全部春のせいにできたなら
大和麻也
全部春のせいにできたなら
「だから、見ないでって言ったのに」
彼女の言う通りだった。
俺は見てはいけないものを見てしまった。
ちょっとやりすぎたくらいのイタズラでも、いつもなら、彼女は怒ることもなく、困ったように笑って渋々許してくれただろう。いまもそういう表情で俺を見る。しかし、それは許しを意味しない。彼女を見る目は決定的に変わってしまうし、彼女から向けられるまなざしもいままでと同じではありえないだろう。
俺を責めた彼女の言葉には、一生の宝物を失ったのと同じ重みがある。
心臓を吐き出してしまったのだろうか、自分の鼓動が感じられなくて、いまここにいるのが自分自身でないかのように思えてくる。他者の秘密に土足で踏み込んだことへの代償とは、信頼を失うことではなく、この深くて痛い、窒息してしまいそうになる苦しさなのだ。
つぼみをたたえた桜の枝が揺れる向こう側に、信号の赤色が見える。
それが青になった瞬間、俺は手にしていたそれを放り投げ、横断歩道を走った。
*
後悔先に立たず、とはよく言ったものだと思う。
とある外国の政情不安のあおりを受けて、原料や部品を調達できなくなり、急遽職場が二日連続で操業停止になった昼下がり。自分より「上」のスーツを着た人たちが新たなルートを大急ぎで探しているあいだ、手当の発生する自由な時間を持て余していた。
手当を渋らない職場を選べたことは幸運だったが、生産ラインに慣れた身体は、ソファで横になっているだけ一日を終えることができなくなっていた。
そうして俺は後悔している。開花が発表されたという報せをテレビで見ただけで、近場の桜はどうだろうかと、ふらりと家を出てしまったのだ。五分も歩いていれば、ろくなことがない。行き違う年寄りや子どもは穀潰しを見る目で俺をちらちらと見てくるし、花粉が目や鼻をくすぐって洪水を誘発するし、うっかり来たくもなかった交差点に来てしまい、赤信号にも止められる。
しかも、この交差点を敬遠するきっかけを作った張本人と出くわすことになるとは。
「あの、もしかして……
背後から声をかけてきたのは、紫の振袖を身に纏った華美な装いの同級生。
「――やっぱりそうだ」俺の顔を覗きこむ顔は、人違いでないと気づくや否や、桃色に華やいだ。「久しぶりだね」
彼女の言う通り、会うのは久しぶりだった。最後に顔を見たのは何年前だったか――でも、愛嬌以外に褒めるところがないのっぺりとした顔や、捨てられた子犬のような瞳は、その当時からさほど変わっていない。
「……久しぶりだな、
ここで人違いのふりをしなかったことが吉と出るか凶と出るか。
後悔は、先には立たない。
*
入学式は退屈だった。ぶかぶかの制服に疲れたから、小さい机と椅子に座らせていないで、早く帰らせてほしい。
田舎の学校だから、生徒の点呼には時間がかからないほうなのだろう。テレビで見る都会の学校の入学式には、何百人という制服の集団が映っているのを見たことがある。この中学校には二校の小学校を卒業した生徒が通うらしいが、俺の通っていなかったほうの小学校は、何年かすると俺の通った小学校に統合されて、廃校になると聞いている。
そんな田舎の付き合いは、これからも小学校のころから続く関係が残っていくだろう。自己紹介をしたところで、一日二日で馴染めるわけがない。現に俺は、隣でプリントの枚数の確認に追われる女子生徒が何という名前だったか思い出せない。彼女の声が小さかったせいでもあるが、それ以上に興味がわかないからだ。
少なくとも、黒板の前に緊張して立つ姿や伏し目がちで何を考えているのか一見わからない表情を見たところ、おとなしく物静かな女子なのだろうとはわかる。俺と仲良くしたり、反対に喧嘩したりするクチではなさそうだ。名前を覚えなくてもなんとかなる。
「では、またあした」
ビール腹の担任教師がようやく入学式の一日を切り上げた。立ち上がって伸びをしていると、教員が「そうだ」と思い出す。
「赤松、ちょっとだけ一緒に職員室に来てほしい」
初日から呼び出しか。
俺もよく呼び出される側だから、職員室に、しかも初っ端から呼び出されるのがどういう人間なのかは容易に想像がつく。よっぽど悪い奴か、よっぽどのバカだ。
「あ、はい」
返事をしたのは隣の席の女だった。
なるほど、相当なバカのようだ。
