◆2-2
謁見室を出て、十歩と歩かないうちに、隣に気配が湧いて出た。
「お疲れ様でぇす、シューラ様」
愛称で自分を呼ぶもう一人の声に、自然とヴァシーリーは肩の力を抜いた。天井の高すぎる回廊を歩きながら、小さな声で言う。
「……姉上から言質は取れたが、どれだけ作用するかは解らない。貴族院は税収が減るのを良しとしないだろうし、大将軍もこのまま黙ってはいまい。そんな中で、あの命は、ていの良い厄介払いのようなものだろう」
「ま、その辺は俺がちゃちゃっと調べときますよぅ。その前に」
とん、と跳ねるようにコーシカがヴァシーリーの前に立つ。正しくご機嫌な猫のように、その足取りは軽い。
「ちゃんと護衛しますから、ミーリツァ様のとこに顔でも出しましょうよぅ。アブンテに送ってったら暫く会えないんですから」
「ああ、そのつもりだ」
アグラーヤとヴァシーリーの妹である、ミーリツァ。ヴァシーリーとは丁度十、年が離れている。既に継承権を放棄しており、宮殿には入っていない。アルードの子神である死女神ラヴィラに仕える神官として、年の半分はアブンテの、もう半分は王都の神殿にいた。様々な理由で、外を出歩くことすら許されぬままに。
故に、忙しい身ではあれど、ヴァシーリーは時間を作り、王都に居る間は小まめに会いに行っていた。不憫な妹の慰めになるのなら、何でもしてやりたかったのだ。
城を出て、アルードの大神殿ではなく、王都の一番外れにある死女神ラヴィラの神殿に徒歩で向かう。王弟として護衛の兵士を連れないのは、近衛には怒られるかもしれないが、コーシカが居れば問題は無いとヴァシーリーは本気で思っている。コーシカもそれを心得た上で散歩のように振る舞いつつ、晴れた空を眉を顰めて見上げながら呟いた。
「しっかしリントヴルムの王子様も結婚ですかぁ。世知辛いですねぇ」
「仕方あるまい。国の上に立つものとして、避けて通れない道だ」
「へぇー、シューラ様にもそのようなご予定が?」
「茶化すな。……姉上の婚姻が正式に決まり、後継も生まれたのなら考えるが」
アグラーヤと大神官の孫、エリク・パウークの婚約が結ばれたのは二年前。今は国の情勢が落ち着かない為延期されているが、いずれ大々的に婚姻の儀を行うだろう。臆病者の王弟の婚姻など重要視されていないが、それでも国を乱す遠因になる可能性があるのなら、ヴァシーリーはとてもそんな気分になれなかった。勿論、それ以外にも理由はあるが。
「真面目ですねぇ。俺で良かったら、欲求不満にはおつきあい致しますよぅ?」
「茶化すなと言っている」
ひょいと顔を覗き込んできる細身の猫の軽口を、溜息を吐いて往なす。勿論相手も本気では無いと言いたげな笑顔で、肩を竦めるだけで答えた。
貴族街を抜け、平民街を通り、その外れにある神殿が、死女神ラヴィラのものだった。
ラヴィラは死女神の名の通り、死と眠り、安らぎを司る。崩壊神アルードの娘神とされるが、やはり死を不浄のもの、忌まわしきものと捉える者は多く、信仰者は少ない。それでも、葬式を行う為に必要な組織であり、小さいが青い擦り硝子の嵌った窓に彩られた黒壁の神殿は美しい。下手に大きな他神の神殿よりは、ヴァシーリーが落ち着く場所だった。
黒い神官衣の神官は皆恭しく頭を下げ、すぐに裏庭に案内される。そこはささやかながら庭園になっており、花畑の中で少女が一人、花輪を作っているようだった。
触り心地の良さそうな、丸い茶色の頭がふと振り返る。ヴァシーリーの姿を認めたのだろう、ぱっと顔を輝かせて立ち上がり、駆け出した。
「――兄様ッ!」
