ホッキョクギツネ:九十九本の白薔薇


 曇った窓を手で拭くと、冷たくて手をこすり合わせた。

 

 コトンと花瓶をそばに乗せれば、静かな花見の出来上がり。


『…トワさん、何してるんですか?』


『ん? ああ、ホッキョクギツネか。これを見てごらん』


『これって…薔薇ですか?』


 花瓶に活けられた真っ白な薔薇。

 未だ咲ききっていない花弁はさても麗しく、若々しさを見せつけてくる。


『そう、もうすぐいっぱいに開くはずさ』


『わぁ、楽しみですね…!』


 窓際に立つ白薔薇は銀世界の景色に溶け込んで、消えた境界を探そうとしたら指に棘が刺さってしまった。


『わっ、いてて…』


『大丈夫ですか…?』


『気にしないで、ちょっと触れただけさ』


 花というのは不思議な存在だ。

 永遠に眺めていられるような気がする。


 美しい。

 並び立つ二本の薔薇は、まるで彼ら以外そこにいないみたいで。


 もしも望みが叶うなら、こんな風に…


『…そういえば、このお花は何て名前なんですか?』


『品種? 確かこの辺りに書いてるやつが…あった。って名前らしいね』


『じゃあ、トワさんと一緒ですね!』


『そ、そうなるのかな…はは』


 そうか、僕と同じか。

 これがなのか。


 だからこそ、世界に2人きりだけの薔薇が、こんなにも心を釘付けにするのか。


 一本は僕。

 そして横に並ぶ、穢れなき純白のもう一本は――!



―――――――――



「…そんなこともあったな」


 鼻をつく匂いで現実に呼び戻された僕は、折れた白薔薇を拾い上げた。


 と眠る彼女の手に握らせ、ようやく身支度を始める。


「よーし、始めよっか」


 まずは捨てる物。

 燃えるゴミから選別しよう。


 …あまり意味があるとは思えないけど。


「古雑誌はこっち、本も…この袋でいいや」


 そんな感じで適当に袋へと放り込んでいると、あっという間に袋はパンパン。


 まあこの際だし、どうでもいいか。


「そしてこれは……ああ」


 床の隅っこから手紙がひょっこり顔を出す。

 机の上に広げると、滲んだ油性ペンの文字が視界に飛び込んできた。



『拝啓 九十九博士へ


 そちらは雪も多く寒い地域ですが、最近いかがお過ごしでしょうか。

 僕は用意していただいたお部屋や設備に大変お世話になっております。


 自分ひとりではどうしようもなかったこと全てを解決していただけて、本当に感謝しています。

 幸せな生活のためにまだまだ乗り越えなければいけない課題もありますが、それは僕自身の力で必ずや何とかしたいという思いです。


 かつてあなたと出会った時、名前は勿論、考え方の面でも強いシンパシーを感じました。


 ここまでのご恩を頂けたこと、絶対に忘れません。

 そしてあなたにも、幸せな未来が待っていることを心よりお祈りしています。


 重ねて、僕とキタキツネの幸せな生活のために支援して下さったことに、心からお礼を申し上げます。 


 敬具

 

 北城 常ホウジョウ トワ



「…こうも改まられると気恥ずかしいね」


 キタキツネと結ばれることを心の底から望んでいた北城くん。


 「トワ」という名前は僕と同じ読みだ。

 ちょっと漢字は違うけど。


 広く理解されることは難しい彼の、ひいては僕たちの願い。

 同志として、彼らを手伝えたことは僕の一生の誇り。


、キミも幸せにね」


 だけど、わざわざ名前で呼んでしまったのはきっと僕のエゴだ。



―――――――――



 結局手紙も袋に捨てて、口を縛ってあっちに放った。

 

 彼は素晴らしい友人だったけど、わざわざ持っていくほどの思い出でもないから。

 きっと彼も、そんなことは望んでいないだろう。


「次は…お部屋の掃除かな」


 もはや掃除も何もないくらいの惨状を見せる部屋だけど、床以外ならちょっとはマシに出来るはず。


「さあ、ほんの少しでも美しくしないとね」


 そうじゃなきゃ、ホッキョクギツネに似合わない。

 彼女の毛のようにとまではいかないけど、努力することに価値があるはず。


 埃を集めて無心になると、空っぽの心に雑念が忍び寄る。

 追い払おうにも、空虚なままでは抵抗できない。


 …ああ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 他にもっといいやり方があったのだろうか。

 後悔にキリはなく、タイムマシンもありはしない。


 せめて彼に渡したあの機械なら、記憶だけでも過去に行けるのだけど。


吟木ウタキ君は元気かな…」


 吟木 恒ウタキ コウ

 ギンギツネに強く恋焦がれていた少年。


 僕が開発していた記憶操作装置を彼に託した。

 あの子の恋は、取り返しのつかないところまで終わりが見えてしまっていたから。


 ならせめて、巻き戻させてあげたかった。

 まだ完成していなかったのに、僕は焦って彼に渡した。

 動作が不安定なまま渡してしまったのは、最期の後悔。


「……幸運を祈っている」


 はらりと落ちた花びらは元には戻らず、枯れた薔薇は二度と花を付けることはない。


 当たり前なのに、”再び”を祈ってしまうのは何故だろうか。



―――――――――



「…はぁ」


 外に広がる一面の銀世界。

 いつか美しいと思っていた景色も、今となってはモノクロ写真。


 時間が経ったから、色褪せたのかもしれない。


「赤城…そんな飼育員もいたね」


 赤城 雅アカシロ ミヤビ

 アカギツネと一緒にセルリアンに襲われ行方不明となった飼育員。

 