*
「昔のままの顔だったから、すぐ気がついたよ」
ころころと笑う赤松と向かい合って、場末の喫茶店の席に座ったのは、道端で出くわした翌日のことだった。会ったその日は二、三言葉を交わしたくらいですぐに別れたのだが、去り際、改めてお茶でもしながら話そうと提案され、再会した場所が場所だったものだから、無下にできず承諾していた。
座席は窓際。手入れの荒い桜並木から、いくつかの桜色を咲かせた枝が垂れ下がって風に揺れるのを眺める席だ。
俺が彼女に遅れて椅子を引いたとき、最初の話題はいかに俺が昔のままかという話だった。
「顔は変わっていると思うけど」
「そう? そんなことないよ。七年前もそのままだった」
彼女は、七年前、という具体的な数字をすらりと述べた。それが初めピンと来なくて、指を折って数えてみる。中学二年を最後に会っていないのだから……うん、たぶん七年前で間違いない。
「私はどう? 変わった?」
赤松はベージュのブラウスにオレンジ色の長いスカートを身に纏う。きのうの豪華な振袖姿とは打って変わって落ち着いた恰好に、垢抜けているな、と素直に感心してしまう。顔は昔と全然違わないというのに。
「俺としては変わっていないと言いたいが、変わったと言わせたいんだな?」
「あ、その通り。髪を染めたり、ピアスしたり、派手にしていた時期もあったから」
俺は三日連続の休業手当を喜ぶ工場の従業員だが、彼女はつい先日まで東京で大学生をしていた。きのう振袖を着て歩いていたのは、母の振袖を着て、地元の写真館で卒業記念の写真を撮っていたのだそうだ。地元に戻ってきたのは先月とのことで、卒業式の日を除いてずっとこちらで過ごしていたという。
「振袖を着るために黒く染め直したのか」
「まあね、茶髪だと似合わないと思って。それに仕事のことを考えたら黒にしておかないと。ちょっと寂しかったけれどね、茶髪は東京で闘ってきた証みたいなものだから」
「そういうものか」
「そういうものだよ。大学って思っていたより男社会で、武装するくらいじゃないと舐められちゃうもん。男も女も計算高くて、油断ならない」
東京を知っている俺ではないが、そういうものとは思えない。より正確にいえば、一般にそうだったとしても、彼女はそうではない、と半ば願うように思っていた。
こんなに喋る彼女ではなかったはずだという違和感が胸の奥で渦巻く。
「いまだって厚化粧でしょ?」
「化粧して来てくれるとは思っていなかった」
数秒の沈黙。
視線を交わす不安に耐えかねて、何の気なく、というふうを装って窓の外で揺れる桜の枝を見つめる。
*
赤松が気になる存在になるまでは、そう時間はかからなかった。
入学式初日から頭の悪い奴なのだろうとアタリを付けてはいたが、それ以上だった。想像を絶していて、笑いを堪えるのが大変でさえあった。
「……とい、う……と、きに……ええと」
漢字がまるで読めないのだ。
何度も何度も引っかかる。
国語の授業で音読をするよう指示されると、それは明らかになる。立ち上がって読みはじめようとするのだが、まず読みはじめるのに苦労する。どこを読めばいいのかわかっていないのだ。先生が歩み寄ってきて、教科書のここだと指し示すまで、彼女は全然違うところから読みはじめたり、意味不明なことを言いはじめたりする。読みはじめても、読めるのはひらがなだけで、漢字――それがたとえ、小学一年生でさえ読めるような文字であっても――に当たるたびに言葉が詰まってしまう。ひらがなだって、読み続けているうちに変な発音になって、最後には理解不能な文章になる。
何度も何度も詰まるので、二、三分もかかって一行を読み切ったところで、先生は別の生徒を指名する。するとその生徒はこう言うのが決まりだった――「先生、どこまで読んだかわかりません」
それだけでも教室のあちこちからクスクスと笑いが起きるのだが、隣の席の俺は、もうひとつ面白い光景を見ることができる。
赤松が「やりきった」という顔でほっと息をつく瞬間だ。
全然ダメじゃん、読めてないんだけど。
「壊れたラジオでももっと聞きやすいよ」
隣の席のひとりにだけ聞こえるように呟くと、そいつは黙って困ったように笑うだけで、怒るどころか悲しむこともない。
日本語もろくに読み書きできないバカだから、言い返す言葉も思い浮かばないのだろう。
*
