◆3-3

 王都からアブンテへ続く街道の途中に、マズルカという大きな町がある。

 リントヴルム王国・カラドリウス皇国とも繋がる商業都市であり、フェルニゲシュの物流の中心地であった。

 豊かな土地であるが故に、内戦の度にこの地の権利を奪い合うことが続き、現在はタラカーン大将軍の領地となっている。

 ここからアブンテへの道程は、小さな開拓村しか寄ることが出来ない為、どうしてもマズルカで一泊する必要がある。

 しかし今回はヴァシーリーの近衛だけでなく、アブンテで花嫁を迎える為のスリーゼニ旗下の者達が同行する為、殆どがキャラバンも利用する天幕広場に腰を落ち着けることになった。勿論、王族であるヴァシーリーとミーリツァは宿を取っている。

「殿下、領主より挨拶を受けるついでに、あちらの屋敷で宿泊すれば宜しいのでは? 殿下がお望みせずとも、用意をしておくのが正しい姿でしょう」

 王族が泊まるにしてはこじんまりとした宿の一室に身を落ち着け、一息吐いたヴァシーリーに、護衛を兼ねてついて来たドロフェイが進言する。同じくラーザリも後に続くが、言葉はドロフェイに対する反論だった。

「あの領主も大将軍の息がかかったものに相違ないでしょう。不快な思いをするぐらいなら、このまま街を出るのも一つの手です」

「そうもいくまい。……決定的な亀裂が入るまでは、相手の挑発に乗るつもりはない。挨拶には出向くが、相手の顎の下では眠れん」

 叩き上げの大将軍が、慈悲深き王弟殿下を嫌っているのは良く知っている。だからといって本気で張り合えば、内乱に発展する可能性もある。これ以上民が痩せ細る手段は出来る限り取りたくなかった。近衛達もそれは理解しているようで、不満はあれども確りと頷いてくれる。

「……この街すら、去年よりは活気が減ったように感じます」

「皇国からの商人も、随分と減ったようですな。交易税が厳しくなったのは聞いておりますが」

「ああ。街道の治安については、志願兵の募集が増えたお陰で、夜盗の類は減っていると聞いたが」

「その分ごろつき同然の者を鍛えねばならぬので、痛し痒しでありますな」

「それと、最近はリントヴルムの国境付近で竜人を見ることが多くなったと聞きます。ついにフェルニゲシュにもその牙を届かせるつもりかと、怯えている領民もおります」

「竜人か。リントヴルムとの因縁が深いのは知っていたが」

 竜人とは、呼んで字の如く、竜を祖に持つ種族の総称だ。遠き東の海の果て、岩だけの山に住まい、体は鱗に覆われ背には翼を持つ。遥か昔から大陸に飛んできて、その爪と牙で人や家畜を襲っていたとされる。

 やがて、最も強き個体、銀の鱗を持つ王が君臨し、リントヴルムと本格的な戦争を始めた。鷲獅子隊を有するリントヴルムは応戦に成功しているが、空軍など持たないフェルニゲシュにやってくれば、迎撃は難しいだろう。

「むう、竜人どもめ。我等の弱り目を狙ってくるつもりか?」

「噂では、リントヴルムの前王とその奥様も、竜人に殺されたと聞きました。許し難いですね」

 気質は違えど、血気盛んな部下達に僅かに苦笑しつつ、ヴァシーリーは二人を宥めた。

「竜人王の子を殺した報復、ともされているがな。……どちらにしろ、一度戦端を開けば、そう簡単に終わらせることは出来まい」

 だからこそ、皇国との戦は絶対に避けなければならない。火蓋が切って落とされれば、何十年と戦火は続き、互いの遺恨が積もるだけだろう。だが――あの姉王を止めることが出来るのだろうか?


『――そう思ってるなら、さっさと行けよ。巨人の国の王弟殿下』


「!」

「何奴ッ!」

 不意にその場に、突然何者かの声が響き、ヴァシーリーは立ち上がった。同時にドロフェイとラーザリが剣を抜き、主を守るように立ち塞がる。いつの間にか――扉や窓が開くことのないまま、一つの椅子に突然現れて腰かけている人影に向かって。

 真っ白な少女だ、というのが、ヴァシーリーの第一印象だった。

 背丈は恐らく妹とそう変わらないだろう。足先に届くほどに伸ばした髪も、簡素だが上質であろう纏った服も、その裾から惜しげもなく伸びる細い手足も、雪のように白い。一つだけ、可愛らしさよりも既に美しさを醸し出している整った顔の、瞳だけが透き通った紅玉のように赤かった。

