◆3-4

 普段より活気が無いとはいえ、それでも人通りの多いマズルカの路上で、跳ねるように歩くミーリツァはご機嫌だった。着替えた簡素な服の裾を翻してはしゃぎ声を上げる姿は、この国の末姫とはとても思われるまい。

「日持ちのする干し魚が買えて良かったですわ! アブンテでは中々手に入りませんもの、きっと皆喜びますわ!」

「もっと自分用のお土産を買ってもいいんですよぅ? お嬢様。貰ったお小遣いもほとんど手をつけてないじゃないですか」

 随分と地に足のついた土産ばかり購入するミーリツァに、荷物持ちのコーシカは苦笑するしかない。流石に聞きとがめられるかもしれないので、彼女の名を呼ぶのは堪えるが。

 ミーリツァは気にした風もなく、薄い胸を張って両手を腰に当てて見せる。

「姉様からは新しい神官衣を頂きましたし、兄様にはベリーのタルトを御馳走になりましたわ。これ以上望んだらバチが当たってしまいます」

「へぇ、死女神様は随分と渋ちんなんですねぇ」

「まぁ! ラヴィラ様に対して何てこと!」

 ぷりぷりと怒って小さな拳を振り上げるミーリツァに、すいませんすいません、と笑って詫びると彼女の機嫌はすぐに直った。コーシカが神について斜に構えた言い方をするのを、ミーリツァも知っているからだ。

「コーシカにとっては、神様よりも兄様の方が大事なのですから仕方ありませんけれども。わたくしにとっては、苦しい時にお力をお貸し下さる大切なお方ですわ。お言葉には気を付けてくださいましね?」

「解ってますよぅ」

 しれっと答えるが、コーシカにとっては神の教えなど碌な思い出が無いので、とても自分で祈りを捧げる気にはならない。次は果物を見ましょうか、とうきうきと駆け出そうとするミーリツァの背を追いながら――不意に吹いた風が、彼女のフードを捲り上げた。

「あっ!」

 その瞬間、さっとミーリツァの顔が青褪め、フードを両手で掴んでぐいと下ろす。きょろきょろと落ち着きなく周りを見渡すが、当然誰も気にした風もない。神官の証である水晶の短剣を首から下げているものの、黒い神官衣を纏っていなければ気づかれることはあまりない。コーシカも安心させるように、不敬と解っているが軽く背を叩いてやった。

「大丈夫ですよ、そこまで神経質にならなくても。緊張してる方が目立っちまいますよぅ」

「え、ええ……そうですわね」

 そう言いながらも、ミーリツァの顔は強張ったままだ。自分の髪を人目に晒すことに対し、強い恐怖心があるのだ。

 無理もない。ミーリツァが生まれた時、王族の証である青色を持たなかったことで、当時の王は激昂し、賊軍に囚われどこの者とも知れぬ血を身籠った妻を容赦も何もなく責めた。王妃はすっかり心を病み、神殿に入った後、命を落としたらしい。自死とも暗殺とも言われているが、真相はコーシカも知らない。コーシカがヴァシーリーに仕える前の話で、リェフから聞いたことでしかないからだ。

 そして残されたミーリツァにも王家の汚点としての烙印が与えられ、母が亡くなってからも神殿から出ることを許されず、姉兄でも勝手に会うことを禁じられた。

 前王が廃され、アグラーヤが王となってから、漸く兄妹は交流を持つことが出来たのだ。口止めは勿論されていたのだろうが、その時点で既に、彼女は自分が不義の子であるということを理解していた。青を纏わぬ自分が、迂闊に姿を見せてはならないということも。

 だから、例え身分を隠していても、自分の髪と瞳を誰かに見られることを彼女は望まない。――自分の存在自体が、姉と兄に迷惑をかけることを、何よりも恐れているからだ。

「すっかり中心街から離れちゃいましたねぇ。一旦戻りましょうか」

「あ……そうですわね。解りましたわ、コーシカ」

 自責に飲まれそうになる姿は彼女の兄とよく似ていて、見ていられずにコーシカはそっと助け舟を出す。はっと我に返った少女は、ほんの少し安堵の息を吐いて促しに従った。そっとフードの裾から手を離して頬を緩めるミーリツァに、コーシカも内心安堵したその時――細い路地裏から小さな影がひとつ、飛び出して来た。