ちょうど、注文していたコーヒーが届けられて沈黙の理由を与えてくれる。店員が去れば、会話は仕切り直しだ。
「そういえば、仕事って何だ? こっちで働くのか?」
先ほど彼女は、仕事も髪の色を黒くする理由のひとつだと言った。
すると彼女は、照れた色と自慢げな色とが混じった声で答える。
「先生になるの、中学校の。母校ではないけれど、実家から通えるから」
「教員!」
声が大きくなった。
人格としては申し分ないかもしれないが、人前に立って勉強を教える仕事が赤松に向いているとは思えない。子ども相手でも注目を浴びることに耐えられる図太さはなさそうだし、激務と聞く仕事をこなす体力がその細い身体にはなさそうだ。それ以前に、彼女の中学生当時の成績からすれば、その職に就いたと聞いた者は誰だって仰天するに違いない。
「驚くよね。大学に通っていたことだって意外だったんじゃないかな」
自然、背筋が伸びる。
「驚いたのは確かだが……いや、いい仕事だと思う。せっかく大学に行ったなら、そういう仕事に就くのが一番だ」
「……そうかもね」
お茶を濁すのは、俺の言葉が彼女にとって不都合だったからなのか、俺自身にとって不都合だったからなのか。おそらくは両方だ。
軽率な発言を詫びる代わりに、彼女に問う。
「どうして教師になろうと思ったんだ?」
「憧れている先生がいるから」
ごくありふれた動機。かといって、それ以上のものは必要ないのだろう。俺だって、就職面接のときに志望動機を問われてどう答えたか、初任給をもらうときには忘れていた。
「それって、
一年のときに担任だった数学教師だ。中年太りの男で、数学の指導は熱が入りすぎて鬱陶しいこともあったが、時には俺の悪ふざけにも付き合ってくれる、気のいい奴だった。
しかし、俺の予想は外れた。ううん、と彼女は首を横に振る。
「
耳を疑った。
中学二年のクラスの担任だった。つい数か月前まで大学生だった新任教師で、授業もホームルームもたじたじ、失敗を繰り返しては、先輩教師からも小言を言われる有様。なよなよしていて危なっかしい彼は、応援してやろうという気にはなったかもしれないが、決して尊敬される教師ではなかったし、俺はあまり好かなかった。
俺の表情に赤松も気がついた。
「これも意外な話だった? 憶えているでしょ?」
言葉を返さない俺に対し赤松が念を押しすると、そのたった一言で俺は納得した。思い出す必要もない、憶えているのだから。そうだ、彼女は楠本を尊敬してもおかしくはない。俺はそれをわかっていて、忘れようと、忘れたことにしようとしていたのだ。
そう思うと、途端に彼女の言葉が俺を叱責するものに感じられて、居心地が悪くなった。しかし、ここで席を立ってしまえば、俺は成長していないことになる。
「悪かった、俺は後悔するまでわからないバカだったんだ」
*
水を飲むと気分が和らいだ。
喉が渇く感覚はあまりなくても、漆原とふたりきりの教室で、マンツーマンの特別レッスンとなれば息が詰まる。水分補給は、喉を潤すよりも、その息苦しさを解消するために必要不可欠である。開始前に三十分で休憩を取ると約束して正解だった。
教室に戻ると、漆原が俺の座っていた座席の少し後ろに立って、黒板に自分が書いた文字や数字を眺めていた。
「戻りました。何してるんすか?」
「ああ、五分後に再開だぞ。……いやな、どうすれば栃尾にもわかりやすいか考え直していたんだ」
「その芋虫みたいなのを見せられているうちはずっと意味わかんないです」
「芋虫って……数直線だよ、教えただろう」
教わったのは憶えている。教わっていないと主張するつもりはない。でも、わかっているかは別問題だ。
「もうすぐ二年生になるんだから、プラスとマイナスくらいは理解しないと。これから余計に苦しくなる。いまのうちに、少しでも、一緒に何とかしよう」
俺が心配されるような成績なのはよくわかっている。改善したくないはずがないし、それに焦る気持ちだってないわけではない。漆原の言葉は、正論なだけに反論はできないが、胸にチクリと刺してきて、苛立ちを沸き立たせる。
だから、何か思いついたように板書を消す漆原の背中に、俺はまたあの名前を口にしてしまう。
「赤松のほうが頭悪いのに……」
その音量は、いつも赤松にだけ聞こえるようにしている声と同じなのだが、放課後の静かな教室では漆原の耳にしっかりと届いてしまう。