 突然現れた幽霊のような少女は、神秘的とも取れる顔を非常に不機嫌そうにゆがめたまま、まっすぐにヴァシーリーを睨み付けている。

「貴様、何者だ! この方をかの王弟殿下、ヴァシーリー・ドゥヴァ・フェルニゲシュ様と知っての狼藉か!」

『大声で喚くなよ、喧しい』

「んな、この……! 王弟殿下に向かってなんという口の利き方を!」

「落ち着いて下さい、ドロフェイ殿。今酷い口の利き方をされているのは貴方です」

「二人とも、下がれ。……問おう、皇国の者よ。私に何を望む」

 顔を真っ赤にするドロフェイとそれを諌めるというより煽るようなラーザリを押さえ、ヴァシーリーは一歩前に出る。白い少女は面白くも無さそうにふんと鼻を鳴らし、真っ白な足を組み替えた。

『へぇ? なんで僕がそうだって思うのさ』

「それほどの白絹を纏えるものは、生産国の皇国で、且つ地位を持つ者に相違あるまい。何より、胸に下げているのは始原神イヴヌスの聖印だろう。それを付けて大手を振って歩く者はこの国にはいまい」

 淡々と理由を説明していくと、チッと舌打ちの音が聞こえた。いよいよ怒髪天を突きそうになっているドロフェイがラーザリに抑え込まれているのを横目で確認しつつ、ヴァシーリーは少女の言葉に耳を傾けた。

『ふん、頭の回転は悪くないね。それなら、この街の色々にもさっさと気づいて欲しいんだけど』

「この街の――? 一体何を知っているというのだ?」

『奴隷売買』

 間髪入れず告げられた言葉に、ヴァシーリーだけでなく、ドロフェイもラーザリも息を飲んだ。特にドロフェイは聞き捨てならぬとばかりに一歩前に出る。

「な――馬鹿な! 大将軍がそのような事に加担しているとでも!?」

『あんたたちの事情なんかどうだっていいんだよ。事実として起きてるし、僕だって普段なら放っておくさ。でも、わざわざこの街にお立ち寄りになった王弟とやらが、全く気付かずに偉そうな口聞いてるのが腹立ったからね。昼寝の時間も決まってるのに、わざわざ話に来てやったわけ』

 椅子の上で無作法にも胡坐を掻き、呆れたように言い募る少女の体が、何故こんなにも白く見えるのか、ヴァシーリーは漸く気づいた。

 体が――僅かに透けている。真の幽霊のように、まるで雲か霞の如く、気配が非常に薄いのだ。一瞬でも目を逸らしたら消えてしまうかのように。

「――名乗りもせぬ狼藉者の言葉を信用しろと?」

 ラーザリが見た目は少女にすぎぬ者にも全く油断することなく、剣を構えて問う。少女の方は、全く臆した風もないが。

『だーから、僕は別にどうだっていいんだよ。このまま何も起こらなくてもいいし、何か起こってもいい。東に追いやられた巨人の末裔が、滅ぼうが栄えようが気にしないさ』

「……確かに奴隷売買は法で禁じられている。その禁を破るものがこの街にいるのだとしたら、断罪するべきだ。だが、この国が亡ぶとまで言うのは、それ以上に悍ましいことが起こっているとでも言うのか?」

 随分と投げやりな口調に、流石に眉を顰めながらヴァシーリーが問うと。

 ふと、少女は目を伏せた。その瞳に光は無く、ただ濁りを湛えて――

『所詮この世は神の見る夢、全ては死ぬまでの空騒ぎ。多分アンタの姉もそう思ってるはずさ』

「――」

 その瞳を、良く見たことがある気がして、ヴァシーリーが息を飲んだ瞬間。……少女が大欠伸をした。

『ふぁ……。もう起きるから、後は好きにしなよ。もしかしたらまた会うかもしれないし、その時にはせいぜい役に立ってみせなよ』

 吐き捨てるように告げた少女が椅子の上にころりと横になり――窓から差し込む光に溶け込むように、消え去った。今までその場にいた痕跡を一切残さずに。

「な……!?」

「消えた……これは一体? 神官の奇跡、なのでしょうか」

「恐らく、な。寡聞にして聞いたことは無いが……始源神の齎す奇跡には、あのようなものがあるのかもしれない」

 始源神イヴヌスを初めとする、皇国で信仰される神々が齎す奇跡は、神に捧げる贄は必要ないと聞く。あのような凄まじい奇跡を発現させることも不可能ではないかもしれない。

「……いかがいたしましょう?」

「もしあの少女の言っていることが本当ならば、見過ごすことは出来ん。ドロフェイ、領主の館に行く前にまずは確かめる、護衛を頼む」

「御意! 例え領主が知らぬと言っても引き摺り出しましょう!」

「ラーザリは部下を連れて治安の悪い西地区を中心に探れ。手がかりを見つけたらすぐに報告を。後、コーシカを見つけたら呼び戻してくれ」

「畏まりました、ただちに!」

 打てば響く部下の声に頷き、ヴァシーリーは外套を翻した。

 ……今、コーシカを連れてお忍びで街を歩いている妹に、出来れば迷惑をかけたくないがと思いながら。

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