背側だったから、胴体が泣き別れにはならなかったが、まともに食らった者達は骨が折れたのだろう、倒れて痛みで呻いている。
「警告はした。聞かぬのならばその命、此処で潰えると思うが良い!」
再び、ドロフェイが槍斧を大きく振う。いくらこの部屋が広いと言えど流石に長く、その先が調度品を思い切りなぎ倒した。
「こ……殺せ! 何をしている、王弟を狙え!」
ドロフェイが背に庇うヴァシーリーを狙えと、コバルニィが声を裏返らせて叫ぶ。同時に、鋭い音がして、灯籠が壊れた。
闇に沈む部屋の中で、気配が動く。どうやら不意打ち専門の部下もコバルニィの下にいるらしい。
ヴァシーリーは動かない。この状態で迂闊に動けば、恐らく夜目の利く敵の的になるだけ。
空気が揺れる、僅かな音。同時に、金属音。床に散らばるのは、恐らく毒を塗ってある短剣だ。それらは全て、銀色の鎌に叩き落とされていた。
いつの間にかドロフェイの隣、ヴァシーリーを庇う位置に移動していたコーシカは、無造作にも見える動きで鎖に繋がった鎌を投擲する。鈍い音がして、一人倒れる。雲の隙間から月明かりが覗き、鎌で顎を抉られた兵士が一人絶命しているのが見えた。
「ば……馬鹿な」
コーシカが明かりを灯しなおした時には、敵は全て屋敷の床へ倒れ伏していた。恐怖から後ずさるコバルニィに対し、ヴァシーリーがゆっくりと近づく。
「言い逃れは最早不要。大人しく縛に着けば、命の保証はしよう」
「お、お待ちください! 確かに我等は罪を犯したやもしれません、しかし先王の頃から我が家はこの富を王家に捧げて参りました!」
哀れっぽく床にひれ伏して許しを乞うコバルニィに、ヴァシーリーは意識的に声を低くして問うた。
「奴隷解放の法を作ったのは先王であり、施行したのは現王である。それに異を唱えると?」
「い、いえ、決してそのような――」
「私は王の法に従って行動したまで。逆らうのならば、それは王への反逆と見なされるが?」
「た、大変申し訳ありません……! 裁きを受けますので、どうかそれだけは……!」
すっかり怯えて縮こまる男を見ながら、ヴァシーリーの心に苦みが湧いた。
やはり、彼らが一番怯えているのは王なのだ。自分は所詮、虎の威を借る狐に過ぎない。それでも――どんなものを利用しようとこれ以上、奴隷売買など許すわけにも行かない。下手をすれば竜人との戦争になっていたかもしれないことなのだ。
「申し開きをするのならば、許そう。ただし二度は無い。前言を返せば、命は無いと思え」
「ははぁ……!」
……恐らく、王都に連れて行けば彼はのらくらと言い逃れや賄賂を使い、罪から逃れようとするだろう。何より、彼の後ろには大将軍が控えている。姉王に直接届けたところで流されたら終わりだ。
逆にこの男と反発している派閥の貴族に情報を流す方が確実か――と思いながら、踵を返した時。
「――慈悲深き王弟、無様なり!」
コバルニィの声と共に、ずっと伏せていたらしい最後の部下が天井から飛び降りて来た。狙いは紛れもなくヴァシーリーだ。ドロフェイが怒鳴り、コーシカが間に割って入る、それよりも先に――
ぞ、と短い音。
ごろん、と床に転がる首。
足元に転がってきたそれに、無様に尻餅をついたコバルニィを、ヴァシーリーは血に汚れた剣を握ったまま、表情を動かさずに告げた。
「――二度は無い、と言った筈だ」
「あ、馬鹿な――」
そんなまさか、とその顔が言っている。図体がでかいだけ、戦場に出たこともない臆病な王弟。貴族達にそう見られていることは知っていたし、訂正するつもりもない。事実だと自分でも思っているからだ。
たった今、ひとりの命を奪った剣の柄を握り締めている手指は、僅かに震えているのだから。
一瞬眉間に皺を寄せて目を閉じ、開いた時には冷徹な顔に戻す。声を震わせぬよう大きく息を吸い、血糊を払って剣を収め、近衛に告げる。
「ドロフェイ。他の貴族達に繋がりがないか徹底的に洗い出せ。その後は――後を濁すな」
「承知致しました!」
「ひっ、待て、止めてくれ! どうか御慈悲を、王弟殿下!」
