血塗られた王

◆2-1

 兵舎へと戻る近衛兵達と別れ、ヴァシーリーとコーシカは宮殿の門を潜った。出迎えは無い、静かなものだ。

 五年前、十五の若さで姉であるアグラーヤが王位を継いで以来、ヴァシーリーの立場は非常に微妙なものとなった。隆盛を誇る大神官の孫と、現王の婚姻が決定してからは尚更。

 神殿と軍部は完全に現王に膝を折り、貴族達は大規模な粛清の末、逆らわぬ者だけが残された。今や、この国の中枢部は王の手足しか残っていないも同然だった。

 そんな中、慈悲で生かされているのだと密かに、或いは声高に言われ続けているヴァシーリーは一人沈黙を貫き、普段は本殿より離れた離宮で日々を過ごしていた。

 離宮といえど、大きな中庭を二つ挟んだところに建てられた館であり、嘗ては王族の愛妾達が住まわされていた場所で、決して手狭では無い。玄関まで辿り着くと、そこには帰りを待っていた侍従が一人、ゆったりと頭を下げて二人を出迎えた。

「お帰りなさいませ、殿下。無事のお帰り、何よりでございます」

 整えられた髭と皺を蓄えているが、礼服に包んだ背はすらりと伸び、その体に宿った覇気は決して衰えていない、彼の名はリェフと言う。若い頃は前王に仕える密偵にして暗殺者として働き、一線を退いた後は後進の育成に力を注いできた男であり、コーシカの師匠でもある。

 そしてヴァシーリーにとっても、子供の頃から教育係にして護衛でもある、他の者とは別の意味で頭が上がらない存在だった。ひらりと馬から降り、スゥイーニの手綱をリェフに預ける。

「今戻った。何か変わりはないか」

「何も問題はありません。お食事と湯浴みは如何なさいますか」

「いや……このまま、姉上に報告に行く」

「左様でございますか。ではコーシカ、お前もついて行きなさい。殿下のお手を煩わせることの無いように」

「解ってますよぅ。俺だってガキの頃とは違うんですから」

「当たり前です。もし無様な真似をするなら尻を叩きますよ」

 ふてくされたようなコーシカの言葉に、リェフは笑顔のまま何処からか取り出した皮鞭をぴしゃりと自分の手に当てる。その威力を良く知っているヴァシーリーとコーシカは、同時に思わず自分の尻を押えてしまった。子供の頃から、失敗すると地位も年齢も関係なく、容赦なく食らわされた一発の痛みは忘れられない。

「では、馬はお預かりいたします。殿下、どうぞご無理はなさらずに」

「……解っている」

 一つ息を吐き、ヴァシーリーは踵を返す。向かう先は王城の本殿だ。当然のようにコーシカも後に続いた。



 ×××



 この宮殿は嘗て神代に、巨人族が建てたと言われている。そう実しやかに囁かれる一番の理由は、ヴァシーリーが三人縦に並んでも届かない、回廊や部屋における天井の高さだ。実際に巨人がいたのかは不明でも、これだけの家屋が必要であり、それを建設できる生命体が嘗て居た、という事実は疑うべきではないのだろう。

 そんな大回廊を歩いていくヴァシーリーの姿を、仕える下女たちは当然目に写すが、皆一様に慇懃な礼を取るだけで、それ以外は無視したように振る舞う。不満そうに唇を尖らせるコーシカを視線で宥めつつ、ヴァシーリーは気にせず進んだ。

 己が軽んじられていることについて、不満はあれど事実ではあるので声を荒げたりはしない。また、殆どの者は決して自分を嫌っているわけではないことも知っている。

 ――皆、恐ろしいのだ。現王の不興を買うことが。

 元老院の会議室の前に辿り着いた時、鼻を僅かな臭いが擽った。思わずコーシカと目を合わせると、忠実な猫は彼の疑問を理解して、眉を顰めながら頷く。

 部屋の中から漂ってくるのは、血の臭いだった。

 コーシカへ顎をしゃくると、すいと猫のような青年は姿と気配を消した。先刻まで目の前にいた筈なのに、どうやって消えたのか全く分からないがリェフ直伝の体捌きだという。だが自分の傍に常にいることを知っているので、ヴァシーリーは躊躇わずノックをした。

