不穏
◆3-1
寝台の中にほのかな温かさを感じ、ヴァシーリーの意識はゆるゆると覚醒する。
東側に窓を向けた自分の寝室は、天気さえ良ければ朝、明るさと熱を与えてくれる。冬が長いこの国で、太陽を享受できるのは本当に有難いことだ。
故に、温もりに遠慮なく目を閉じたまま体を伸ばし――ぶつかった柔らかいものに、自分以外の何かが寝台へ潜り込んでいることに気付いてがばりと体を起こす。
「――コーシカ!」
呼ぶ名前には確信しか籠っていない。間者の類ならば、どれだけ疲れていても部屋に入り込んだ時点で気づくし、頼りになる侍従か護衛がいてくれる。つまり犯人はおのずと絞られるのだ。
一気にシーツを引き剥がし、真っ白な肌が目に飛び込んできたので宙を仰ぐ。思った通り、黒髪の猫が体を丸めてすやすやと寝こけていた。……一糸まとわぬ姿で。
「起きろコーシカ! 寝台に潜り込むなと何度言えば解る!」
「んんぅ……。おはようございまぁす、シューラ様」
目を逸らしつつ叫ぶと、斥候にあるまじき動きの鈍さで、コーシカの体がもそもそと起き上がった。正しく猫のようにふああと体を伸ばしたその体は、随分と不均衡だった。
一応、胸の隆起はちゃんと女のようにある。腰はそれほどくびれておらず、尻も小さい。何より、足の間の下生えの中には、男の中心部もちゃんとある。そして肌の至る所に、刃で神の祝詞が刻み込まれていた。
――崩壊神アルードには伴侶が二人おり、一人は怪物を生んだ魔女、もう一人は男と女、両方の性を持った人間だったとされている。その教えから、生まれつき両方の性を持ったものは崩壊神の眷属とされ、幼いうちに神殿に引き取られて育てられるのが普通だった。――神官として芽が出なければ、廃されるのも当然とされてきたけれど。コーシカの身に残っている傷は、その名残だ。
その痛々しさに僅かに眉を顰めつつ、それでも見える肌の白さと艶めかしさに首を大きく振り、シーツを力いっぱい従者にぶつけてやった。対するコーシカは気にした風もなく、もそもそとシーツの中から顔を出してにたりと笑う。
「しょーがないじゃないですかぁ、三日かけて婚姻相手の情報とか、リントヴルムの最近の様子まで調べてきたんですから。ちょっとぐらいお休み貰ったってバチ当たりませんよぅ」
「それは……ご苦労だった。ならば尚更自分の部屋で休め」
「ここが一番寝心地が良いんですもぉん。ほらぁ、労いならもっとこう、同衾しても良いんですよぅ?」
「まずは服を着ろ!!」
ぺろりと被っていたシーツを広げて躊躇いなく体を晒すコーシカに怒鳴り、ヴァシーリーは勢いよく寝台から飛び降りて壁の方を向いた。着替えるまでは話さないという意志表示である。コーシカの方もからかいを止め、素直に寝台の下にほっぽり出していた自分の服を取って着替えだした。
「もー、つれないですねぇ。成人の日に筆下ろししてあげた仲じゃないですかぁ」
「……だからこそだ」
その後勢い余ってヴァシーリーの方から責任を取ると宣言し――もっと端的に言うなら求婚し、いや無理でしょと冷静に却下されたことも含めて、思い出したくない過去の一つとなっている。
「もう懲りました? 確かにやらかいところは足りないですけど。付属物が多い分、結構色々使えて便利ですよぅ?」
「あの時は……ただでさえ、体を張らせているのに。無理をさせ過ぎただろう」
「ん、ふふふ。お優しいですねぇ、シューラ様ってば」
いつも通り軽口を叩きながら、コーシカの頬に朱が乗っていることに気付くことは無く。いいですよぅ、と声をかけてヴァシーリーが振り向いた時には、いつもの服と皮鎧を付けた出で立ちで、照れの片鱗も見せなかった。
ヴァシーリーは一つ息を吐き、寝台に腰掛け直すと隣を掌で軽く叩く。コーシカはちょっと困ったように笑ったが、結局いそいそとその誘いに乗り、主の隣にぴょんと飛んで腰を落とす。本来の王族と従者では有り得ない距離感で、コーシカは話し始めた。
「んじゃ改めて。スリーゼニの娘、ゾーヤ・スリーゼニ。リントヴルムの王子にしてシューラ様の親友、イオニアス様の婚約者となった方ですね」
「出自は?」
「嫡出子ですが、家は弟が継ぐのでずっと神官としての修業をしてたみたいですね。十歳の頃からアブンテの修道院に入っていたそうです。一応ミーリツァ様にもお話を伺ってきたんですが」
本来面通しを制限されている筈の妹に、あっさりと会いに行ったことを告げるコーシカに、しかしヴァシーリーは頷くだけで答えた。昔から王都でもアブンテでも、自分の手紙を妹に届ける役目を請け負っていたのはコーシカだ。夜の神殿に忍び込むなど造作もないし、ミーリツァも全く警戒しなかっただろう。
「何か知っていたか?」
「残念ながら、顔合わせした時以外、殆ど話したことは無いそうです。アブンテではミーリツァ様と割と親しい者は多いそうですが、相手が自分の部屋から出てくることも少ないとかで」
「信仰は、病神シブカだったか?」
先日姉から聞いたことを思い出しながら問うと、猫はこっくり頷く。
「死女神よりは有名どころですけど、貴族の子女としてはちょっと珍しいですねぇ。得意な奇跡は解毒や退病。王族にとってはわりと嬉しいものですよね」
「そうだな。……イオニアス達も、母上を病で亡くしている。妻の奇跡でそれが退けられるなら喜ぶだろう」