「栃尾」
明らかに低くなった声に、彼の感情が動いたことがわかる。
「赤松は赤松で頑張っているんだ、認めてあげないと」
漆原の言葉はすぐに、心の中で「きれいごと」として処理される。
赤松は全科目で俺より成績が悪い。それどころか、学年で最下位なのは間違いない。テストで一桁の点数なんてザラにある。この前の期末テストでは、なぜだか別室で試験を受けていた。ひどいなんてものではない。
それ以外にも、小学生の書くような汚い文字やパーツの位置関係が滅茶苦茶な漢字とか、勉強ができないくせにノートも開かない授業中の態度とか、赤松の出来の悪さを示すことは山ほどあった。俺以上の劣等生なのは明らかだ。
そのようなことを言い返すと、漆原は大きく息を吐いた。
「赤松だって好きでそうなっているわけではない。栃尾もそうだろう?」
その通りだ。
でも、親を含めて周りの誰もが、俺が好きで落第生をやっているように言ってくる。
「えこひいきですね」
イライラする。
みんな、わかっているようでわかっていない。
「なあ、栃尾」
漆原の表情と声色は、また少し変化する。えこひいきという批判にはコメントせず、話題をすり替える。
「赤松に謝ったか?」
「え? 喧嘩とかしましたっけ?」
「何度もひどいことを言われたと、本人から伝え聞いている」
チクったな、という赤松への苛立ちが重なった。もう数学をしていられる気分ではない。
「赤松は傷ついたと言っている。さんざんひどいことを言ったそうじゃないか。ほかにも、思い当たることがあるはずだぞ」
「それなら自分で言ってくるはずじゃないですか。俺に向かって、謝れって」
「楽に言えることではないだろう。それを言ったら――」
と、ここで不自然に漆原は言葉を切った。怒りの表情を引っ込めると、いくらか考えてから再度口を開く。
「……先生も赤松に謝らないといけないな。秘密にしていてほしいと言っていたのに、栃尾に話してしまった」
意味がわからない。
「俺に謝ってほしいくせに、それを俺に秘密にしていたんですか? どうして? 理由は?」
漆原は首を横に振る。
「それが秘密なんだ」
*
「謝ってもらうようなことではないと思うけれど」
赤松の目を見ないようにと視線を向けていたコーヒーカップを、彼女はすっと取り上げた。俺が逃げ腰になっていることを見抜いているかのごとく。
そんな小さな仕草にも、赤松と比べて、自分がいかに未熟かを感じされられる。四年間異郷の地で学び続けたことが生む差なのかもしれない。
「誰だって他人のひとりくらい、からかったりバカにしたりすることもあるでしょ。中学生くらいの年頃なら、なおのこと」
「…………」
「それに、いくら昔のことでも、自分をバカなんて言うものじゃないよ。気持ちはわからないでもないけどね」
「……教師になるだけあるな」
唇を濡らしてからも胸元に留めていたカップを、静かにソーサーに置いた。「そういうことじゃないよ」と呆れた顔で薄く笑いながら。
「栃尾は、私のほうがバカだと思っていたでしょ?」
その一言は、それまで俺を優しく諭していた言葉をひっくり返した。「許さない」という意志表明としか思えなかった。
すべては俺が赤松のことを「バカだ」と思ったことに尽きるのだ。そして、そう思っていても彼女から反撃されないと悟って味を占めると、何を言っても、何をしてもいいような気がしてしまったのだから恐ろしい。彼女に対して自分が向けた言動で思い出されるのは、何もかもひどいことばかりだ。
自分のことを棚に上げておいて。
「こんなことを訊く自分がバカだとは思うんだが」自分のカップのコーヒーに自分の顔が映っている。我ながら無様な表情だ。「怒っているよな?」
きょう何度目かの沈黙。
胸がざわざわする。
*
新しい担任は、つい先日まで大学生、十歳も年齢が離れていない男だった。
漆原がベテランだったことを思うと、両者の担任としての振る舞いには、かなりの差があった。生徒を注意して口答えされるとそれ以上相手を説得することができないし、話がまとまっていないのに話しはじめてチャイムにさえぎられる。出席簿を職員室によく置き忘れる。チョークだってしょっちゅう折る。階段にけつまずく。
学活の時間を割いて行っていた個人面談も、俺の順番が回ってくるころには一学期が終わろうとしていた。