「――陛下。報告に参りました」

 部屋の中の気配が一瞬静まり返り。

「入れ」

 どろりと蕩けた蜜のような声が、ヴァシーリーを誘った。



 ×××



 部屋の中には、既に役者が全て揃っていた。

 黒一色に銀の刺繍が入った、豪奢な神官衣に身を包む老人。国教アルード教の大神官、パウーク。

 豪奢な装束を身に着け、神経質そうな視線を向けてくる男。貴族院の代表であり、姉王に忠誠を誓う大貴族、スリーゼニ。

 立派な鎧に体を包む、ヴァシーリーよりは細い体躯だがその筋骨は立派である騎士の男。軍部を押さえ、叩き上げで大将軍まで上り詰めた、タラカーン。

 誰もが、遅参したヴァシーリーに対し嘲るような、侮るような視線を無遠慮に向けてくるが、ヴァシーリー自身は特に何も感じることはない。

 彼の意識は、たった一人にだけ集中している。目線を外した瞬間に、殺されるかもしれないという緊張感の元に。

 一際豪奢な椅子。会議室に不似合いな長椅子に、体を伸ばして悠々と腰かけている一人の女。

 豊満な肢体を薄布で隠しただけの装束で艶めかしく足を伸ばしながらも、その手元には巨大な槍斧をしっかりと携えている。長椅子には、彼女が子供の頃から世話をして連れ歩き、己の戦車を引かせている二頭の獅子が侍っている。

 美しい青い髪は、伸ばされることなく綺麗に整えられ。藍色にも近い深い青の瞳は、しかしどろりと濁って光を湛えない。

 それが、アグラーヤ・アジン・フェルニゲシュ。この国の王であり、ヴァシーリーのたった一人の姉。乱心した父王を殺し、血の粛清を持って王位についた、この国の支配者であった。

 その経緯に相応しく――会議室の床は、血に塗れていた。僅かに残って床に散っている血肉を、獅子達が名残惜しげに舌で舐めとっている。……少なくとも二人、だろうか。

 迂闊に逆らった者、姉王の機嫌を損ねた者は、地位も何も関係なく殺され、獅子達の餌にされるというのは、最早宮殿では周知の事実だった。だからこそ仕える者達は皆怯え、息を潜めるように過ごし続けているのだ。

「これはこれは王弟殿下。元老会議に遅参されるとは、何か大事なご用事でも?」

 その悍ましい様から目を離せないでいるヴァシーリーに、髭を蓄えた大将軍タラカーンが真っ先に、笑顔で包んだ慇懃な声で問うてくる。当然、先刻の村の出来事は既に報告されているに違いない。元は平民であり、その武力と戦功によってこの地位まで上り詰めた彼にとって、血筋だけで得られた地位にただ座る王弟は、忌まわしき存在であるのだろう。

 血に塗れた部屋と王に、何ら気を払うこともなく大将軍は嗤っている。恐らく殺されたのはタラカーンと反目する者であったのだろうか。

「――徴税の滞った村がありまして。自ら、視察に向かっておりました」

 タラカーンの方ではなく、姉王に頭を垂れて静かな声で告げた。僅かな苛立ちの籠った大将軍の声が、ヴァシーリーの旋毛にぶつけられる。

「王弟殿下自らが足を延ばさねばならぬほど逆らう村など、焼き払ってしまった方が宜しいのでは?」

「然り、然り。我等が王家の威光、即ち崩壊神アルード様の威光に陰りを齎すものには報いを与えねばなりませぬ」

 タラカーンの声に追随するのはパウークだった。既に百は超えているのではないかと思われる老齢だが決して耄碌はしておらず、自分の孫を王に嫁がせることに成功している。皺の下から光る眼には、他者に対する侮蔑の光が輝いていた。

 ただ只管に神に祈りを捧げ、降臨を目指す敬虔なアルード教徒であり、姉王の暴虐すらも神の写し見であると大喜びするような有様だ。

「無論、王弟殿下が自らなされることに、我々は何も言いますまいが。近年の冷害で、税収も滞っているのは事実。無駄遣いはおやめくださいますよう、具申致します」

 この国の金庫番でもある、貴族院の長スリーゼニも、顔を青くしながらも嘲りを隠さない。荒事に慣れていない彼にとっても、様々な利を得られる王に傅くことが全てであり、止めようとする王弟は邪魔でしかないのだ。ぐっと拳を握り締め、反撃の言葉を舌の上から吐き出そうとしたその時。

