オオミミギツネ:目を閉じて、口も塞いで、耳はそのまま
外の世界と完全に切り離され、昼と夜さえも分からない檻の中。
またあの人はやって来る。
この薄暗い密室で、私に愛を囁くために。
「おはよう、オオミミさん」
「…おはよう、なのね」
そっか、もう朝になっちゃったんだ。
私は彼の言葉を信じるしかない、この部屋で時間を確かめるには彼に聞くしかないから。
「気分はどう、どこか…悪いところはない?」
「別に大丈夫…なのね」
いつも通りにそう伝えたら、相変わらず彼は眩しい笑みを浮かべる。
「よかった! 何かあったらすぐに言ってね」
両腕いっぱいに抱き締められ、耳元で優しく語り掛けられる。
何十何百と聞いた甘言がいつしか耳にこびりつき、もうどうやっても剥がせない。
外の音を遮断したはずの部屋に、ずっと彼の声が鳴り響いている気がするのだ。
「ねぇオオミミさん、今日は記念日なんだ」
「記念日って…何の?」
「あはは…忘れちゃった?」
朗らかな声に混じった微かな淀み。
努めて元気な言葉を出しているけど、悲しみが何となく分かる。
彼が大事にしている”記念日”。
頭に引っ掛かる思い付きはあるけど、変なことを言って更に悲しませたくない。
…結局、私は口を塞いだ。
「気にしないで、ちゃんと思い出させてあげるから」
彼は名残惜しそうに私を放し、手首の縄を杭に結んで私の額にキスをした。
「…大好きだよ」
朝の儀式も無事に終わって、繋がれた私は檻に独り。
扉の音が壁に反響し、しかし耳から離れない声。
縄の感触もとうに麻痺して、分かる感覚はそれだけなのだ。
「ふわぁ~…まだ眠いのね」
飛び込んだ布団から微かに香る太陽の匂い。
毎日交換して洗って干してくれるふかふかの寝床。
でも、毎日取り替えるなんて頻繁過ぎるんじゃないかな?
――お布団、変なことに使ってないといいけど。
「まあ、どうでもいいのね…」
この匂いこそ、私が感じられる唯一の自然。
檻の中へ差し込んできた暖かな陽の光。
こんなものでさえ、あの人が持って来てくれなければ私の手には入らない。
自らの全てを握られてしまった現実に嫌気が差して、私は目を閉じた。
―――――――――
大きな耳を揺らし、緑の風が彼の声を運んでくる。
空を覆う綿雲は地面に影を落として、私たちの形をすっぽりと包み込んだ。
『オオミミさん、今日は素敵な日だよ』
『私にはそうは思えないのね…』
太陽も青空も丸ごと雲の向こう側。
辛うじて差し込むわずかな光も、遠くの丘をほんのりと照らしているだけだった。
『どうしてこんな日にピクニックなの?』
『それはね…今日が特別な日だから、かな』
『…何かあったかな?』
私が首を傾げると、彼はあっけらかんと笑った。
そして私の手を引き、さっきの明るい丘へと連れていく。
鮮やかな赤色のピクニックシートを敷いて、真ん中にバスケットを置く。
きっとあの中には食べ物が沢山入っているんだろう。
『さあ、一緒に食べよう』
彼はおもむろに日傘を差した。
わざわざ日向に来た意味とは何だったのだろう。
今になって思えば、それもピクニックの雰囲気作りだったのかもしれない。
『サンドイッチに、おにぎりに、ジャパリまん!』
『バランスは…気にしない方が賢明なのね』
見事と言うべき炭水化物の詰め合わせセット。
この時の彼はまだ難しい…というか火を使う料理が全く出来なかったと聞いたことがある。
そんな彼も今では名シェフ。
だけど、その料理を口にできるのはきっと私だけだ。
『でも、代わりに野菜は沢山入れたよ』
『…おにぎりの具として?』
『サンドウィッチにはベーコンを入れられるだけ入れたくて…あはは』
キャベツが中心に入ったシャキシャキおにぎり。
斬新な新食感…美味しくはない。
だけど、誰かとこうやって外で食べるお弁当はいつもと違う味がした。
最初で最後、二度と味わうことのできなくなった食事――
『オオミミさん』
彼が、小さな箱を差し出した。
『これは…何なのね?』
『あ、開けてみて』
小箱の口を開くと、中にはキラキラした輪っかが入っていた。
一体何なのか彼に聞くと、”ゆびわ”という名前だと教えてくれた。
『キレイ…! だけど、どうしてなの?』
『特別な日…丁度1年前の今日に、僕たちは出会ったんだ』
『そうなのね…私、日付ってよく分からなくて』
『あはは、やっぱり馴染みが無いかな?』
『…でも、このゆびわは素敵なのね』
『じゃあ付けてあげるよ、左手出して』
彼は優しく私の左手を取って、薬指にそっと指輪をはめてくれた。
この時私は、この指輪が持つ意味をまだ知らなかった。
―――――――――
「…ん?」
…夢を見ていたみたい。
あのピクニックの思い出も今となっては遠い過去の話。
あの後他にも何かあった気がするんだけど、何分時間が経ったせいで思い出せない。
多分、どうでもいいことかな。
私は布団を畳んで、とびきり大きなあくびをする。
何となく左手を見ると、あの時はめてもらった指輪が光っている。
牢屋の鈍い明かりを反射して、とびっきりに重たく見えた。
そういえば、彼は記念日とか言ってたっけ。
もしかしてこの指輪と何か関係があるのかな?