「あ、そうそう。ツィスカ様にも目通りしてきましたよ」
「何? ……早いな、相変わらず」
ツィスカとは、イオニアスの妹である女性で、ヴァシーリーとも交友が深い。山岳の国であるリントヴルムの、多数の鷲獅子を有する空軍をイオニアスが預かり、ツィスカは陸軍である騎兵部隊を預かっている。物静かな女性だが槍の腕は高く、将軍としての采配も申し分ない。男女問わず体格と膂力に恵まれやすいフェルニゲシュとは違い、女性の方が嫋やかで非力であることを尊ばれるリントヴルムでは非常に珍しいことだった。
「ふふん、俺の脚も伊達じゃないんですよぅ。まぁ国内中は馬使いましたけど。向こうの方でも既に話は通ってて、国境沿いまではツィスカ様がお出迎えに来るそうです」
「そうか……彼女は、他に何か、言っていたか?」
「ええ、シューラ様に『どうぞ気に病むことなくお越しください』と」
「……相変わらずだな」
「シューラ様を超えて、律儀なひとですよねぇあの人」
彼女の人となりと、彼女の持つ思いを知っているヴァシーリーは、眉間に手を当てて溜息を吐いた。
「あの方も、覚悟の上か。仕方あるまい」
「王様達の間では、ツィスカ様とシューラ様の婚姻もありらしかったですよ? 残念ながらスリーゼニが手を回して、王子よりも先に王女が嫁ぐのはとか、うちの王様が正式な婚姻もされてないのになんたらかんたら、って却下されたそうですけど」
「……私はともかく、ツィスカ殿にとってはそちらの方が辛いだろう」
身分は申し分なく、互いに憎からず思う相手だ。己の立場としては一番「丁度良い」相手であると理解している。
それでも、人の心というものはままならないものだ。彼女と婚姻を結び、不幸になることは無いかもしれないが、――幸福になることも、出来ないかもしれない。自分と、彼女では。
苦い溜息を吐いて隣を見遣ると、コーシカは主に対してあるまじき、呆れた顔で肩を竦めてみせた。
「ほーんとぅ、偉い人って結婚一つに柵があって大変ですねぇ。俺はその辺、後腐れ無く楽しめますよぅ?」
「茶化すな。私は愛妾も持つつもりはないぞ」
「はいはぁい。っと、まぁつまり今回の縁談は間違いなく国同士の取り決めであり、俺達が国境超えた瞬間後ろから矢玉が飛んでくるようなものじゃなさそうですから、ご安心ください」
「流石にそこまで、短絡的ではないと思うがな。タラカーンの動きは?」
「なんとも、ですね。兵を集めてるのもあの人いつものことですし、何より軍備増強は姉王様の勅命ですからねぇ。……ここ1、2年で本当に、カラドリウス皇国に攻め込むつもりかもしれません」
「馬鹿な!」
コーシカの言ったあまりにも非現実的な言葉に、反射的に否定の言葉を返す。カラドリウス皇国は、フェルニゲシュと国境を挟み、この大陸の半分以上を占める巨大な国家だ。その歴史は古く、長い。始原神イヴヌスとその眷属神を奉じ、アルードを初めとするフェルニゲシュで信仰される神々を、邪神であると断じて信者達を国から排した。信仰を守る為に逃げ出した民達がこの東方に追いやられ、国を成したのがフェルニゲシュ王国の始まりともされている。
豊かな穀倉地帯を有し、強大な軍と神官団を持つ皇国に、戦で勝つにはとてもフェルニゲシュだけでは不可能だ。故に、今回の婚姻なのだろうとコーシカは語った。リントヴルムも山岳国で決して豊かではなく、更に北方の海に住まう竜人族とは長年小競り合いが続いている。互いに外敵を排す為、同盟を強固にしたいというのは解るが、しかし。
「こんな国が疲弊した状態で、戦争など出来るか……!」
「ええ、全く。……アグラーヤ様がその辺、汲んでくれると良い、んですけどねぇ」
そう言われて、ヴァシーリーがぐっと詰まる。姉が、何を考えているのか、読み切れない。まるで、戯れに国を少しずつこそぎ落とすように振る舞っているようにしか見えないのに、それを諌める自分を決定的に廃そうとはしない。そして妹には、昔と変わらぬ慈悲を向けている。
解らない――何も。五年前のあの日、姉に「貸しだ」と言われた時から。ヴァシーリーには姉の心の内など、全く持って解らない。
「……コーシカ。姉上は一体、何をお考えなのだろうか」
どこか途方に暮れたような声を聴かせるのは、この猫のような従者だけだった。寝台に腰かけたまま困ったように笑うコーシカは、それでも主から目を逸らさずにはっきりと言う。
「僭越ながら。きっとアグラーヤ様に一番近い場所にいるのは、シューラ様ですよ。そのシューラ様が解らないことなんて、俺には解りません」
「……そうだな」
「でも、俺が仕えてるのはアグラーヤ様じゃありません。シューラ様です」
「……」
普段の間延びしたものではなく、はっきり言われた声音に、ヴァシーリーは僅かに瞳を瞬かせた。
「シューラ様が決めたことには、俺は絶対従いますから。なんでも命じてください、出来る限りのことを、ちゃんとやりますから」
「解っている。……ありがとう、コーシカ」
「んふふん、どういたしまして。お礼は口吸いひとつで結構ですよぅ?」
いつもの乗りに戻って、自分の唇をちょんと指先で突く従者に、ヴァシーリーは安堵交じりの溜息を吐き、いつも通りの答えを返した。
「却下だ」
「残念」
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