 特に親交があったわけでもないが、僕は覚えている。

 というのも、彼も僕達と同類じゃないかと考えているからだ。


 大した根拠も証拠もない。

 ただ彼の目を見た時、何か感じるものがあった。


 北城君が言うところのシンパシー、同じ者の感覚を。


「だから何だという訳じゃないけど、応援したくなるね」


 彼に、皆に素晴らしい未来が待っていることを祈って。

 僕は燭台に火を点けた。


 炎が全部消えた時、全てが終わっていることだろう。



―――――――――



 長い時間をかけた身支度も、これで本当に終わり。

 僕はたった一つ残した硬い表紙のアルバムを手に取る。


「ふふ、見事にホッキョクギツネの写真だけだね」


 雪の中ではしゃぐ彼女。

 雪玉が顔に当たって倒れ込む彼女。

 かまくらの中に顔をうずめる彼女。

 真っ白なケーキを頬張る彼女。

 クラッカーの飾りまみれになった彼女。

 僕と一緒に笑顔で映る彼女。

 部屋の中にいる彼女。

 部屋から出られなくなった彼女。

 部屋から出ることを諦めた彼女。

 全てを受け入れた彼女。


 ――受け入れたはずだった彼女。


「これで終わりか…」


 色んなことがあった。

 今まで沢山の思い出を作ってきた。

 だから悲しい。


 今でも、僕はホッキョクギツネを愛している。

 だから、悲しい。


「ねえ、キミはどう思う?」


 眠る彼女は何も答えない。

 当たり前か。












 死んでいるのだから。


「冷たい手だね…」

 

 絶対零度を感じたいと、寒すぎると言ってみたいと、彼女は毎日のように言っていた。

 だけど、こんな冷たさは求めていなかったはずだ。


 もうこれ以上、何の思い出も作ることが出来ない。

 出来るのは、せめて最高の終わりにすることだけ。


「ホッキョクギツネ、何がいけなかったの?」


 キミは外の世界を求めた。


 僕は拒絶した。


 争いの末、キミだけが命を落とした。


「どうして…僕は、キミさえいれば他に何もいらなかったのに、キミは違ったのかな?」


 閉じ込めてしまったことが間違い?

 認めたくない、そうしなければ僕の心は持たなかった。


 キミが遠くに行ってしまうことがとんでもなく怖くて。


 その結果、キミはとんでもなく遠くまで行っちゃったね。


「でも大丈夫…すぐ迎えに行くから」



 ゴトン。



 燭台を乱暴に転がした。

 蝋燭が床に転がって、に引火する。


 瞬く間に炎が広がり、薔薇の花びらが真っ赤に染まる。


 僕はベッドに転がって、ホッキョクギツネの骸を全身で抱きしめる。


 折れてしまった二本の白薔薇を、二人の手で握りしめながら。



「次こそは、もっと幸せになろうね」



 炎の中で、割れた花瓶が脳裏に過る。

 

 戻らなくなったあの日々が、花びらと共に焼け落ちる。


 あったかい。


 これがホッキョクギツネの温もりなら――




―――――――――




『…これは?』


『プレゼントだよ。ホッキョクギツネに似合うと思ってさ』


『もしかしてこれ、薔薇ですか…?』


『あ、覚えてくれてたの? あはは、嬉しいな』


『…たくさんありますね、何本ですか?』


『九十九本、知ってる? 九十九本の薔薇には、「永遠の愛」って意味があるんだ』


『…つまり、永遠にここにいてってことですか』


『……出たい?』


『………いいえ、もう受け入れましたから』



『あれ、これだけ開ききっていませんね』


『本当だ、まだ蕾だね…二本もあるよ』


 一本ずつ手に取って、そっくりな蕾を眺めあった。

 そして、そっと花瓶に挿した。


『懐かしいな、昔もこんな風に飾ったっけ』


『……』


『二本の薔薇が持つ意味は、「この世界は二人だけ」』


『…ええ、その通りですね』


『…あっ、花びらが落ちちゃった』


『ふふ、もう一本の花びらも落ちましたね』


『あはは…落ち方までまるで一緒だ』






『…トワさん、白薔薇の蕾の意味を知ってますか?』


『え、ホッキョクギツネは知ってるの?』


『はい、前に何処かで見たことがあるんです、確か…』


 ホッキョクギツネは蕾を僕の口に当てる。

 揺らめいた記憶のはずの景色が、いま鮮明にここにある。

 


「――愛するには若すぎる」


「……そっか」


 

 もう、終わりだ。

 多分君にとってこの生活は。


 『心にもない恋』だったんだから。

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