「っ!」

「うグっ……!」

 即座にミーリツァを庇い、コーシカはその影を手で払う。小さなその影はごろんと路地に転がって小さく悲鳴をあげた。殺気も感じなかったし、ただの子供か、だがスリの可能性もあるかと警戒は解かない。

「ど、どうしましたの? コーシカ」

 何が起こったか解っていないミーリツァを背に庇ったまま、影が転がり戻った路地を覗き込む。フードを被ったままの子供はよろよろと体を起こし――路地に僅かに差し込む日の光に、灰色の皮膚が見えた。否、それは皮膚では無く――

「――竜人!?」

 思わず、驚愕の叫びがコーシカの口から漏れた。襤褸布のような服の下から見えるのは、滑らかな鱗だ。鼻先の長い顔の横に、大きな縦型の瞳孔の瞳がぎょろりとついている。竜を祖先に持ち、背に負った羽で自在に空を飛び、地上に住まう人間の生活を脅かして来た。リントヴルムにとって不倶戴天の敵であり、地上でその姿を見ることは滅多に無い、筈なのだが。

 目の前の竜人――大きさから恐らく子供なのは間違いない――は、岩より硬いとされる鱗のあちこちがひび割れて血が滲んでおり、誇り高き翼の被膜はぼろぼろに破れている。誰かに切り裂かれでもしなければ、こうはならない筈。

「まぁ、なんてこと……! 酷いお怪我ですわ!」

 あり得ない状況に流石のコーシカも固まっているうち、路地を覗き込んだミーリツァの方が声を上げてしまった。慌てて駆け寄ろうとする彼女を片腕で留め、もう片手で腰の後ろに下げている得物に手をかける。

「コーシカ、手を離してくださいまし!」

「駄目ですよ、危険です」

「怪我をしている方に、何が危険なんですの! 早く手当しないといけませんのに!」

「お嬢様~……」

 小脇に抱えられながらも一歩も退かぬ、とばかりにじたばた暴れる少女に溜息を吐く。彼女は兄に良く似てお人好しであるし、兄よりも良く言えば豪胆、悪く言えば軽率であることもコーシカは良く知っている。

 竜人の表情を読むことはとても難しいが、この状況に戸惑っているようだった。しかし、路地裏の奥を振り向いて慌てて立ち上がろうとする。どうやら、彼――か彼女かは知らないが、追われて走ってきたのは間違いないらしい。

 耳を澄ませる。ばたばたという足音。暗い路地の中から駆けてくる。二人、恐らく男。傷だらけの竜人と、恐らくこのまま捨て置くことを許さないだろう主の妹。――コーシカは腹を括った。

「お嬢様。そいつと一緒に、行きましょう。怪我の手当するにしても、ここじゃ駄目です」

「そ、そうですわね。貴方、立てますか? どうぞ、掴まってくださいまし」

 爪も鋭い竜人の手を躊躇いなく取るミーリツァに内心舌を巻き、コーシカは外套を広げて、二人が路地を覗き込まないように隠す。そして、僅かな腰の捻りだけで腰から得物を抜き取り――

「――待ちやがれ、この――ッ」

 抜き身の剣を持って追いかけてきた、路地奥の物騒な男のうちの一人。下手に叫ばれてミーリツァ達の意識を割かれない内に、彼の首に向かって投げつけた。

 風を切って飛ぶのは、一見三日月のようにも見える、大きな刃を回転させる鎌だ。細い鎖に繋がれた銀色の刃は、僅かな金属音だけ立てて、追っ手の首を半分近く切り裂いた。

 路地の壁にばっ、と血が飛び散り、隣の男が驚愕に目を見開いているほんの僅かな間に、コーシカは鎖を躊躇いなく引き、戻ってきた刃をもう一人の後頭部に突き立てた。

 脳漿と血が飛び散り、悲鳴すら上げられず、男達は倒れる。街中で、ミーリツァ様がいる近く、抜き身の武器を持ってるだけで問題ですよね、と一人で言い訳しながら己の得物を仕舞う。

「どうしましたの? コーシカ」

「いいえ、別にぃ。この近くに俺らが使う隠れ家がありますから、まずはそちらに」

 動かない、ように見える従者を不思議そうに振り向くミーリツァに笑顔を返し、自分の外套でさり気なく竜人を隠しながら、コーシカは二人を促した。



 ×××



 国内の大きな町には、コーシカ達密偵が身を隠すのに利用している家がいくつかある。その中に連れ込んだ竜人は、警戒の光を大きな瞳に宿しているものの、抵抗はしない。幾ら人間よりも強靭な肉体と魂を持っているとされていても、怪我を負っている上、疲労も深そうだ。否、顔色はやはり読みにくいのだが。