「漆原先生から聞いているよ。数学が苦手だって」
のほほんとした語り口で、単刀直入に俺の問題点を指摘する。自分が国語の担任だからといって、真剣に考えていないのかもしれない。楠本はことあるごとに「数学は納豆よりも嫌いだった」と笑っていたくらいだ。
「でも心配しなくて大丈夫でしょう」楠本は組んだ指を動かして、どこか遊んでいるようでもある。机の上には俺の成績を書いた資料ひとつさえ置かれていない。何かメモを残そうという様子もない。「中間テストの成績によれば、国語や英語はよくできていたし、ほかの教科もだんだんと伸びている。もちろん数学だって」
口を尖らせるくらいしか、何となく浮かぶ不満をぶつける方法がなかった。
「世の中数学がすべてじゃないですよね」
「何を言っているんだ、いまの栃尾には数学がすべてだよ」
意味が解らず、はあ、と漏らした声に、楠本は短く笑った。新しい担任は、個人面談の場でも冗談を言うのか。
「大丈夫、栃尾は成長しているよ。漆原先生も、そう言っていた」
もっと厳しいことを言ったほうがいいか、と問うので「さあ」と答えておいた。
赤松にも同じことを言っていたのだろうか。
*
そうだなぁ、という彼女の小さな呟きは、「そういうことじゃない」と繰り返す代わりに出てきたもののようだった。
「うん、怒っているね。怒っているから、私が大学へ進学し、先生になるまでにした血の滲む努力を、ちょっとだけ見せてあげようかな」
そう言ってごそごそとポーチの中を探る。どこか嬉々とした様子が感じられるのを見るに、最初から、この話題になることを期待していたようでもある。
自分から話したいと思えるだけ、彼女にとってそれが取るに足らない話題になっているならよいことだが、俺にとってはまだまだ仕返しのひとつと感じられてしまう。俺の感じ方に気づかない彼女ではない。
「これを持ち歩くようにしているの」
差し出してきたのは、細長いしおりのような形のボール紙。一見すればただのしおりなのだが、そうではなく、工夫がなされている。
紙の中央が細長く切り抜かれているのだ。白い紙面の向こう側、テーブルの茶色が覗いている。
「これを使えば、読みたい一行を集中して読むことができるの。ぱっと見たときの情報量が多すぎるから文章がダメだったみたいで、分析するみたいに少しずつ見ていけば意味も理解できたんだ。それでも、一般的な人に比べれば読むのは遅いし、読解力もイマイチなんだけどね」
彼女は大学を卒業したばかりだから、卒業論文を書いていた時期にこの自作の道具を幾度となく使用していたと思われる。でも、目の前にあるそれに汚れや傷、折れた跡などはあまり見られない。新しく作ったばかりなのだろう。
つまり、これをボロボロになるまで使っては作りなおすことまで、彼女の日常の一部であるということだ。
「大学入試でも使っていたのか?」
「うん、私の場合は診断書があったから、配慮を願い出ればそれなりに応じてくれる大学はあったよ。ダメって言われたら、その時点で願書を取り下げてやったけど」
「……強いんだな」
つい口を突いて出たその一言を、赤松は聞き逃さなかった。
「ひとりでそうなれるわけではないよ」
これもまた、「そういうことじゃない」と俺を責める言葉なのだろう。
*
中学二年の修了式の日だった。
学年末までの課題を提出しなかったものだから、漆原にこっぴどく叱られ、放課後に居残ってマンツーマン指導を受けてそれを提出した。二時間も絞られた。それでも解けたのはたった数問で、あとは答えを写すことを許された。
去年の担任は、時間がないからそれで仕方がないと言った。今年の担任だったら、何と言っただろうか。わずか数問を解いただけで、よくできたと言ってくるのだろうか。
楠本のことを思い出したら、少しだけイラっとした。
彼は俺がふざけたり屁理屈を言ったりしたら叱責してきたが、一桁の答案を受け取ったとしてもむしろ「よくやっている」と言うばかりだった。へらへら、なよなよした感じは、一年間過ごしていてもずっと変わらなかった。
気に入らない。
くたびれていたので早足に通学路を歩いていると、赤松が交差点で立ち止まって、信号が青色に変るのを待っていた。背中を見るだけでも、その視線が桜の木が作る影に向かっていることがわかった。
