第129話 あんた、玲子さんだろう?

 12月に入って冬が本格化する頃、綾人と玲子は二人揃ってとある田舎町にやってきていた。日本海側ということもあって、その寒さは綾人らの住む街とは比べ物にならず、強風が玲子の髪を前後左右に暴れさせている。それでいて空は青く晴れ渡っており、雲の流れは速い。無人駅を出た二人は目の前に広がる何もない空間に立ちほうけていた。


 「昔はもっと栄えてたんだけどな。とりあえず商店街の方に歩いてみよう」


 「そうだね」


 土地勘のない綾人は玲子に案内されてその後をついていく。駅前だというのに建物が駅舎と郵便局、そしてシャッターの閉まった廃屋しかない。歩いていく先に本当に何かあるのか心配になる綾人だったが、玲子はあちこちを指差して丁寧に説明してくれている。ここは玲子が過去に生活していたある一つの世界だった。


 妖狐を知るためと称して玲子の過去に触れることを許された綾人は、ほとんど毎週末こうして玲子が暮らしてきた街を一緒に歩いて回っている。そこに夏乃や莉子、ねねがついてくることもあるが、今日はそれぞれ個人の用事で二人きりになることができた。玲子が暮らしてきた街には静かな田舎という共通点がある。人目につかない生活が求められていたため仕方がない。


 「ここの神社。夏祭りが毎年あって、よく仕事仲間と行ってたんだ。あ、女友達だよ?」


 そう言って玲子は全く管理されていない砂利道を進み、今にも倒れかけな鳥居をくぐっていく。確かにその先には開けた空間があるが、もう何年も人が足を踏み入れていないのか奥の雑木林に飲み込まれつつある。鎮座する本殿も窓は割れて、木材は朽ちてしまっていた。


 「このあたりには地域の皆で管理してた菜園があったんだけど、流石にもうないか」


 「だって70年以上経ってるんでしょ?」


 「うん。忘れ去られた場所だね」


 玲子がしゃがみこんだ場所には確かに大きめの石が並べられていて、説明されて初めてそれが囲いだったと分かる。中の土を触る玲子は黙ってしまう。綾人はこんな後ろ姿をここ数週間で何度も見ていた。


 思い出したくない記憶や触れたくない世界をなかば強制的に見せてしまっているのではないか。そんな不安はねねから気付かされた。玲子は気丈に振る舞っているが、綾人の自己満足だけに終わっているならばやめるべきだというのがねねの主張だった。


 それを伝えられたときは綾人もその通りだと悩んだ。結局、今もこうして続いているのは玲子がやってみたいと二人に言ったからだ。綾人の葛藤を見て仕方なくそう助け舟を出してくれたのかもしれない。ねねも玲子の口から直接出た感情に反対することはできなかった。


 「さ、行こっか。もうお昼だし、お腹すいたよね」


 しばらくして立ち上がった玲子は手を軽く叩いて土を落とす。目が合うと歩み寄られて腕を引かれる。そのままもと歩いていた道路に戻った。


 「綾人がそんな顔しなくていい」


 「本当に嫌じゃないんだよね?辛かったり」


 そんな心配を伝えると玲子がその場で立ち止まる。腰に手を当てて不満げな態度を見せるが、ほんのりと紅い頬は少し吊り上がる。


 「綾人のためだもん。妖狐のこと、もっと知るんでしょ?」


 「じゃあ隠さないで伝えてみて。色んな感情が心に渦巻いていたことくらい読み取れる」


 「そりゃ少しは感じることあるよ。寂しさとか悲しさとか。でもそれだけじゃない。それも読み取って」


 言い終えると玲子は再び歩き始める。軽トラックは何台か通り過ぎたが、外を歩いている人影は綾人らの他にない。妖狐を知る。そんな建前に隠された気持ちは伝えることができない。綾人がそうである以上、玲子の心の内をはっきりと言葉にさせるのはフェアではなかった。


 「ここが私が暮らしてた場所。ね、あっちよりは栄えてるでしょ?」


 「本当だ。人が歩いてる」


 地図アプリで確認していた通りであるが、橋を渡って川を越えた途端に人の手が行き届いた建物が現れる。歓迎と書かれた大きな看板には温泉郷という文字がある。しかし、名前の知られた場所ではなく、その規模は決して大きいものではなかった。


 「ここに来るお客さんのほとんどは温泉好きばかりで、雰囲気はそんな変わってないかも。もちろん舗装されてなかったし電柱もなかったけど」


 「玲子も温泉関係の仕事をしていたの?」


 「ううん。私は近くの定食屋さんで働いてた。温泉は何回も入ったことあるよ。日帰りもあるはずだから後で行ってみる?」


 「そうだね」


 「でもまずはお昼だね。どこかは開いてると思う。探してみよう」


 「だったらさ。玲子が働いてたお店に行ってみない?」


 綾人はふとそんなことを口走る。目的はこれまでと何ら変わらない。過去に触れるという行為だ。しかし、玲子の反応を見て綾人は気付かされた。玲子は目を泳がせてどう答えるべきか考えている。しまったと思った綾人は直ちに言葉を付け加えた。


