第8話 川辺で①

 紀元前3世紀末の古代エジプト。

 都アレクサンドリアからナイル川に沿って南へ下ったところに古都メンフィスはある。国王ファラオは既にこの地メンフィスにはいないが、かつての栄光を示す壮大なプタハ大神殿がそびえ立っていた。


 13歳のタオルセヌフィスはこの街で家族と暮らしている。


 ****************


「いってらっしゃい!」


 いつもの様に、タオルセヌフィスは玄関で兄を送り出した。人目も気にせず手を振る姿にレオニダスは苦笑しながらも手を振り返す。


(晴れてて、今日もいい日!)

 思いっ切り腕を伸ばして深呼吸をする。4月になり、日中は随分暖かくなってきた。肩に羽織っていたショールを取ると、それを風に揺らしながら部屋へ戻っていく。自然と口からは歌が漏れる。


「ふーん、ふんふん。」

「妹ちゃん、ご機嫌だね。」


 居間を通り過ぎると、書物を読んでいたアリュバスが声をかけた。くつろいだ様子を見ると、どうやら今日は用事はないらしい。


「別に、いつも通りよ。それより、この間教えてもらった名前書いてみたの。」

「お!」

「ちょっと待ってね。」


 タオルセヌフィスは居間の奥にある倉庫に入ると、隠してあった平べったい陶器オストラコンを持って戻って来た。陶器オストラコンには、ギリシア語で『タオルセヌフィス』と書かれている。


「なかなか上手いじゃないか。」

「ほんと?‥お料理の合間に沢山練習したの。ねぇねぇ、『こんにちは』ってどう書くの?」

「次はそれでいいのか?それはな…。」


 アリュバスは慣れた手つきでペンを持つと、陶器オストラコンに書き始める。タオルセヌフィスはそれを食い入るように見ると、指でそれを真似した。


「アリュバスさん、今日は用事はないの?」

「ここ数日で一通り挨拶は済んだし。しばらくはいろいろ見に行こうかなって思っているけど。」

「例えば?」


 タオルセヌフィスはアリュバスの傍に座り、目を輝かせた。その食いつきの速さにアリュバスは若干しまったと思いながらも、ぼそぼそと口を開く。


「まぁ、あれだな。神殿もできる限り行ってみたいし、ピラミッドももう少し近くで見たいしな。あとは、市場とか?」

「うんうん。私も私も!行くとき教えてね!」


 アリュバスは苦笑いを浮かべる。

(…やっぱりな。)


「それから、川辺や畑にも行きたいし、ワインの作ってる所にも行きたいな。機織りも見たいしな。」

「‥‥。」


 アリュバスが続けた言葉に、タオルセヌフィスは目をぱちくりさせた。なぜそんなことを言うのか。


「そんな所に行きたいの?」

「うん、今レオニダスにも頼んでいるんだ。」

「…そんな所行っても、別に面白いことは無いよ?」


 タオルセヌフィスの言葉に、今度はアリュバスが目をぱちくりさせた。何度かまたたいた後、アリュバスは吹き出して膝を叩く。


「そりゃ、そうだな!」

「でしょ?」

「でも、見てみたいんだ。」

「そんなの見てどうするの?」

「それは・・・。」


「タオルセヌフィスー!どこにいるの!」


 中庭からタイスの声が聞こえて、タオルセヌフィスは思わずアリュバスの陰に身を隠した。タイスの声の調子からして、機嫌が悪いことは間違いない。


(しまった…小麦をいておくように言われてたんだった。)

 頼まれてから随分時間が経っている、これでは確実に説教の上に追加で仕事を言い渡される。そんなことをしたら、今日が終わってしまう。

 何かうまい方法はないかと青ざめながら身を縮めていると、中庭の方から居間にリュシマコスとクロニオンが入って来た。


 アリュバスの陰に隠れているタオルセヌフィスを見て、リュシマコスは状況を理解した様だった。溜息をついて中庭を指さす。


姉さんタイス、呼んでいるよ。」

「…う、うん。」

「うわ!タオルセヌフィスがまた怒られてる!」


 嬉しそうにクロニオンがはやし立てる。それを見たタオルセヌフィスは眉を寄せ、クロニオンの腕を掴んで立ち上がった。出かける準備をするリュシマコスに声をかける。


「おじさん、今日は畑の日でしょ?…クロニオンはいかないよね。」

「ああ、その予定だけど。」

「じゃあ、あんたクロニオンも一緒に手伝いなさい!」

「え~!僕は義父さんリュシマコスと一緒に…。」

「駄目、パンを焼くの。」


 ごねるクロニオンの細い腕をしっかりと掴むと、タイスの声がする中庭へ連れて行こうとした。残念ながら、5歳になるクロニオンは腕力で勝てるはずがない。


 居間から中庭へ続く倉庫へ入り、文字を練習した陶器オストラコンを隠すと、もう一度居間に顔を出す。先ほどのアリュバスとの話で思い出したことがあった。


(そういえば、ちょうど川に行く用事があったわね。)

「アリュバスさん!午後から川の方に行くから、一緒に行かない?」

「本当?それだったら、着いて行こうかな。」

「いいわ!決まりね。‥‥クロニオンも連れて行ってあげるから。」

「ほんと!」


 クロニオンは嬉しそうに腕を振り回した。タオルセヌフィスは薄暗い倉庫の中で、口の端を上げると居間に背を向けて歩き出した。


「パン焼きの仕事を終わらせてからね!」


 貴重な戦力を得たタオルセヌフィスは、そのまま中庭へ入っていった。


 タオルセヌフィスの一日は始まったばかり。






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タオルセヌフィスの朝 ようけいじょう @yukigahuttayo

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