「――許す」

 滑らかな声が響き、ぴたりと全員の口が止まった。

 長椅子に悠々と腰かけたまま、朱鷺色の唇をゆうるりと持ち上げて、蜜のような声で許しを与えたのは、他ならぬ姉王、アグラーヤであった。

 まるで玩具を弄うように、血に汚れた槍斧の背を指で撫でながら、面白そうに嗤う。

「お前が必要だと思ったから行ったことに、私は何も咎め立てはしない。報告が終わったのなら、もう下がって良いぞ」

 言葉は、理不尽に責められる弟を助けたようにも聞こえる。だが、ヴァシーリーは顔を上げることが出来ない。彼女に許しを与えられることが、どんなに恐ろしいことか。五年前から、良く知っている。

 将軍も、神官も、貴族も、姉が喋っている時は全く言葉を遮らない。彼女の機嫌を損ねれば、あっという間に彼女は手元の槍斧を引き寄せ、不心得者の首を跳ねるだろうし、それよりも先に二頭の獅子が牙を剥くのを、何度も、先刻もまさに見て来たからだろう。

「どうした、シューラ?」

 動かない弟をからかうように、子供の頃の愛称のまま名を呼ばれた。ぐ、と背に回した拳を握り締め、決意を込めて顔を上げる。

「恐れながら。――陛下にひとつ、上奏願いたく存じます」

「ふうん? 良い、許す」

 椅子に背を預け、口元を血に汚したままの獅子が甘えてくるのを撫でながら、アグラーヤは促した。

「有難く。……今年の夏は非常に寒く、農作物の生育が芳しくありません。開拓村の多くは、税を払えば冬の蓄えが出来ない状態です。口減らしや姥捨てが半ば公然と行われ、それをしたとしても全滅を免れぬ村も出るでしょう」

 事実である。リェフやコーシカの手を借りて、出来る限り情報を集めた結果、冬を越せぬ村は少なくないことが解っている。そしてその税収が滞れば、何れは他の都市、この王都にも間違いなく皺寄せがやってくる。

 今はまだ、飢えや寒さで王都の人間が苦しむに至っていないが、決して遠くない未来の悲劇を避ける為に、何某かの手筈が必要だと訴える。だが、貴族を初めとした元老院は元奴隷の苦しみなど知ったことかとばかりに鼻を鳴らしているし、何よりも。

「そうか、そうか。――だから?」

 一段、熱を下げたようなアグラーヤの声に、ヴァシーリーの背がぶるりと震えた。姉王は、やはり先刻と全く変わらぬ表情で、ただ弟を睥睨している。それがどうした、と言いたげに。この国を総べ、導くべき王でありながら。

 恐怖を堪えて、ヴァシーリーは顔を上げ、しっかりと視線を合わせる。

「――願わくば。税の減免、或いは延期をお願いしたく存じます」

 それでも退かずに絞り出したヴァシーリーの声に、貴族院長は怯え、他二人は不快げに眉を顰める。姉王はそんな弟に対し面白そうに目を細め、くく、と喉を鳴らした。

「ふうん? 己の手足を切り落とさねば立ち行かぬ村など、いっそ息の根を止めるべきではないか?」

「それは国とて同じことです。村々を見捨てれば、いずれこの国は先細り、滅びるだけになりましょう!」

 我慢できず、ヴァシーリーは声に感情をこめてしまった。熱くなっては何もならぬと解っているのに。そしてこんなに心を砕いても、姉王はやはり――

「そうか、そうか。――だから?」

「っ……」

 民のことどころか、この国そのものにすら期待していないように。ヴァシーリーとよく似ている筈の青色の瞳は、まるで溝泥のように虚ろに濁って見えた。それ以上の言葉を紡げず、ヴァシーリーが唇を噛んだ時、また、喉を鳴らす音が聞こえた。

「ふ、はは。怒るな、シューラ。冗談、としておこう」

 自分の唇を指でついと撫ぜ、アグラーヤは嗤う。柔らかく、優しく、――すべてを嘲るように。

「そうだな。たまにはお前の望みを叶えてやろう。今年の税は三割から二割へ。既に払った者には返納を。出せぬ村には今年分の免除を与えよう。許す」

「――有難き幸せ……!」

 安堵の息を堪えて、ヴァシーリーは深々と頭を下げる。

 姉王にくいと指で呼ばれ、慌てて書類を差し出す貴族長が忌々しげにヴァシーリーを睨んでくるが、当然彼も王の決定に逆らうことはしない。

 書類に自分の花押を書きこみ、机の上にひらりと投げて、アグラーヤはまたごろりと長椅子に横たわったまま、笑みを絶やさずに告げた。

「さて、シューラ。お前の我儘を聞いてやったのだ。次は私の我儘を聴いてもらおうか」

「――はっ」

 来た、と思う。恐ろしいのはここからだ。彼女に借りを作るのがこの世で一番恐ろしいことだと、ヴァシーリーは良く知っていた。固まる弟がそんなに面白いのか、やはりアグラーヤはくつくつと嗤いながら言った。

