第128話 玲子への気持ちは心の奥底にしまう
綾人の時間が止まってから砂海家は大きく変わり、数週間後にはこれまでの人生では想像もつかなかった毎日を迎えることとなった。一番の変化は両親が製薬会社を退職したことだった。早苗は近所の薬局に薬剤師として再就職し、毎日遅くても午後6時までには帰ってくる。これを一番喜んだのは夏乃で、失った時間を取り戻すように家族との時間を楽しんでいる。
和人は陰陽師として活動を再開するために頻繁に本家に顔を出すようになり、それには夏乃も同行する。そんな日は残された者で一緒に食事を取ることが当たり前となった。莉子は玲子だけでなく夏乃にも心を開いたことで高校生活を充実させ始め、早苗からは新しい娘のように接されている。早苗はねねのことも気に入ったらしく、女性陣が仲良くなっていく中で綾人は疎外感を持つこともあった。ただ、それが心に広がる前に玲子が必ず声を掛けてくれる。
この日も和人と夏乃が家を留守にする中、莉子が眠った後に玲子は綾人の部屋にやってくる。玄関から入ると早苗に迷惑だからと禁止していたはずのベランダを伝い、ねねも引き連れている。ねねの冷たい態度はまだ変わっておらず、綾人と玲子を二人きりにはしてくれない。
「綾人が寂しいかなと思って」
「綾人君をいくつだと思ってるの?私は眠たいのに」
「じゃあねねは戻っていいよ」
「やだ」
人の部屋に来るなり騒がしい二人であるが、ちょうど一人での考え事が行き詰っていた綾人にとって有難い。玲子はそんな綾人の心をすぐさま読み取る。そして来てよかったと言わんばかりに微笑んでみせた。綾人は三人分の座布団を出す。
「何考えてたの?そんな眉間にしわ寄せて」
「妖狐のことをずっと」
綾人は左手を何度か握っては広げ、体がいつも通りに動くことを確認する。これは起床時の日課にもなっている。時間が止まったことで、次にどんな変化が現れるのか心配していたのだ。玲子の場合、時間はかかったそうだが神通力が使えるようになり、その身体能力も高まったという。しかし、これまでのところ綾人は綾人のままである。
「不安だよね」
「でも怖くないんだ。だから腑抜けてしまうというか」
「どういうこと?」
ねねが鼻を鳴らして首を傾げる。玲子がそんな態度に不満げな顔をして、もう一度綾人と顔を合わせる。時間が止まっても玲子の心は変わらなかった。それは綾人が抱える問題も何ら形が変わらなかったことを意味する。
「親父にはあんなことを言ったけど、これからどうしたらいいのかなって。妖狐のことまだ何も分かってないのに」
「綾人君まだそんなことを考えてたの?」
「ねね!それで?」
「時間が止まったってことは、俺がこの場所にいられるのもあと何年か。それからは玲子やねねさんみたいに生活の場所を変えていかないといけないのかなって。家族が年老いていくのを最後まで見届けて、一人になっても自分は何も変わらないかもしれない」
「綾人、私が言ったこと忘れた?考え過ぎは駄目だって」
「でも目を背けてたって何も解決しない。その分、何かができたはずの時間を失うことになるかも」
時間とは不思議だ。堂々巡りする考えは度々そんな感想に落ち着く。綾人から時間の流れは失われたはずだが、それが時間に追われる状況を生み出したのだ。無限の時間を生きる覚悟を有限の時間で持たなければならない。あまりにも無茶な要求だった。
「確かに綾人の言うことにも一理ある。だけど、やっぱり考え過ぎは駄目。私がいるんだから一緒に考えよう?」
「でも」
それでも何も変わらなかった。そう言いかけた綾人は口を閉じる。それならば綾人だけで考えても仕方がなく、自己の矛盾に気付くと情けない気持ちになってしまう。ねねは何かを言いたげにしているが、玲子の様子を窺って静かにしている。玲子は崩していた膝を合わせて小さく息を吐いた。