「どうぞ、しっかりしてくださいまし! 今すぐ治療いたしますわ」

「お嬢様……本気でやるんですか?」

「当然ですわ! あ……でも、兄様には内緒にしてくださいましね?」

 膝を躊躇いなく床に下ろし、両手を握り締めて気合を入れるミーリツァに、止めても無駄かと思いつつおざなりに頷く。勿論、コーシカにとって一番優先されるのはヴァシーリーなので、聞かれたら答えるだろうしバレるだろうが。

「……おまえら、なんだ?」

「お、共通語解るんですねぇ」

 竜人の大きな口が僅かに開き、たどたどしかったが言葉が漏れた。コーシカの混ぜ返しにぎょろりと目を剥き、威嚇するように鼻息を鳴らす。しかし、ミーリツァは全く怯まなかった。

「もう少し、御辛抱くださいましね。……死女神ラヴィラ様、わたくしの血肉を捧げます。願わくば、死の褥へ向かう前のひととき、安らぎをお与えください」

 小さな唇から、信奉する神への祝詞を奏でつつ、ミーリツァは首から下げていた水晶の刃、祈刃と呼ばれる聖印を手に取る。僅かに臆したように身を震わす竜人に軽く首を横に振ってから、刃をそっと自分の指先に当てた。

「っ……」

 ぴ、とほんの僅か、ミーリツァの皮膚が切れ、赤い血が溢れだす。ゆるゆると浮かぶその滴がぽたりと零れ落ちた瞬間――奇跡が、顕現した。

 竜人の体のあちこちについていた決して浅く無い傷口が、じわりと盛り上がり、塞がっていく。最早無事なところが無かった翼の被膜も、するすると縫い合わせるように治っていく。突然与えられた神の奇跡に、竜人も何が起こっているのか解らないらしく、細い瞳孔の瞳をせわしなく動かしている。

 だが、それと同時に、ミーリツァの体にも変化が訪れていた。傷を負った指先からぴしりと音がした瞬間、まるで指が、否、掌全体が石となったかのように、硬質な皹が一斉に走る。傷口のようにも見えるが、血は全く滲んでいない。先刻つけた傷からさえも。

 その様を、コーシカは真剣に見守っている。取り返しのつかないことになる前に、止める為に。

 ――アルードを祖とする神々は見返りが無ければ奇跡を齎さない。奇跡を顕現させるには、神官の血肉が必要だ。更に大きな奇跡を起こすには、その魂すらも奪われる。故に高位の神官たちは徒に奇跡を祈らず、弟子を育て彼等に祈らせる。私欲を満たすために、弟子の命を使うものも少なくない。コーシカはそのことを良く知っている――自分も、生贄の一人になりかけた故に。

 故に、ミーリツァの両手に皹が広がり、腕まで到達しようとしたところが限界で、コーシカは彼女の腕を掴んで静止した。

「もう充分です! お止め下さい!」

「……ぁ、」

 ぐいと腕を引くと、ふらりと小さな体が傾ぐ。抱き留めた硬く強張っていた体が、ゆるゆると弛緩してきたことに安堵した。皹が入ったように見えた手指も、ゆっくりと元に戻っていく。どうやら神は、見逃してくれたらしい。この気紛れと理不尽さが、ますますコーシカが神を疎んでしまう理由なのだけれど。

「全く無茶を……勘弁してくださいよぅ、兄上様に怒られるのは俺なんですからぁ」

 今回は、大丈夫だった。それでも、一歩間違えれば彼女の腕が砕け散ってしまったかもしれないのだ、心配も当然。こんな無茶をされたら一番悲しむのが、コーシカの主だと解っているから尚更だ。

「も、申し訳ありませんコーシカ。もう、大丈夫ですわ」

 無茶をした自覚はあるらしいミーリツァがしゅんとして謝ってくるが、コーシカも苦笑するしかない。彼女の言い出したら聞かない頑固さが兄とよく似ていることも充分知っているし、そんなところを好ましいと思ってしまう自分の心も無視できないからだ。