赤松は、中学三年への進級を東京で迎えることが決まっていた。父の転勤の都合なのだそうだ。転校するとなると手続きやら何やらが色々と忙しいようで、彼女が職員室に呼ばれる回数は増えていた。きょうも長々と居残っていたらしい。
もともとよく呼び出されていたのだ、頭が悪いと学校を変えるのも大変なのだろう。だって、どの学校でも厄介者扱いされて当然なのだから。
「おい、赤松」
隣に並んで声をかけた。気がついた彼女は、不意を突かれたのか、びくりと肩を揺らして一歩身を引いた。
二年間さんざんからかってきたのだから、俺を見てそのようなリアクションをするのは自然なことだ。むしろ、転校が決まったあとのお別れのあいさつでも、間抜けな顔で気持ちのこもらない言葉を並べた彼女が、俺に対してだけははっきりと反応を示すようになっていたのが面白く感じられていた。
「最後の日まで大変だな。次の学校でも勉強頑張れよ、日本語読めるように俺も応援してやるよ」
すると彼女はまた、困り顔で笑みを浮かべる。
いつものことだ。
最後の日でも、いつも通りだ。
漆原に絞られたこともあって、イライラがつん、と頭のてっぺんをつついた。
「何それ、ラブレターでももらったのか?」
俺はふと目に付いた、赤松のポケットから覗くものを抜きとった。「あっ」と声を漏らしても遅い、次の瞬間俺は右手を高く上げて、背の低いのろまに取り返されることのないようにした。
「待って、返して」
「封筒? ああ、楠本が書いたのか。読んでやるよ、お前には読めないだろ?」
封はされていなかったから、中に入っている便箋を抜きとるのは簡単だった。後ろ歩きで赤松から距離を取って、ぱっとそれを開く。
「ダメ、見ないで! お願いだから!」
赤松の叫ぶ声に自分の口角が上がっていくのを感じた。怒ればいいのに、どうしてそうしないのやら。
楠本の字は丁寧で読みやすい。それが国語の教師らしさを感じさせる唯一のポイントだ。手紙は「前略」で始まっていて、その先に何が書いてあるかといえば――
赤松ではないが、俺は手紙を読むことができなくなっていた。
とんでもないものを読んでいるような気分になっていたから。
これが漆原の言っていた秘密。
目に留まった「障害」の二文字が俺の奥深くに焼き付けられた。
*
「楠本先生のおかげもあって、私は大学生になれた。これは間違いない。
あの日栃尾が勝手に読んだ手紙は、先生が東京の学校の先生に向けて書いたものだったの。封筒の宛名、見ていなかったでしょ? あれはね、私が文字を読めないことについて必要な工夫やいままでやってきたことを知らせるためのもので、『親御さんと中身を確認して、必要だと思ったら次の学校の先生に見せるといい』って渡してくれたんだ。手紙のおかげで次の中学校では丁寧に対応してもらえて、高校受験やその後の高校生活でも、困ることはあってもかなり楽に過ごさせてもらったよ。大学に進学できるなんて、夢にも思わなかったのに。
東京に行くまで、学習障害のことは先生方にだけ伝えて、あとはなるべく秘密にしてもらうことにしていたの。診断は東京に行く前から受けていたんだよ。でも、ほら、ここは田舎だから。『赤松さんちの子はね』って噂になるのが嫌だったんだ、私も、親も。だから、できるだけ同じ教室で授業を受けた。先生たちはもっと方法があるとは言っていたけれど、ちょっと怖くてね。過敏だったのかもしれないけれど。
あ、でも、定期試験だけは将来に関わることだから、別室で集中して解いていたよ。本当は、先生に読み上げてほしかったな。ひとりで解いても、読めないものは読めないし、文字を思い浮かべて書く手も覚束ないから、ひどい点数ばかり取って。まあ、先生方も試験中は忙しいから、無理は言えなかったんだけど。
いま、栃尾は私に怒っているか訊いたよね。もちろん、怒っていたよ。というか、悔しかったかな? 私は、ほかの子たちと比べて文字が読めなくて書けないだけで、理解力は変わらなかったから。それなのに、診断を受けるまでは、親も先生も、同級生も、私のことを散々頭の悪い子扱いしたよ。まあ、怪我の功名とでもいうのか、言われるのには慣れていたから、黙って悔しがっていればそれで平気だった。栃尾やほかの同級生に、学習障害がバレるほうが何倍も嫌だったし。
だから、いまの私があるのは楠本先生のおかげ――正確に言えば、手紙を書いてくれた楠本先生が筆頭っていうだけで、どの先生にも感謝しているんだけれどね。もちろん、漆原先生にも。