「綾人が生まれた時のことを聞いて、私も色々考えた。孤児だったことが妖狐と関係してるのかとか、受けた仕打ちが影響したのかとか。でも何より、綾人のことまだ全然知らなかったんだってことが一番衝撃だった」
「当たり前だよ。俺だって玲子と離れ離れになった時、本家に行って初めて知ったんだから」
「じゃあそこにまだ何か隠されてるかもね。妖狐の秘密」
「え?」
玲子と目を合わせると、整った凛々しい顔に凝視される。隣のねねが少し慌てているのは玲子の考えを察したからだろう。そんなヒントがなくとも綾人にも玲子の考えがなんとなく分かった。
「玲子にもあるの?何かその……秘密が」
「あるよ」
はぐらかされるかもしれないと思っていた綾人は即答されて思わず硬直する。ねねは良かったのと玲子の耳に小声で囁いているが、声量を制御できなかったことで綾人の耳にも届き、玲子には煩いと怒られる。玲子の言葉には率直に驚いてしまう。今でこそ玲子の心は離れてしまったが、会いに来た頃は距離を縮めるためか自分の過去を色々と話してくれた。自惚れていたわけではないが、妖狐の核心に触れるようなことを隠されているとは思わなかったのだ。綾人は途端に不安になってしまう。
「いいの?そんなこと話して。今まで話さなかったのは理由があるんでしょ?」
「うん。でも綾人の過去を聞いたから。私も隠し事は良くないかなって思った。それに今だったら話しやすい」
緊張感が走る。綾人も姿勢を正してその瞬間に備えることにした。見ている限り、玲子に感情の揺れは見られない。それを悔しく感じるのは、玲子への恋心が変わっていないからだ。
「生まれた時のことじゃないよ。知ってると思うけど、自分の年齢も正確に分からないくらいだから。酒神のことでもない。父親だって言い張ってるけど、心から信じてるわけじゃない」
「うん」
「実はね。一度結婚してたことがあるの。今からもうずっと前のこと。相手は長之助って人でね」
「……結婚」
綾人は何度か頷いて理解を示す。しかし、頭の中では同時に様々な考えが走り始めていた。玲子はこれを隠し事だと言った。では、そうしなければならなかった理由は何か。玲子が250年以上生きていたことを考えれば、結婚していた過去があったとしても不思議な話ではない。まずはそのように考えてみるが、綾人の頭は混乱していく。
「意外とすんなり受け入れてくれた」
「隠してたのは、一人で生きてきたって話していたけど実はそうやって理解者がいたから?」
「違うよ。バツイチって知られたら綾人の心象悪くなっちゃうと思ったから。それに彼は理解者じゃない。私が悪いんだけどね」
「どういうこと?」
玲子は綾人にどんな応対を期待していたのだろう。そんなことを考えて綾人の情緒は乱れる。結婚したということはつまり、玲子が好きになった男性が過去にいたということである。まず思ったのは長之助とはどんな人間だったのかということだった。ねねは二人に挟まれてやりづらそうにしている。
「一人で生きていくことを辛く感じることは何度もあった。誰かと生きるって選択肢は毎回上がって、それで好きになった人と結婚してみた。でも、自分が妖狐だってことは言い出せなかった。嫌われるのが怖くて。そうしたらやっぱり、結婚してしばらくして不審がられてね。真実を告げると逃げられちゃった」
「玲子、辛かったら言わなくていいんだよ?」
「大丈夫。だから綾人の時は妖狐のことを最初から話そうって決めてた。それでも返ってくる反応が怖くなって、結果的に綾人を怖がらせてしまったけど」
「そんな過去が……あったんだね」
どんな言葉を返すべきか分からない綾人は当たり障りのない返事をしてしまう。聞かされた話はつまり、綾人の目に映る自分の姿を玲子が気にしなくなったということを意味する。そう考えるだけで綾人の心は締め付けられた。それに、綾人も玲子から妖狐だと伝えられた時、酷く恐怖したことを覚えている。その長之助という男を非難する立場にはなかった。
