第9話:龕灯返し

 かの哲人――アテナイのソクラテスは、人間が持ち合わせている徳性アレテーの一部である「勇気」に対してこう説いた。




 ……親愛なる諸賢、今し方議論しているとは、どうも私には「見境無しに敵陣へ突っ込む戦士」「即座に降伏し、剣と盾を放って遁走する戦士」、その両方にも当て嵌まらないように思えるのだよ――。




 そもそも「勇気」とは何かについて語るとすれば、数千年の哲学史を鑑みれば明らかな通り、土台無理な話である。人類最高峰の哲学者であるソクラテスが辿り着けない真理へ、一朝一夕の聞き囓った知識を杖代わりに歩いて行く事は到底不可能だったが……。


「さぁ、さぁ! 友膳さん――札を起こしてくれ! 俺はこの戦いから……決して逃げないんだ!」


「……マジでいいの?」


「勿論だ、君に迷惑は掛けない! たとえ織子が君を逆恨みしても、刃物を持って襲って来ようとも……俺は君を護ってみせる!」


「な、何か当初の目的からズレている気がしますぅ……」


 技法の詳細はおろか、実戦経験すら無い闘技に挑む江藤少年に対しては、ただのに他ならない。要との闘技に敗北すれば将来のフィアンセ――成世織子とする羽目となる。


「……はい、起こしたよ。ね」


「ろ……ぽ……? ちょっと待ってくれ! すぐに確認する!」


 少年は慌てて『よいこの《おいちょかぶ》』なる書籍(購買部にて販売中)を開き、「かずのよびかた」のページを探し当てる。ロッポウは「六」の意であった。


「よし、六だな……! 俺の番――はい、起こしたぞ! 確認する…………三だ!」


「じゃ、じゃあ本当に始めますが……江藤君、よろしいですね……?」


「大丈夫です! 俺が決めた道ですから……こ、後悔は……ありませんっ……!」


 闘技開始前から既に泣いている少年を前に、エブリデイご機嫌の要嬢は流石にを感じていた。先程から何度も観客席の友人達を見やるも、都度目線を逸らされるという始末だった。




「そ、それでは第一局、どうぞ!」


 かくして目付役の一声により、何とも気苦労の絶えない闘技が始まった。要は少年を一瞥する。幾度も瞬きをし、ゴツゴツとした両手は膝上で行き場無く握っては開いてを繰り返す。闘技に臨む精神状態ではないのが明らかだった。


 自分が勝てば江藤と成世は別れる。要は当然、負けてやりたかったが……。


「……?」


 ジッと要の札撒きを見つめている累橋咲巳に。そのが認められるかが問題であった。


 曲がりなりにも紛争解決の手段である《札問い》に向き合うならば、「今日は負けてやろう」と邪心が介在してよい訳がない。先刻は勝利を譲る事に寛容であった累橋も、打ち場の傍らに座った瞬間、何らかの思考転換が起きている可能性があった。


「はい、それじゃあ江藤君、好きなところに張って」


「何処でも良いのか?」


「うん、『ここなら勝てそうだなぁ』ってところ、今回は一枚だけね」


「……っ」


 親手となった要が撒いた札は、左から《ピン》《ヨツヤ》《サンタ》《オイチョ》という様相である。「好きなところへ賭けろ」と言われた少年だったが、月の無い夜に森林を歩くようなものだった。全ての場札が落とし穴に見えているのか、江藤はなかなか張り駒代わりの花石を置こうとしない。




 うん、多分……許してくれるよね? こんな事情なんだもん、大丈夫大丈夫!




 意を決した要は、「江藤君」と声を掛けた。それが天からの呼び声に聞こえたのか、勢い良く江藤が顔を上げた。


「株札に詳しい先輩からさ、教えて貰ったんだけどね。片ピンは――」


「忠告です」


 教室の中に存在する全てのが震えるような声は、突如として――。


「っ!?」


 累橋咲巳から放たれた。気弱そうな表情自体は変わらなかったが、眼光だけは強烈な鋭利さ、冷徹さをいつの間にか湛えており、硬直する要を静かに見据えていた。


「……友膳さん。《三味線》は駄目です」


 三味線……単語の意味が「口出しによる闘技妨害」である事を察した要は、即座にかぶりを振って訂正した。


「違います、唯、江藤君に助言を――」


「貴女はそのつもりかもしれませんが」累橋は鈍く光る瞳を細めた。


「以前、札問いの最中に、相手へ良かれと助言をした生徒がいました……。相手は負け、『お前が余計な事を言ったから』と恨まれ、結局卒業まで両者の間には深い溝が生まれました……」


 要、江藤、早希、京香の一年生達は硬直し、悲惨な事例を語る目付役を注視した。


「他の目付役はどのような裁定をしているかは分かりません、ですが……」


 生来の優しさを乱暴に塗り潰すような覇気——これを存分に含んだ視線が動き、要を真芯に捉えた。


「この札問いは累橋咲巳が預かっているもの。厳しいようですが、お二人には今後――とさせて頂きます。守れないなら……即時に闘技は取り止め、お二人を『闘技妨害者』として、賀留多文化への接触を禁じるか否かを――会議にて議論するよう掛け合います……」


 つるり、と要の背筋に冷や汗が流れた。


「ご、誤解です! 本当に私は江藤君に――」


「友膳さん。一度闘技が始まれば、私は真摯に、何処までも公平に目付役を遂行します。……事情は把握しています、貴女が江藤君を勝たせてあげたいというのも理解は出来ます。けれど、看過は出来かねます。貴女達は書面を通じて我々に札問いの場を用意させ、目付役を呼び、伝統の手段で紛争を解決しようとした……」


 累橋は撒かれた札を回収し、手早く切り始める。一〇秒程経ち、よく混ぜ合わされた山札を要の前にソッと置いた。


「今まで沢山の生徒が札問いで雌雄を決しました。貴女がしようとしているのは、そんな彼らを、に他なりません。……闘技の後も溝を生みたくないのなら、正々堂々の闘技と結果が一番大事です」


 要の朱く健康的な頬から血の気が引き、果たして青ざめた少女がそこに座っているだけだった。


「撒き直して下さい……貴女が真剣に闘技に打ち込まれる事を、江藤君も望んでいるはずです」


 そうでしょう、江藤君――累橋の双眼が自らに向けられた瞬間、江藤はぎこちなく頷き、それから活気を失った要を心配そうに見つめた。


「…………」


 言われるがまま、山札へ再び触れようとする要のたおやかな手は、まるで頼り無く、小刻みに震えていた。

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