 「いや、今のは忘れて」


 「どうして?」


 「怖いよね。何のために玲子が生活の場を変えないといけなかったのか、考えればすぐ分かることなのに。ごめん、軽率だった」


 綾人は考えなしの自分を悔やむ。長い時間が経っているとはいえ、過去に生活していた世界に近づけば近づくほど玲子の呪いに気付く者が出てくる可能性が高まる。分かっているにもかかわらずそんなことを口走り、玲子の信頼を失いかねない行為だった。


 「行ってみる?」


 「駄目だ!」


 「一人で生きてたときは気をつけないといけなかった。そうしないと居場所を失うかもしれなかったから。でも、今なら大丈夫。もし私の呪いに誰か気付いたとしても綾人がいてくれる。そうでしょ?」


 「もちろん一緒にいる。でも、玲子は優しすぎるよ。ねねがいつも言ってることだけど俺もそう思う。駄目なこととか嫌なことはちゃんと断って」


 「でも、私はただ綾人の隣にいるわけじゃない。妖狐になった綾人は自分で納得を掴まないといけなくて、綾人の気持ちに答えられなかった私はそこでできることをしないと」


 「ありがとう。でもやっぱさっき言ったことは……」


 「となるとあっちだね。でも、残ってるかどうか分かんないよ」


 「玲子!」


 決めてしまった玲子は道を思い出しつつ先に進んでいく。綾人は急いで追いかけるが、こうなってしまっては止められなかった。間違ったことをしたのは綾人だが、白いため息を吐いてしまう。玲子はそれを見て笑う。


 「怖がりだなあ」


 「怖がらせたのは俺なのに」


 「大丈夫。もしお店が残ってたって私を知ってる人はもう居ないよ。いたとしても75年も前のことだよ?誰も数年住んでただけの私なんて覚えてない」


 それでいいんだと自分に言い聞かせているように綾人には見えた。そのために生活の場を転々としてきた。それであればどうしてそんなに寂しそうな顔をするのか。こうした外出の後、家に戻ると毎回ねねの質問攻めを受ける。このことを知られてはもう二度と二人で出かけることを許してくれないかもしれなかった。


 「あ、あった」


 玲子がかつて働いていたという定食屋は記憶通りの場所でまだ営業を続けていた。外観は大きく変わってしまったようだが、店名は以前と変わっていないらしい。さつきという名前ののれんが風に揺れていて、木の板を彫って作られた営業中という看板が扉のすぐ横に立てかけられている。


 「玲子」


 「あ、うん」


 玲子は再び過去と触れ合って固まっていた。声を掛けると現実に戻ってきて綾人になんでもないと笑う。そこにどんな心があるのか知りたいが、先程の失敗が綾人に歯止めをかける。先に店の扉に手をかけたのは玲子だった。


 「いらっしゃいませ」


 出てきた店員は白髪の男性だった。二人に目を這わせているが、それは見慣れない客だったからのようで、玲子も警戒することなく入っていく。座席はカウンターが数席と座敷に四人がけのテーブルが三台ある。カウンターの一番奥の席にはかなり年配の女性が座っている。二人は座敷に案内された。


 「ここは海が近いから海鮮が美味しいよ。味噌汁がおすすめだから一品より何か定食がいいと思う」


 「じゃあこの焼き魚定食にしようかな。玲子は?」


 「うん……じゃあ同じのにする」


 綾人が店員を呼んで注文を告げる。窓の外から見える風景は川沿いの建物群でその中には旅館もある。玲子も会話を合わせるために同じ方向に視線を向けているが、度々中の様子を窺っている。それに気付いた綾人は迷った挙げ句、小声で聞いてみることにした。


 「あの人が気になるの?」


 「うーん。もしかすると、ここの娘さんだった人かも。幸子ちゃんって子で、私が居た頃は高校生だった」


 「本当に?気付いたかな?」


 「分からない。私も絶対とは言い切れないから。でもなんとなく似てるような」


 綾人はその老婆に背中を向けていて、無理に振り返って顔を確認することはできない。一方、綾人の対面に座る玲子の目はまた揺れていた。


 「美味しい。玲子の言ってたとおりだ。いつもの味噌汁とは何か違うね。……玲子?」


 「味、変わってない」


 料理が届いて、玲子のおすすめだった味噌汁から口をつける。綾人に料理の知識があるわけではなく、舌が肥えているということもないため美味しいという感想しか出てこない。それでもそんな些細な感覚も共有したいと顔を上げたところ、玲子は半ば放心状態となっていた。箸が止まって綾人の顔を見つめているが、心は遠くに旅をしている。