「ええまぁ、前向きに考えましょう。色々確認したいことはありますし――ねぇ?」

 傷の無くなった己の翼を呆然と見ていた竜人が、はっとミーリツァの方を向く。

「……これが、かみの、きせき。われらにあたえられぬ、もの」

「まあ、そうなんですの? 祈りが届いて、良かったですわ」

「れいを、せねばならん。なんじ、なにかのぞみはあるか」

「お気になさらないで下さいまし、神に仕える身として当然のことをしたまでですわ」

「えぇえぇ、ちょっと聞きたいことがあるだけですから。……お嬢様、お手数ですがお茶など準備していただけます?」

「まぁ、わたくしったらご無礼を! 御台所、お借りしますわね?」

 素直に立ち上がって部屋を出るミーリツァの背を見送り、コーシカは床の上にどかりと胡坐を掻き、竜人と向かい合った。

「まず、あんたみたいな竜人が、何故この街に居るんです?」

 竜人はミーリツァの方に視線をやっていたが、コーシカが油断ならない相手だとは解っているのだろう、瞳に僅かな警戒が籠った。しかし話に聞いた通り、竜人とは無礼には無礼を、礼には礼を返す気質らしく、助けたことに対する礼として答えるのは吝かでは無いようだ。しゅるる、と逡巡するような呼気の音が聞こえ、乱杭歯の並ぶ鼻先がぐぱりと開く。

「はらからを、たすけだすため」

「……この街に、あんた以外の竜人がいると?」

「しかり。われらのうみに、かみびとがふねをだした。さかなだけでなく、はらからもうばった。ゆえにおい、ここまできた」

 かみびと――神人。こちらの人々が彼らを竜人――神ではなく竜の眷属であると呼ぶように、彼等にとっても地に住まうヒトは神話にある通り、神に作り出された眷属である、と表現するのだろう。

 竜人が住まう、大陸の北に広がる海に船を出すには、リントヴルムは距離だけならば一番近いが、その国土を山に囲まれており、港は持たない。他の国、皇国以南の国では遠すぎる。ほぼ間違いなく、船の持ち主はフェルニゲシュの民で間違いないだろう。

 現在、この国で奴隷売買は法に反しており、行われていない、ことになっている。しかし、たかが5年前に施工された法が、行きわたっているとも限らない。

 事実、貴族の屋敷の中では奴隷をそのまま賃金も払わず使い続けたり、売買の手筋を持っているものは表舞台から姿を晦ましただけで、商売を続けているという。何より、神殿は弟子を増やすために、常に新しい人間を抱えたがっているものだ。未だ、需要は其処彼処にある。

 竜人を捕まえるのも、珍しい動物扱いをしている者が殆どだろう。迂闊に竜人達の恨みを買えば、次に戦端を開くのはこの国になるだろうに!

「なるほど、なるほど。……で、浚われたひとたちは見つけられたんですか?」

「しかり。だが、みはりがおおすぎた。たすけられず、にげた。ふがいない」

 悔しそうにぎりぎりと歯を噛み合わせる竜人に対し、コーシカの顔には僅かに笑みが浮かんでいた。あの追っ手を間髪入れず殺してしまったのは失敗かと思っていたのだが、どうやら取り戻せる手段はまだあるらしい。

「その場所、解ります?」

「むろん。だが、われひとりでは……」

「お茶をお持ちしましたわ。わたくしの手ずからで申し訳ありませんが……あら、ふたりともどうなさいましたの?」

「いえいえ、ありがとうございます、お嬢様。大丈夫ですよぅ、やることは大体決まりましたから」

 丁度いい時に茶器の乗った盆を持ったミーリツァが戻ってきた。差し出された碗に竜人の子供は戸惑っているようだったが、最終的に受け取っていた。コーシカも受け取りつつ、立ち上がって外を確認して。

「お、丁度いい。お嬢様、生憎これは兄上様に知らせなければならなくなりました。竜人殿、貴方の同朋を助ける為、こちらが力を貸して頂きたい。下手人は我等の法で裁く故、それまで待っては頂けませんか?」

「……かみびとのことわりを、ふみにじるつもりはない。だが、それがおまえたちに、できるのか?」

「大丈夫ですわ! 兄様に任せておけば、きっと何とかしてくださいます!」

 内容を聴いていたわけではないだろうに、全幅の信頼を込めて顔を輝かせるミーリツァに竜人が目を瞬かせている内、その隙に窓をがちゃりと開けた。

 目線の先には――この旧市街では目立つ、近衛兵の鎧を纏ったラーザリと部下が居る。どうやらコーシカの主も、既に動き出しているようだ。満足げな笑みを浮かべた猫は、躊躇いなく屋根を踏み、飛んだ。

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