「そう固くなるな。西国リントヴルムの第一王子は、お前の友だろう? それに嫁ぐことになった、花嫁の護衛をしてほしいのだ」

「イオニアスに、ですか?」

 驚きに目を見開く弟にまた笑い、アグラーヤはスリーゼニをついと指でさす。

「それの娘でな、病神シブカの神官をしている。アブンテの神殿で修行をしているそうだ」

「アブンテの……」

 その名前には覚えがある。南方に位置するカラドリウス皇国との国境沿い、砦として建てられた山の上の神殿だ。今は若い神官達の修行場としても知られている。ヴァシーリーの年の離れた妹も、今は王都の神殿にいるが、年の半分はそこで過ごす。もうじきアブンテに帰る時期だったので、その送迎も兼ねているのだろう。姉王の意を理解したヴァシーリーに気付いたのか、アグラーヤも嗤ったまま頷いた。

「いつもミーリャを送っていくのはお前の役目だろう? アブンテからスリーゼニの娘を拾い、リントヴルムに向かえ。久々に妹だけでなく友人にも会えるのだ。たまには羽を伸ばしてこい」

 ……今の国の状況を放って隣国に出向けと言うのは、恐らく大将軍辺りが提示した厄介払いと同じだろう。意図は解っているが、流石に他国との同盟に関わるものを拒否することも、他の人間に任せることも出来ないヴァシーリーは、噛み締めた唇を見せないように頭を下げた。

「……お心遣い感謝致します、陛下」



 ×××



 踵を返し、ヴァシーリーが会議室を出ていく。最初に声を上げたのはやはり大将軍タラカーンだった。

「陛下! あのまま王弟殿下の専横を許して宜しいのですか! このままでは国家の威信に関わりますぞ!」

 威信が揺らいでいるのは、部下を排されたタラカーン自身なのだが、王弟が邪魔なのはスリーゼニもパウークも同じなので否定はしない。皆それぞれの利益の元に、現王に傅いているのだ。

 アグラーヤは別に気にした風もなく、懐いてくる獅子の鬣を撫でてやりながら、唇をぺろりと赤い舌で舐めて。

「そうか、そうか。ならば――好きにしろ」

「は」

 あっさりと言われた言葉に、大将軍も呆然とする。

「好きにしろ、と言ったのだ。お前が望むものの為にあれが邪魔になるのなら。好きにすれば良い。許す」

「あ、有難き幸せに存じます……!」

 驚きや怯えはあったものの、タラカーンの顔には悦びが浮かんでいた。これは王弟を排する為の許可を得たも同然だと思っているのだろう。おざなりに礼をして去っていく背を見届け、今度はスリーゼニが阿った。

「よろしいのですか? 陛下は、弟君を大変、大切にされていると思っていたのですが」

 皮肉のように聞こえるが、忠告でもあった。父王を廃し血濡れた玉座に座った時、誰もが王弟もその命を奪われるのだろうと思っていた。それぐらいのことを容易く為せるのがアグラーヤであったし、それに逆らう気概はあのヴァシーリーには無いだろうというのが、大部分の者達の見解であったのだ。

 それにも関わらず、ヴァシーリーは捨て置かれた。確かに政治の中心からは外されたものの、権威はいまだ王弟として健在であり、その優しさから民の人気も高い。何故、未だ彼を放置しておくのか理由が解らないのだ。

 探りを入れるような口調のスリーゼニに対し――アグラーヤは嗤った。両の口端を持ち上げて、本当に楽しそうに。

「大切だとも。だからこそ、だ」

 それ以上の問いは許さぬ、と視線に込められているようで、慌てて顔を伏せたスリーゼニを軽蔑の目でパウークが見ている。そんな、互いを食い合う者達から視線を外し、アグラーヤは嗤いながら囁いた。

「だからこそ。貸しは、ゆっくりと返せば良いと許しているのだ。ああ――楽しみだな、シューラ」

 その瞳はやはり重く濁り、もう既に姿のない弟の背を見詰めているようだった。

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