第5話:要の両親
株札の申し子(と、彼女は思い込んでいる節がある)要が、指導上手な矧名涼から個人レッスンを受けて三日が経った。
何事も復習が肝心……遠い昔から子供達はこの金言をほぼ毎日浴びているものの、果たして実行に移す知恵者は如何程実在するのだろう。大人が目くじらを立てて繰り返す小言は、五月蠅いの一言に尽きる。しかし彼らが「本当に重要な事だった」と気付いた時、大抵は取り返しの付かない事態に陥っているのだ。
月曜日――六月一二日の朝、喉が痛いと眉をひそめる友人を囃し立てる要も、一分後に復習の重要性を思い知る事になる。
「金曜日に早希ちゃんがいないからさ、しゃあなしに一人で金花会行ったんだよね、そしたらまたしても百花先輩いないんだもん」
「あー、じゃあ要ちゃんはお呼びじゃないね」
んんっ、と咳払いをする早希。彼女は風邪を引く時、最も喉がダメージを負いやすい体質だった。
「私も『つまんなっ』って思ってさ、帰ろうと思ったの。でも、ほら、矧名先輩っているじゃん? 天パの人」
「癖っ毛、って言ったらいいんじゃないの……」
「先輩が、『だったらぁ、八八花でもぉ、教えてぇあげようかぁー?』って言ってくれてさ」
随分と間延びした調子で矧名の喋り方を真似る要。可能性は低いが「本人が近くにいたら」という危機感が彼女には足りなかった。
「お陰で私…………フッフッフ。とうとう八八花を憶えました!」
「嘘吐けよ」
手厳しい早希だった。しかしながら彼女は要の「致命的学習能力の無さ」を目の当たりにしている為(何度も)、気安く拍手をする訳にはいかない。両手に掛ける労力が勿体無い。
「嘘じゃないよぉーん」
テストしてみるかなぁ? 要は早希の机の中から勝手に八八花を取り出し、「札を出してみぃ」と胸を叩いた。そんな嘘吐き女の表情に腹が立つのか、早希は適当に札を一枚起こす。《芒のカス》だった。
「じゃあこれは何月で、何の――」
「あ、ちょいタンマ」
「タンマって、そんな時間掛かる問題?」
そうじゃなくって……要は苦い顔でかぶりを振った。
「それ、不良品じゃね?」
俄に早希の目が見開かれた。空から宇宙人が降りて来た時、人はこのような顔になるに違い無い。
「不良品…………?」
「うん! だって――」
上のスペース! 空白じゃん!
チャイムが鳴った。二時間目の開始を報せる鐘は、早希を無言のまま……教壇の方を向かせた。
確かに――要はカス札の概念を習っていない(それが習うものかどうか、は置いておく)。故に芒の原の上に満月か、或いは三羽の雁が描かれていなければ……落丁と見間違う可能性も…………。
万に一つ、否、億に一つはあるかもしれない。要するに――《光札》と《種札》の概念を復習しておけば、自ずと《短冊札》や《カス札》の存在も学ぶ事が出来たのだ。
復習とは唯の反復に非ず。別個の知識習得に繋がる、連鎖的なものだった。
「――まぁ、デートってものはですよ? 『あそこのパスタが美味しい』とか『話題の映画を見よう』とか、観光ガイドに踊らされれば良いって訳じゃ無いんです。そんなものはオマケであって、メインディッシュがちゃんとあるんですよ」
「メインディッシュ…………?」
「ここで一つ質問です。デートの究極的な目標は何だと思います?」
「きゅ……究極……ちょっとそれは…………ここじゃ言えないなぁ……」
「アハハハハ! 先輩むっちゃドスケベじゃないですかぁ! ってかほっぺた真っ赤! アッハッハッハ! ゲホッゲホッ!」
一文の得にもならない無駄話を要と交わすのは、椅子から立ち上がる事が億劫で仕方無い目付役――《八鏡》、三古和乃子その人だった。
一方は株札しか出来ないうつけ者、一方は賭場を穢す
それは実に単純である。要と三古和は絶賛「彼氏募集中」の身であり、しかも結果は一向に出ない為、こうして昼休みに互いのデートプラン(予定無し)や、恋愛哲学(基盤となる経験無し)を語り合い――悲願達成(見込み無し)を目指す、いわば戦友であった。
早い話が妄想仲間だった。
「それにしても……どーして私達、彼氏出来ないんでしょうねぇ」
「……それだけは分かんないなぁ」
ギシリ、ギシリと椅子を軋ませて三古和が答えた。数多く設置されたベンチの中で一台だけ、バランスの悪い故障品があった。三古和はこのベンチを好んでいた。重心の移り変わるそれを、彼女はちょっとした揺り椅子のように楽しんでいた。
「いや、分かんないっていうか……何だろう……あぁ、そうだ。花ヶ岡、男子少ないじゃん……」
「逆江戸状態、って感じですね」
瞬きを一回、二回とする三古和。
「歴史はちょっと疎くてねぇ……」
「江戸の町は男がとっても多かったんです。参勤交代とか、ほら、すぐ火事が起きたでしょう。その分、建設の仕事が多かったから男が多くなるんです。大きな町だから力仕事も増えていく、って感じですね」
「おぉ……よく知っているねぇ……歴史強いの?」
「いや、この前お父さんから偶然聞いただけです。むしろ大嫌いですし。『要、知っているか。江戸ってのはな……』とか、いきなりホワイトボードで授業するんですよ」
むっちゃ迷惑ですもん――要は両足をパタパタと動かした。
「……ホワイトボードって、一般家庭にあるものなの……?」
「え? 逆に先輩の家無いんですか? お父さんの部屋にありますよ、ホワイトボード。たまにゼミの人達が来て――」
ゼミ……ゼミ……さて、この単語が頻出する空間は確か――首を傾げる三古和は、眠たげな目を更に細めた。
「お父さん…………どんな仕事してんのさ」
「大学の教授です。日本史学の」
「えっ」
八割程に開かれた三古和の目は、すっとぼけたような要の顔をマジマジと見つめていた。苦悩、懊悩といった感情から何千里離れているか分からないその顔は、パチパチと忙しなく瞬きをしていた。
「……ちなみに、お母さんは? 主婦?」
「お母さんですか? お母さんは書道家、って事になるのかな?」
「えっ。……夫婦で凄くない?」
余談となるが、要は母親の経営する書道教室に四歳の頃から通っている。早期からの教育が功を奏したのか、今ではコンクールで上位入選の常連であった。
「……友膳さんの家、滅茶苦茶面白そう……何か、熊の標本とか置いてそう……」
熊は無いですけど――要はニッコリと笑い、興味津々といった様子の三古和に提案した。
「気になっちゃう感じなら……今日、ウチに遊びに来ます?」
《八鏡》こと三古和乃子は、寸刻置かずに頷いた。
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