第9話:ブラックベリー百花

「あぁ! ー! おざぁーす!」


 一六時五分。日中の時間が段々と延びていくこの季節であっても、厚い雲に覆われていては今一つの明るさだ。しかしながら――花ヶ岡の校舎に響き渡るような一年生の声は(実にやかましかった)、空模様など意に介さぬようだった。


「っ、…………」


 第一実験室から出て来た「百花先輩」こと萬代百花は、突然に声を掛けて来た、というよりは叫んで来た常識知らずの要に、一瞬だけ身体を震わせた。彼女のクラスメイトは「ビックリするような命知らずの一年生」が存在した事に驚愕しつつも、その答えを本人から探ろうとした。


「えっ、萬ちゃんの後輩?」


「……いや、知ら――」


「最近全然金花会に来ないから、私、株札打てなくて死にそうなんですよ!? ほら、この通りですもん!」


 二キロ痩せました! 要はセーターを捲り、満面の笑みで腹を見せ付けた。


「何が関係あるのって思いましたよね? 株札打てないと時間が空くから、家で筋トレ始めたんですよ。いやー最初は面倒くせぇって思ったけど、まぁ続けていると習慣になりますね!」


「すっごい喋るねぇ、この子。物怖じしないどころじゃないし、元気一杯だね」


 優しい姉のように要を見つめるのは、生徒会執行部長の吉野田初巳よしのだはつみであった。常に仏頂面の萬代と違い、自然と笑んだような表情を浮かべる彼女は、数少ない「萬代を恐れない」人間の一人だった。


「そう言えば後輩ちゃん、何か探し物でもあるの? この辺りは一年生の子ってあまり見ないし……」


「いや、違うんですよ。がいて――目付役の人なんすけど――帰ろうと思ったら玄関で待っているんですもん!」


 萬代と吉野田は揃って玄関ホールの方角を見やった。透視でも出来ない限り意味は無かったが、人というものは何故かこのをやりがちだった。


「どっかコッソリと帰れる場所無いかなぁって探していたんですよ……そしたら百花先輩とバッタリ、という訳です」


 もしかして――吉野田が心配そうに問うた。


「虐め……とか?」


 ピクリと萬代の眉が動く。「面白ぇな」と鋭い目を細めた。


「友膳、案内しろ。そんなクソ野郎か女はぶっ殺――」


「いやいやいや、違います違います! そういうのじゃないんですよ、何て言うのかな、私も……うぅん、悪くないんだけど……困ったなぁ」


 腕を組み、うーんうーんと唸る要。まだ腹が見えたままだった。大胆に開放されている腹部を見つめる吉野田は、チラリと自分の腹部を見やり……若干、悲しそうな顔をした。


「……と、とにかくアレね。後輩ちゃんは虐めとかに巻き込まれていないけど、今日のところはから隠れて帰りたい――って事だね?」


「そう、そうですそうです! 理解度半端無いっすね先輩! 流石はですね!」


 花ヶ岡高校の生徒会に所属する生徒は、一定の役職以上に就くとバッジの装着を義務付けられる。吉野田と初対面であった要が生徒会関係者であると見抜いた理由もそこにあった。


「あはは、ありがと。……仕方無い、後輩ちゃんを助けてあげよう。本当は駄目なんだけど、この先に非常階段があるの。立入禁止って書いてあるけど、いつでも開いているからそこを使うと良いよ」


「えっ、いつでも開いているんですか!?」


「非常時に開いていなかったらヤバいでしょ?」


「あっ、なるほど……そしたら遅刻しそうな時はそこから上がれば……」


 吉野田の粋な心配りも、非常階段の本来の意味も全く解さない要。スマートフォンで時刻を確認し、「うわっ、ヤベぇ!」と目を見開いた。


「すんません、今日習い事の日なんで帰ります! どうもありがとう御座いました、生徒会の先輩!」


 廊下は走るな、と書かれたポスターの横を突っ走る要を……萬代と吉野田の二人は溜息交じりに見つめていた。


「全く、喧しいガキだ」


「でも、悪い子じゃなさそうだね」


「知らん――」


 その時であった。非常階段を目掛けて激走していた要が、急に踵を返して二人の方へ戻って来た。


「どうしたの、何かあったの?」


「いやぁすいません、言い忘れていました! 百花先輩!」


 何を言い忘れたのか――萬代が問おうとするより早く、要は両手を広げ……。


「ひゃうっ!?」


「さっきは心配してくれてあざぁーっす!」


 吉野田は両目を千切れんばかりに見開き、次のような感想を胸中で抱いた。




 まさか、まさか――まさか萬ちゃんにがいるとは! それも年下で!


 ……というか萬ちゃん、そんな声出せたんだね……!




「うわぁ、百花先輩良い匂いですねぇ!」


 スンスン……と萬代の胸元で鼻を利かせる要は、何とも無邪気な顔で「分かったぞぉ!」と指を鳴らした。一方の萬代は顔を真っ赤に染め上げ、微動だにしなかった。


「コイツはブラックベリーの匂い! そうでしょう、合っていますよね!? あれ、先輩?」




 この後の顛末を簡潔に記したい。


 萬代の胸元でクンクンスンスン匂いを嗅いだ要は、五秒後、廊下全体に響き渡った萬代の「殺してやる」という怒声を号砲代わりに、脱兎の如き速度で非常階段へ向かった。


 それなりの運動能力を持っていた要でも、しかし羞恥の余り目を潤ませて追走して来る萬代をなかなか引き離せない。これまでの人生の記憶が脳裏で再生され始めた頃、ようやく要は非常階段の扉を開ける。


 人生とは、時に笑えてくる程の不運が用意されているものだ。開いたドアの向こうには、偶然点検中だった用務員が立っており、要と二人して「ぎゃあ」と叫んだ。


 一秒後――要の後ろにはブラックベリーの香りを放つ萬代が立っていた。香り高き彼女は可愛い後輩の襟首を掴み(子猫を運ぶように、それは気軽な様子で)、そのまま第一実験室へ入って行った。


 友人の意外な一面を垣間見た吉野田は、やはり生徒会の一員であった。おおよそ数分の内に死傷するかもしれない一年生を放って置けず、「まぁまぁ」と二人の後を追った。


 そして……玄関ホールで今も要を待ち受けている女子生徒――三古和乃子は、腕時計を磨きながら、時折、腹部を抓った。明らかに「余分な脂肪」が着いている事に溜息を吐き、一層カロリーマフィンの製造者を赦しておけぬと歯軋りした。


 増えてしまった体重を少しでも減らす為、三古和は当分の間、着席生活から普通のを決意した。この点に関しては要に感謝すべきだが、最早彼女の頭に恩赦という単語は無かった。


 自ら奈落の穴に飛び降りて行く女、友膳要の花ヶ岡生活は――まだ始まったばかりである。彼女が生きていれば、の話だが。

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