第8話:それでも打ちます

 例えば、予防接種を「今日か、明日か」と心待ちにする子供はいないだろう。否、大人だって好き好んで腕に針を突き刺したくはない。こういったに限って、光陰矢の如し、烏兎匆々と近付いて来る。


「……」


 代打ちをやります(株札の技法限定で)――余計な宣伝をしたばかりに、酷く面倒な案件が転がり込んだ友膳要にとって、予防接種ふだといはしみじみと気怠い些事も些事であった。


「じゅ、一五分前なのですがぁ……まだ……?」


 本日の札問いを裁定する目付役、二年生の累橋咲巳るいばしさきみが、眉を綺麗な八の字に曲げて呟いた。何事も一五分前行動を心掛ける彼女にとって、闘技者が依然として、見えないのが大変に苦しかった。


「あ、貴女達じゃあ……ないんですものねぇ……打つ人って?」


「……はい、すいません。何か『お腹から変な音がする』とか言っていて……」


 観客兼、言い訳のスケープゴートとして置かれた早希と京香。揃って苦笑いを浮かべ、壁掛け時計と腕時計とスマートフォンを見比べては、迫る闘技開始時刻を気にする目付役を見つめた。


「腹痛、ですかぁ……それじゃあ仕方ありませんがぁ……うぅ……」


 仕方無いと口にしつつ、だが未だに現れない腹痛の女と野球部員に困惑する累橋。札問いが控えているにも関わらず、多少の前乗りすらしない一年生達の精神が恐ろしかったようだ。数枚の書類はすっかり読み終えていたが、再び頭から目を通し始めた。


「……もしかして、お二人はで生きているのでしょうかぁ……」


 好い加減にしろよこの野郎――ションボリと眉を下げた累橋の言葉の裏に、そんな強いメッセージを痛烈に感じ取った早希と京香は、いつの日か「私、で済ませる特技があるんだぁ!」と汚らしい自慢をした要を怨んだ。


 闘技開始まで残り一〇分と迫った頃、勢い良く教室の扉が開いた。息を切らして現れたのは江藤少年である。要は未だ姿を見せない。


「も、申し訳ありません! 掃除に手間取りまして……!」


 黒いアンダーシャツと白いパンツの下から、確かに浮き上がる鍛錬の成果たる肉体が、柔肌を纏う女子生徒達の中でキラリと目立った。


「い、いえ……! 掃除ならば仕方ありませんよね……」


 累橋に着席を促されるも、「そんな事は出来ません」と少年は頑として立ち尽くす。何故彼は座らないのか? 早希達は目を丸くしたが、


「今日、自分と相手をしてくれる友膳さんが来るまで、このまま待っています」


 何処までも気持ちの良い少年であった。こうなるといよいよ早希は電話を掛け始め、八コール目でようやく出た要に「何やってんの! もう江藤君来てくれてんだよ!」と開口一番怒鳴り付ける。


「ったく……」ブツリと終話した早希に京香が問うと――。


「『もう出る』ってさ」


 の話かは不明であった。




「そ、それでは定刻より、何と一分遅れまして……札問いを開始します」


 累橋がペコリと頭を下げる。続いて江藤、そして便所から来た女が目礼した。


「えっと、今日は……当事者同士の要望もあり、りゃ、略式で開始致しますね……」


 本来であれば、当事者が揃い次第「始めて下さい」とはいかず、申請書や現在起きている紛争の内容、闘技結果に対する宣誓、採用技法の概略説明を目付役が行うが、大抵は、採用技法について少し話す程度であった。


「採用する技法はぁ……お、《おいちょかぶ》です。そのぉ……お間違えは無いでしょうかぁ……」


「……はい」


「ういっす」


 基本的に札問いで争われる内容が重大である程、いわゆるに近付いていくが、最近は札問い自体が減少しており、日頃から紛争に接している目付役ですら、正式に立ち会える頻度は格段に減っていた。


「京ちゃん、何か緊張して来たね」


 早希が隣の京香に耳打ちをした。内容がどうであれ、早希は札問いの立ち会いが初めてであった。


「中身が、とか……やってる人が……というのを抜きにして、それでも緊張するね」


「……えぇ。その通りですね」


 京香は少しだけ表情を曇らせ、微かに頷いた。


「今回は江藤さんが、そのぉ、あまり習熟されていないという事で……親と子、交互に行いまして、五本先取とします。サンタに止め無し、シチケン引き無し、役はクッピン、シッピン、アラシ……だけです……が……」


 累橋が江藤少年を一瞥した。要は持参したバナナミルクを飲むという無作法を極めていたが、株札の技法に関しては問題が無かった。一方……江藤は――。


「……あのぉ?」


「っ、はい!」


「今のお話、大丈夫です……よね?」


 三秒間を置き、「はい!」と元気良く返事をする江藤。


「一応……ですが、えっと、クッピンってどういう役かお分かりですか?」


 瞬間、ゴソゴソと江藤がポケットに手を突っ込み、小さな紙片を取り出した。カンニングペーパーであった。彼以外の全員が、涙ぐましい努力の跡を見つめている。


「……九と一、その二枚が揃ったら完成します!」


「……条件が後二つ、ありますぅ……」


 またもゴソゴソとをする少年。


「親? だけです! 三枚目を引いちゃ駄目です!」


 外の廊下から笑い声がした。購買部で菓子を買おうと一人が提案し、他数名が賛同して駆けて行った。


「私ぃ……そのぉ、貴方が闘技をするの……凄く心配なんで――」


 女子生徒達が皆一様に身体を震わせた。少年が突如として立ち上がり、「お願いします」と声を張り上げた為だ。


「自分は……確かに《おいちょかぶ》をやった事がありません! 今日だって、購買部の本を買って読んだぐらいで……それでもまだ頭に入っていません。分かっています、友膳さんに勝つのは到底無理です、夢のまた夢です!」


 それでも――少年は目に涙を浮かべ、累橋に深々と一礼した。


「どうか、自分に打たせて下さい! この札問いから逃げては……織子を根本から裏切る事になってしまう! 彼女は怒っている、自分に対して非常に怒っているんだ……! それでいて……うぅっ、かの、彼女は……!」


 涙、鼻水で滅茶苦茶な顔を上げ、少年は叫んだ。


「俺に勝ってくれと言っている……! うぅ、織子……織子ぉ……!」


 細身でありながらよく鍛え抜かれた身体が、今――男泣きに泣いていた。


「……あの、すんません、累橋先輩」


 怖ず怖ずと要が手を挙げた。


「……私の負けで良いです。急に自信が無くなりました」


「は、はい、そう……で、す、ね――」


「駄目だ友膳さぁん!」


 ドゴォ、と机を叩く少年。切り混ぜられていた株札が宙を舞った。


「そんな事をしたら、そんな情けを掛けられたら……! 俺は、俺は! 織子の愛した江藤海杜じゃなくなる! アイツが愛してくれた俺は、どんな……うぅ! どんな勝負からも逃げないんだぁぁぁあっ!」


 ひぃいぃいぃっ! 少年は悲鳴のような声を上げ、机に突っ伏して泣き始めた。累橋は異常の上をいくに慌てふためき、対する要は早希達の方を見やった。友人達は揃って顔を背けた。


「勝負だ友膳さぁあああぁん! 俺と勝負だぁああぁ!」

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