 「玲子?」


 「うん、いわゆるあら出しってやつだね。気に入ったのなら家でも作ってあげようか?」


 「懐かしい?」


 「私が感傷に浸っても仕方ないのにね。今日は綾人と妖狐のこと考えるために来ただけだもん」


 玲子はそう言ってそれからは黙々と食事に努めた。綾人も無理に心に触れることは避ける。玲子がこれまでに生きてきた時間は、その大半が玲子だけの時間で玲子だけの世界である。こうして一緒にいる綾人もその時間軸ではほんの表層で出会った中の一人であって、不躾に手を伸ばすことはできない。黙って見ているしかできない辛さは、玲子と知り合った全員が体験していた地獄だった。


 「ありがとうございました」


 会計を済ませて外に出ると、風は収まっていて気温も幾分か上がっていた。近くの山々はその頂きを雪化粧させていて、美味しかったねと笑う玲子と同じような美しさと冷たさを兼ね備えている。結婚していたという過去を聞いたときもそうだった。心を虜にされても、遠くから綺麗だと眺めているしかない。そんなことを考えていた時だった。


 「もしもし」


 「はい」


 気付くと玲子の後ろに店の中に居た老婆が立っていた。腰は曲がって目線が低くなっているものの、玲子の顔を見るために無理をして首を伸ばしている。玲子は慌てて同じ目線まで膝を曲げた。


 「あんた、玲子さんだろう?」


 「え?」


 玲子は驚いて硬直する。綾人はやはりそうだったのかと思った矢先、恐れていたことが起きてしまったと後悔する。自分が蒔いた種だととっさにどうするべきか考えていると、老婆は穏やかな口調のまま玲子に話し続けた。


 「あの時から変わらんとべっぴんなままだね。昔は看板娘はどっちって張り合ってやっとったけれど」


 「幸子ちゃん覚えてるの?」


 「当たり前だってね。あの時は誰に寄られてもそっけなくして寡黙なやっちゃと思っとったけど、今は角が取れて可愛らしくなって。負けを認めんといかんね」


 老婆は笑うと呼吸を乱して苦しそうにする。玲子は背中を擦って丸い瞳のまま唇を震わせている。


 「もう会えんと思ってた。来てくれてありがとう」


 「母さん!」


 話をしていると店から店員だった白髪の男性が出てくる。老婆の手を握ると玲子に頭を下げた。


 「すみません。母は認知症ですぐに人について出ていってしまうんです。ありがとうございました」


 「いえ」


 「ほら、寒いって戻るよ」


 老婆は手を引かれて店に戻っていく。ただ、最後に振り返ると玲子に笑いかけた。


 「また来ておくれ」


 その一言を最後に二人は店に戻って扉が閉まる。台風のように過ぎ去った出来事に時間が止まったような感覚に陥った。綾人はただ呆然と玲子を見ているしかない。


 「行こっか」


 玲子がとぼとぼと歩き始める。しかし、数歩進んだところで再び立ち止まって両手で顔を覆い隠した。冷たい風が吹き抜ける。玲子は泣いていた。触れていただけの過去に現在の心が共鳴している。


 「玲子」


 綾人は隣に立って肩を抱き寄せる。すると、玲子の顔が胸に預けられた。


 「どうして覚えてくれてたんだろう」


 「数年も一緒にいたんだ。当たり前だよ」


 「私は忘れようとしてたのに」


 涙を流すだけでは止まらない。玲子は声を抑えることができなくなって肩を大きく震わせる。綾人は安心させるためにそばにいることしかできなかった。


 玲子は人目につかない生活をしてきた。それは妖狐という奇怪な存在だと知られて社会から追い出されないようにするためで、深い人間関係を作ることができない玲子はそうして知り合った人々や世界を記憶の彼方に押し込んでいた。しかし、周りの人は違っていた。たった数年、素っ気ない振る舞いしかしてこなかったとしても玲子のことを覚えていた。玲子が誰かと生きていたことを心に刻んでいた人は確かに居たのだ。


 落ち着いてくると玲子は目元を拭って何度か深呼吸をする。そして息を整えると少し待っててと綾人をその場に残して再びさつきののれんをくぐっていった。


 綾人は待っている間、ようやく玉藻やねねに未熟と言われ続けた理由が分かった気がしていた。同じ妖狐となったことで一緒に生きていく権利を得られたものと思っていた。しかし、それはとんだ大間違いだった。


 何十年という膨大な時間を越えた先、たった一人との何気ない思い出話によって玲子の心は動いた。それは同じ時間を生きられることだけが大切なわけではないと訴えかけている。平坦な生活は苦しみを増幅させる。感情の起伏がなければ心は死んだも同然なのだ。


 戻ってきた玲子の瞳はかつてないほど輝いていた。過去のことで何か話してきたのだろうと想像がつく。どんなに頑張っても綾人では見ることのできない澄み切った笑顔だった。

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