貴族の淑やかさも、神官としての礼儀も放り棄てるように黒い神官衣の裾をたくし上げ、突進してきた小さな体を、ヴァシーリーは躊躇わず軽々と抱き上げた。
「兄様! 兄様! お久しぶりですわ! お忙しいのに来て下って、感激ですのよ!」
「あはは、相変わらずお元気ですねぇ、ミーリツァ様」
ひょこりと主の背中から顔を出した従者に、少女は満面の笑みで答える。
「コーシカ! あなたも、お久しぶりですわ! いつも兄様を守って下さって、本当にありがとう!」
「勿体ないお言葉ですよぅ」
おどけて道化のような礼を取るコーシカに、抱き上げられたままの妹はくすくすと笑う。その髪や瞳に、青みは全く無く、この国では一般的な茶の髪と瞳をしていた。
……王家に連なるものは多かれ少なかれ、その身に青を纏って生まれてくる。建国以来、この証が途切れたことは無かった。
故に、前王の后がこの少女を産み落とした時、誰もが不義を疑うことになった。懐妊する少し前に、母が賊軍の暴漢達に姉と共に誘拐されていたことも、その噂に拍車をかけた。彼女はどこの者とも知れぬものに穢され、子を孕んだのだと。
結果、母は神殿に軟禁されたまま、産後の肥立ちが悪く命を落としたとされている。ミーリツァも嫡出を認められず、生まれてこの方、王城に入ることは愚か、徒に神殿から外に出ることすら許されていない。
父が死に、姉が即位してからも状況は変わっていない。もう少し彼女に息のし易い生活を送らせてやりたいと、願ってはいるのだが、ヴァシーリー一人の力ではとても難しかった。
そんなやるせない思いを込めて、小さな体を抱き上げたまま頭を撫でてやる。嬉しそうに抱き付いてくる妹に、出来る限り軽い声で問う。
「ミーリャ、いつも不便をさせてすまない。何か欲しいものは無いか?」
「まあ兄様、勿体ないお言葉ですわ! こうやって姉様と兄様が会いに来てくださるだけで、わたくしは十二分に幸せですのよ?」
「……姉上もこちらに?」
言われた言葉に驚いて妹と目線を合わせると、無邪気な笑顔のままこっくりと頷く。
「ええ、今年王都に来た際、すぐに。それに、手紙は沢山やりとりしておりますもの! 姉様も国を治める大切なお役目がありますのに、わたくしのことをいつも気遣って下さいますわ」
知らず、ヴァシーリーは口の裏側を噛み締めていた。……姉の正気を、疑いたくなくなるのはこんな時だ。世の中全てを嘲るような瞳をしたあの姉王が、妹には変わらず慈愛を注いでいるという事実に、混乱を止められない。信じたく、なってしまう――自分も、彼女を。
昔からあんな風に、他者を揶揄する性格であったことは、良く知っているけれど。決定的になったのは、あの時――五年前、父王が、死んだ時だ。
思い出す。
血に塗れた寝室。
倒れ伏す父。
寝台の上には、真っ赤に染まった姉が――
酷く虚ろなのに熱の籠った視線で――
『では、貸しにしよう、シューラ。私が――するから、お前は――』
――つん、と腰のあたりを肘で突かれて、我に返った。主が物思いに耽っていたことに気付いていたらしいコーシカが、こっそりと目配せをしてきたので、ヴァシーリーも頷いて妹を下ろす。
「すまないミーリャ、もう時間のようだ。今度は、お前をアブンテの修道院まで送っていく。その時には、お前の好きなベリーの菓子も持ってこよう」
「まあ、まあ! 感激ですわ、ありがとうございます兄様!」
頬を上気させてまた抱き付いてくる無邪気な妹を、ヴァシーリーも今度は心から笑って頭を撫でてやった。
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