「それから、妖狐でいる限り当たり前の人間関係は作れないのかなって考えるようになった。でも綾人と過ごした時間は楽しかったよ。有限の時間だったら添い遂げて最後に一緒に死ねばいいやって考えて、突っ走っちゃった。終わりを作れることは希望だった」
「じゃあもう……」
「うん、そうだね」
「俺は玲子が好きだよ!」
聞いているだけで心が壊れてしまいそうになる。それに耐えられなくなった綾人はなんの前触れもなく告白する。玲子は突然のことに目を見開いて驚き、そして困ったように苦笑いを浮かべる。困らせてしまっている。しかし、今はそうしなければいけないと綾人は確信していた。そうしなければ玲子との壁が越えられないものとなり、不可逆的な結果を受け入れなければならなくなる。玲子は少し間を置いてから、まずはありがとうと呟く。その声は一貫して穏やかなままだった。
「でも怖くなっちゃった。大切な関係を作っても妖狐の呪いのせいで全て壊れてしまう。こうやって綾人の隣で一緒に話をする関係だって、失ってしまった時に私はきっと耐えられない」
「そんなの……これまでだって」
「そうだね。でも、終わりがあるのとないのとでは全然違う。綾人の気持ちはとても嬉しいよ。だけど、返事をするとしたら孤独から逃げることで精一杯、になるのかな」
「余計な心は持ちたくない?」
「余計だなんて思わない!でも、失った時の絶望感に怯えながら生きていくのは辛い。綾人との関係ならなおさら」
綾人はそこまで聞いて目を伏せる。自分との関係にそれほどの価値を見出してくれていたことは素直に嬉しかった。しかし、手に取ることができなければ、気持ちを与えたことにも受け取ったことにもならない。綾人に最後の一押しができないのは、玲子と同様その関係を失う恐怖が脳裏によぎったからだった。妖狐の関係は普通の人間関係とは違う。簡単にさようならと切ることができない。まさに玲子の言う呪いだった。
部屋はしんと静まり返り、それぞれが気を遣って口を開くことを躊躇っている。玲子への告白はまた上手くいかなかった。綾人にとってそれは辛いことだが、結果が以前から悪化したわけではなく、むしろ新しい気付きがあったと考えることにする。妖狐でいる限り玲子の心に触れることはできない。裏を返せば、玲子にもう一度好意を持ってもらうためには、妖狐の呪縛から解放されなければならなかった。
「じゃあさ」
「うん?」
「玲子のこともっと教えてよ」
「私のこと?もうそんなに大きな隠し事はないよ?」
「些細なことでいいんだ。生まれてから今まで、どこの街で生活してどんな経験をしたのか。覚えてること全部」
「理由は?依存しても辛いだけ」
玲子の諭す声は少し強張っていた。玲子にそんなつもりがなくとも、綾人から積極的にされれば嫌でも二人の関係は深まっていく。それを恐れているようだった。しかし、綾人に玲子の嫌がることをするつもりはない。
「じゃあ言い方を変える。俺は妖狐のことをもっと知りたい。自分自身を理解するために。周りには妖狐として生きてたの、玲子しかいないから」
「言ってること変わらないでしょ」
「玲子への気持ちは心の奥底にしまう。もう見せないよ」
ねねから突っ込みが飛ぶが、綾人は玲子だけを見つめて返事を待つ。玲子はそんな要求を真顔で聞いていた。しかし、最後には表情を柔らかくする。
「そういうことだったらいいよ。隣にいるって約束したもんね。協力できるところは協力しないと」
「ありがとう」
「綾人、少し変わった?冷たいことを言った自覚はあるよ」
「いつまでも女々しくなんてしてられない。自分のためにも玲子のためにも」
「それ、ちゃんと気持ち隠せてる?」
再びねねから指摘が飛んで今度は玲子が笑う。失望させると最後の望みも絶たれてしまうと考える綾人は悔しい気持ちを噛み殺す。そんな覚悟を買ってくれたのか玲子は決まりだねと手を一度叩いた。
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