あえて筆頭にするだけ、楠本先生はすごく素敵な先生だったんだよ。栃尾はあまり好きじゃなかったみたいだから、どこが良いのかわからないのかもしれないけれど。まあ、いまなら少しくらい、わかるようになったんじゃないかな。
だって、栃尾も似たような経験、たくさんしたんじゃないの?」
*
赤松が東京へ去ってから数か月。
受験校を決めようという、俺と母と、担任の楠本との三者面談の席でのことだった。
「いままで黙っていてごめんなさい。先生方も、黙らせてしまってごめんなさい」
涙を流して、母は俺に謝罪した。突然のことに理解が追いつかなかった。
曰く、俺は重大なことを母から秘密にされていたという。事実、というか、その可能性は漆原と楠本から――特に漆原は、去年担任だったときから指摘していたそうだ――伝えられていたそうだが、両親はそれを俺に伝えることを良しとしなかった。それを知ったら、横柄にしているふうでも気の小さい俺がパニックになるのではないかという心配と、田舎という土地柄、それが噂になるのが嫌で本人である俺にも知らせられないと思ったのだという。
俺は数の概念を理解できない。
証拠はたくさんあった。勉強が苦手で成績も悪かったが、そうだとしても数学だけは異常に理解が遅かった。しかも、その程度が並大抵の「苦手」では済まされないものだった。
数字を見聞きしてそれを具体的に置き換えることが苦手で、指を折って数えないと確信が持てない。数字を見てその大小や連続を理解することが苦手で、数直線が何を表しているのかよくわかっていない。プラスとマイナスの意味がなかなか飲みこめない。俺には自覚がなかったが、それ以外にも指示された個数でモノを持ってくることができないとか、作ったモノや描かれたモノを数えて数として言うことができないとか。それらはすべて、俺が数を用いた考え方を曖昧にしかできないために生じるエラーだった。
兆候は早くからあったはずだ。小学校中学年くらいになれば、明らかになりはじめていたことだろう。しかし、勉強不足との区別も難しければ、親もそれに理解を示すには抵抗があって、結果として診断を仰ぐこともなく、「勉強ができない」「人の言うことを聞けない」「ひねくれている」といったことにして片づけられてしまった。中学生までに俺が悪ガキのキャラクターで定まってしまったのも、その影響が少なからずあったのだろう。
漆原は両親の希望から、俺の特性を知りつつもそれを明かすことはせずに、マンツーマンの指導で改善を試みた。来たる受験に備えて、だ。しかし結果は思うように出ず、楠本も交えた話し合いの末、両親は隠し事をやめる決心をしたそうだ。俺が混乱してしまうおそれよりも、自覚して自分と向き合う可能性に賭けて。
でも、その賭けは悪いほうに出てしまったらしい。
何度も謝罪されるうち、俺は気がついてしまった。
俺は赤松と変わらない、障害を持った欠陥品だったのだと。
そうとは知らず、俺は赤松にとんでもないことをしてしまったと。
頭がグラグラする。
計算ができないとか、受験が厳しいとか、その程度は問題でないと感じていた。
*
「……気がついていたのか」
一口コーヒーを飲めば気持ちが落ち着くかと思ったが、少しもよくならなかった。
「気がついたといっても、大学生になって教員になるための勉強を始めてからだけれどね。栃尾もそういうことだったのかな、なんてね」
秘密をこじ開けるまで赤松のことを理解できなかった俺とは大違いだ。違う、あまりにも違いすぎる。
「赤松の言う通り、いまなら、楠本を尊敬する気持ちも理解できる。楠本は一度も、俺のことを欠陥品として扱わなかった。それどころか、褒めてさえくれた」
「その口ぶりから察するに、栃尾も相当苦労したみたいだね」
その通り。
数学がほとんど存在しない、単純作業の世界で俺は生きている。無論、困ることは多々ある。自分のことは工場には申し出ていないので、自分の工夫でどうにかしなければならないことのほうが多い。しかし、俺は診断を受けたわけではないし、苦労して手に入れた仕事なので、高い要求はできない。指折り数えて、なんとかする。
俺の知らないところで、俺の噂を囁かれるよりはマシだから。
