◆3-2

 その後は、矢のように早く時が過ぎ、ミーリツァが旅立つ日になった。

「兄様!」

 中庭に既に準備されていた貴人用の輿の周りで慌ただしく動く神官たちの中、手持無沙汰にしていたミーリツァが、馬に乗って入ってきた兄を見つけてぱっと顔を輝かせた。

 この国の建造物らしく、神殿でも正門から馬で中庭まで入れる程に回廊は広い。ここまでして、ミーリツァの姿を隠さねばならないのは何とも業腹だが、少女は兄の前まで駆けて来て――ぴたりと止まり、神官衣の裾を捌いて静かに礼をした。

「この度は御足労頂き、ありがとうございます。このミーリツァ、厚く御礼を申し上げますわ」

「畏まらなくてもいい。お前は私の妹だ」

 王家に生まれながら、彼女は家名を名乗ることすら許されない。他者の目がある時は、臣下として振る舞うしかない。精一杯背筋を伸ばして礼をする己の妹に、ヴァシーリーは安心させるように馬から下りて、微笑んでやった。

「……勿体なきお言葉です、兄様」

 ほんの少し眉を困ったように下げて、それでも妹は微笑む。今朝方料理長に命じて用意して貰ったベリーパイを、コーシカから渡させようとしたその時。

 ふと、神殿内の空気が変わった。神官達がざわりと気配を欹て、皆礼を取る。下女や下人も皆跪く中、外に続く回廊から歩いて来たのは――

「……! 姉様!!」

 綻んでいるミーリツァの笑顔が、更に大輪となった。同時に、ヴァシーリーも後ろを振り仰ぐ。

 分厚い青の外套を翻し、豊かな鬣の獅子を二頭連れて。儀礼用ではないが無骨さとは無縁の、豪奢な青染めの鎧を着けたアグラーヤがゆっくりと歩んできた。

 心底嬉しそうに駆け寄る妹と対照的に、ヴァシーリーの背はぴんと伸びてしまう。一歩下がった位置に立つコーシカの方はいつも通り、飄々と礼をするだけで躱した。

「姉様! 姉様もお見送りに来てくださったんですの!? 感激ですわ!」

 滅多に会えないアグラーヤの前で、先刻まで出来ていた礼儀も放り出してしまったらしく、ミーリツァはもどかしげに貴族の礼をしてから、頬を上気させて跳ねて喜ぶ。そんな妹の無作法を気にする風も無く、アグラーヤは微笑んで、普段は断罪しか齎さない手指で茶色の頭を撫ぜてやっている。獅子達もぐるぐると喉を鳴らし、妹の体に顎を擦り付けていた。

「アーゼもレルゼも、元気ですの? 暫く会わないうちに大きくなりましたわ、ご飯をいっぱい食べてますのね! 私の頭なんて一飲み出来そう!」

 洒落にならない、と内心ヴァシーリーの心臓が縮むが、姉も妹も気にした風もなく笑っている。妹は、彼等が人間を常食していることを知らないのだ。

 一瞬迷うが、それでも足を一歩前に出す。自分の足なら、三歩で二人の傍に行けた。二人よりも先に獅子二頭がぐりんと頭をこちらに向けたので、そこで止まってしまったが。

「まあ兄様、アーゼとレルゼが怖いんですの? こんなに可愛いですのに」

「気にするなミーリャ、こいつの腰抜けはいつものことだ」

「姉上……!」

 流石に看過できず思わず口を挟むと、ふふふ、と笑いながらアグラーヤは腕に抱えていた箱を無造作に妹の前に出す。大きな目をぱちくりとさせてその箱と姉の顔を交互に見るミーリツァに、アグラーヤはいつもとそう変わらないが、若干は親しみが籠っているであろう――それもヴァシーリーの希望が見せたものかもしれないが――笑顔で、しゃがんで箱を開けて見せた。

「……まあ! まあ、まあ、まあ!!」

「これはこれは」

 その箱の中を覗きこんで、ぱあっと顔を輝かせるミーリツァと、何時の間に近づいて来たのか背からひょこりと覗いたコーシカの感心したような声に押され、ヴァシーリーも視線を箱の中に動かす。

 四角い箱の中いっぱいに、銀糸で美しく彩られた黒絹が入っていた。嬉しそうにミーリツァの小さな手がその布を引っぱり出すと、デザインは妹が今着ている神官衣と同じもの。だが、刺繍を施している糸の輝きは、魔銀を加工したものであることを示しており、黒絹の艶も豪奢だ。同じ年頃の娘達よりも背の小さいミーリツァに合わせて、わざわざ仕立てたものだろう。

「餞別と思って受け取れ。今年の誕生日には何もしてやれなかったからな」

「姉様! 姉様! 感激ですわ!! ミーリャは何て幸せ者なんでしょう!」

 頬を上気させて服を抱きしめ、そのまま姉の首に縋りつく妹を所在無げに見ていたら、喜びを爆発させて少し落ち着いたミーリツァが、くるりと振り向いた。

「そうですわ、兄様! この前お約束したベリーのお菓子、持ってきてくださいましたの!?」

「……、ああ。勿論だ」

「では三人で頂きましょう! わたくし、お茶を入れるのがとても上手くなったんですのよ? 姉様、是非飲んでみてくださいまし!」

 姉の餞別と比べると何とも子供っぽい、すくすくと成長する妹に似合わないものだったかと後悔していたので、そんなに喜んでくれるのは有難い。だが、この三人で茶を飲むなど、一体どうすれば良いのか。そんな葛藤に気付いた風もないが、アグラーヤは笑みのままに、抱き付いていた妹をそっと下ろした。

「すまないな、ミーリャ。これから城で会議がある」

「まぁ、そうなんですの? 申し訳ありません、我儘を申し上げました」

「お前は我儘を言うのが仕事だ。気にするな」

 残念と謝意が丁度半分ずつ籠って下げられる妹の旋毛に、アグラーヤはしゃがみ直し、愛し気にそっと口付けを落とす。

「茶はシューラに馳走してやれ。そうだな、次は良い茶葉でも送ろう」

「ありがとうございます、姉様! ミーリャは大丈夫ですわ、いずれ一人前の神官になって、姉様や兄様のお役に立ってご覧にいれますわ!」

 気丈に背を伸ばして告げる妹に対し、姉はもう一度手を伸ばして柔らかく丸い頬をそっと撫でた。

「今はゆっくりと学びに励め。時が来れば、また三人で一緒に暮らせるとも」

 ゆらりと、姉の青い瞳が揺れたような気がした。それと同時に、喜ばしい事を言っている筈の姉の言葉が、どうしようもなくヴァシーリーには、不吉に聞こえてしまった。

「……はい! いい子でお待ちしますから、またお手紙を下さいませ! わたくしも沢山沢山、書きますわ!」

 何も気づかず、本当に嬉しそうに笑う妹の笑顔が眩しくて、とてもそのことを訴えることは出来なかったけれど。

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