「オオミミさん、ご飯だよ」
「うーん…お腹は空いてないのね」
「まあまあ、そう言わずにさ」
すると何故か彼は床の上にシートを敷き始める。
いつか見た赤色が広がって、真ん中には記憶に新しいバスケットが置かれた。
やっぱりこれって、あのピクニックを…
「ささ、座って」
促されるままに座ると、籠の中から出てくるおにぎり。
夢で食べたのと同じ食感。
場所さえ除けば、全部あの日と同じ。
「ねぇ、記念日って…むぐ!?」
柔らかく暖かい唇が触れる。
「…ふふ、まず食べちゃおうよ」
それはあまりにも突然で、私は言葉を失った。
だけど、私が一言も喋れなくなってしまったのは。
きっとこの口づけが、刺激的すぎたから。
「…オオミミさん」
あの日と同じ小さな箱。
彼はずっと、あのピクニックをなぞっている。
「指輪…なのね」
「今度は、僕の指にはめて欲しいな」
左手を差し出して、にこやかに笑いかけてくる。
もし彼の言う通りにすれば、私はもう彼から逃げられない。
そう、今度こそ。
「…まんまる」
考えるのが嫌になって、そんな言葉が口をついて飛び出した。
丸くて、キレイで…あれ、何かが、頭に引っ掛かる。
思い出せそう、あのピクニックの幕引きを…!
「…あっ!」
彼が驚きの声を上げた。
その次の瞬間、耳をつんざく轟音が部屋に響き渡る。
耳に残った声を剥ぎ取る不快な音。
その主は、やはりと言うべきかセルリアンだった。
「何処から入ってきた…!? オオミミさん、下がって!」
「待って、あなたじゃ…!」
止めなきゃ、思い出しちゃったから。
あのピクニックは、セルリアンに壊されたんだから…!
―――――――――
『…うわ、セルリアン!? 下がってて、オオミミさん!』
『え、ちょっと…待つのね!』
セルリアンから私を守るために、果敢に飛び込んでいって。
それは無謀にもほどがあって。
大けがをして、長い間寝たきりになって。
ひどい事件だったから、私も忘れようとしていたのかな。
『オオミミさんを、外の世界から守るから…!』
私をここに閉じ込めた彼の最初の言葉。
そっか、初めからそうだったんだ。
なんだか嬉しい、私はやっと――
―――――――――
「……オオミミさん?」
セルリアンにやられて、服も体もボロボロになっちゃったあなた。
ごめんね、でも安心して。
「私にだって、あなたを守れるのね」
今まで彼に貰って来た
そのお礼を、お返しを、たっぷりここでし続けたい。
キラキラ虹色が舞うこの檻の中で、昼も夜もいらない私たち。
気を失ったあなたを支えて、布団へ一緒に溺れよう。
私を縛り続けてきたこの赤い縄。
その片端を杭なんかじゃなくて、あなたの手首に繋げよう。
お揃いのリングをくっつけて、目覚めの時を待ち続けよう。
「これで…ずっと一緒なのね」
今日は記念日。
私とあなたが出会った日。
私がこの愛に気づいた日。
もう見なくてもいい、話さなくてもいい。
この耳が、あなたの鼓動を感じているから。
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