「誰が悪いんだろうな、こんなに惨めな思いをするのは。本当のことを言って周りから白い目で見られたくないから秘密にしているのに、何もしてもらわないことにはダメダメで、ダメダメなうちはバカだと思われて嫌な顔をされる。何かしてもらうには、一生、一秒も休まずに自分の秘密を開けっぴろげにしておかないといけない」
ちょっとでも秘密にしている時間があったら、そのあいだは白けた冷たい視線を浴びせられる。もちろん、その気持ちもわかってしまう――バカな奴をからかいたい気持ちも、助けてほしいくせに黙っている奴に苛立つ気持ちも。
先生、教えてくれないか? ……俺は赤松に向けて、心の中でそう付け足した。
でも、彼女はまた同じ表情を浮かべるだけ。俺はそれを見て、その意味に気づけずにいたことを悔いる。彼女はずっと、中学生のころからいままで「そうじゃない」と黙って言い続けてきたのだ。バカだと言われたときも、怒っているかと問われたときも。
彼女もまた、絶えず自分を暴露しなければならなかった。それが言葉だとか本心だとかと一致しているとは限らないし、時に本心とは反対向きに表出されることもある。全部強いられているから、何もかもすんなりと腑に落ちるようにはならない。コントロールすることができない。
許されていないのだ。
*
秘密を知ってしまった。俺は後悔している。
違う、そうじゃない。
俺が後悔しているのは、そのことではない。
*
「少しだけ思うことがあるんだ」
誰が悪いのか、という俺の問いに、赤松先生は直接模範解答を述べるのとは違う形で、ひとつの答えを示そうとしていた。
「栃尾がもう少し早く、自分のことに気がついていたらどうなっていたのか。もしくは反対に、私も気がついていない立場だったら何を思っていたのか。反実仮想の虚しい遊びだよね。でも、その中に意味ある結論がひとつだけあったとするなら――いまとは違う関係になっていただろうなってこと」
ようやく、俺は彼女の発言が俺を責めるものではないと感じられるようになっていた。
たぶん、最初から彼女は俺を責めてなどいない。自然体で俺と向かい合ってくれている。俺が相手なら、一方的に秘密を曝け出す立場でなくてもよいのだから。その自然体を引き出したのが、あのとき俺が秘密を強引に暴いた悪行なのだとすれば、あまりにも皮肉ではあるが。
責められてなどいなくても、俺は謝らなくてはならない。漆原に忠告されてもそれをせず、二年間も彼女に借りを作ってしまった。その借りは七年間も未済のままで、俺の手に負えないほどの利子がついている。
「ごめん、俺がバカだった。取り返しのつかないことをして、何度も傷つけて、本当に申し訳ないと思う。赤松が引っ越してからの俺の苦労は、きっと天罰だったんだ」
「だから、謝ることではないし、自分をバカだと言ってはいけません」
未熟な俺を指導する、心優しい先生の口調だった。
「大丈夫、栃尾は成長しているよ。欠陥品なんかじゃない、私とこうして穏やかに話せていることが何よりの証拠」
「…………」
敵わないな。
読み書きが極度に苦手な彼女は、教壇に立っても苦労が絶えないに違いない。教科書の記述を読んで聞かせるとか、板書するとか、プリントを作るとか、文字と向き合わずにこなせる仕事ではない。そうだとしても、教師が彼女にとって天職であることに疑いはない。
謝罪は欲していないというのだから、俺が言うべき言葉は何だろうか。ぼんやりとは思い浮かんでいるが、それを言うにはちょっと勇気が要りそうだ。それでも、それが思い浮かぶあたり、俺はこの瞬間にもわずかながら成長し続けている。そして、赤松はそれに気づいて認めてくれている。
今度は、逃げない。
「なあ、そういうわけで俺は計算が苦手だ。だから、計算高いことは抜きに、直球勝負で言いたいんだけど――」
後悔は先に立たない。
しかし、後悔しないように生きることはできない。どんなことでも、将来悔いるタネになってしまう。その代わり、これなら後悔しないと確信できることを、丁寧に選び取って行動することなら、不可能ではないはずだ。
窓に風が吹きつけて、その向こうで数輪の桜色を付けた枝が揺れている。
それを眺めるときには、ふたりの視線は同じ向きを向いていた。
全部春のせいにできたなら 大和麻也 @maya-yamato
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