打てば響く部下は、躊躇いなくコバルニィを掴み上げる。哀れっぽい声を背に受けながら――ヴァシーリーは部屋の外に出た。
裏庭に続く扉を開け、外に出る。大きく息を吐く。体の中に溜まった瘧のような熱を、少しでも吐き出すように。
「シューラ様」
後ろから聞こえた声に、ヴァシーリーは驚かない。こういう時に、必ず傍に来るのを知っているからだ。
コーシカはいつも通りだ。例え色の濃い外套が返り血に汚れていても、その腰に下げた得物はもっと血に塗れているとしても。ヴァシーリーの従者として、護衛として、密偵として、様々な技術を努力で身に着けたからこそ、いつも通り笑っている。
だからこそ――硬く握られているヴァシーリーの拳を、なんでもないようにそっと掴んで、両手で包み込んできた。大きさの違いで全部とはいかなかったが、伝わってくる温もりは何物にも代えがたい。冷え切って震える拳が、少しずつ緩んでいく。
「怖いですか?」
「……ああ。怖くない、わけがない」
あの男の命乞いを聞いたのは、彼の言葉を信じたからだ。相手が例え騙すつもりでいたとしても、己の信じる思いを捨てることはない。ただ、提示した相手がその言葉をすぐに違えたのだから、その報いを示しただけのこと。
それでも、恐ろしい。人を殺すことが、ではない。――怒りや悲しみを差し挟むことなく、人を殺せる自分が恐ろしいのだ。
「姉上のことを、とやかくは言えん。私も――必要と思ったら、他者を殺めることが出来てしまう人間だ」
死は、取り返しがつかない。神に祈ろうと、魔を呪おうと、全ての者に確実に訪れる終焉だ。それを己一人の手で、勝手に与えることは許し難い罪であると、妹の信奉している女神も言っているではないか。
そして思い出してしまう。初めてこの手で人の命を奪った時の事を。
死にたくなるような青い空の下で、剣を抜き放ったのは。あの時、あの瞬間、そうしなければひとりの命を助けることが出来ないと、理解してしまったからだ。
次々と処刑されていく子供達の中で、一人だけ、空を仰いで唾を吐きたそうにしていた子供。すぐに俯かされたその子供の金色の瞳が、一瞬だけ自分を睨み付けたような気がして――気づいたら、走り出していた。
姉と共にいつも、様々な武器の稽古に励んでいた。手合せでは一度も、姉に勝てたことが無かったけれど、思い切り力を込めて剣を振った。――処刑人の背中に。
手に伝わる、思ったよりも柔らかい人の体の感触と、弾けて口に飛び込んできた血の味を、今も覚えている。忘れられる、筈もない。
自分の意識に沈むヴァシーリーの手が、ゆっくりと撫でられた。伏していた目を開くと、思ったよりも真剣な光を湛えた金色の瞳が傍にいて、一瞬呼吸を忘れる。
「シューラ様。それでも俺は、貴方に救われましたよ」
はっきりと告げられた猫の言葉は、真っ直ぐにヴァシーリーの心臓に突き刺さった。
「あの日、あの時、俺の命を助けようとしてくれた人間は、貴方しかいませんでした。それだけで、俺には充分だったんです」
握ったままのヴァシーリーの拳が、ぎゅうとコーシカの胸に抱き込まれる。主に忠実な猫は、とても嬉しそうな顔で微笑んでいた。
「俺には貴方が背負う命の肩代わりなんて出来ませんけど、貴方の代わりに殺すことは出来るし、俺の命も背負わせません。使える時に、俺を使って下さい。俺はそれだけで充分だから」
「……充分なわけが、あるか」
一瞬。ヴァシーリーはコーシカの手を振り解き、抵抗せずに下がろうとした細い体を思い切り抱き締めた。びく、と腕の中の体が僅かに震えたので、すぐに離してしまったけれど。
「お前の命を拾った責任は、必ず取る」
「……もおぅ。ほーんと、シューラ様って頑固ですよねぇ」
「お互い様だ」
どうしようもない、と顔を見合わせて二人で笑うと、同時に踵を返した。これから事件の後始末や王都への報告など、やることは山ほどあるのだから。
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