第127話 この研究は綾人が生まれたことで始まった

 綾人は昼過ぎに一度目を覚まして玲子の作った昼食を一緒に取り、それからまたしばらく眠って一日を過ごした。次に目を開くとすでに窓の外は暗くなっていて、午前中よりも長く眠れたことが分かった。隣を見ると正座をした玲子と目が合う。ずっとそばにいてくれたらしく、綾人が上半身を持ち上げようとしたときには肩を支えてくれた。


 「夏乃ちゃんもう帰ってきてる。起きたら呼んでって言ってた」


 「そっか。ありがとう」


 「ん?」


 「ずっとそばにいてくれて。おかげで今はもうほとんど怖くない。体も朝起きた時と変わらないよ」


 「受け入れてしまえばずっと楽でしょう?夏乃ちゃん呼んでくるね。それともまだ一緒にいたほうがいい?」


 「もう大丈夫。着替えてるよ」


 「着替え、そこに準備してるから」


 玲子はにっこりと笑うと廊下に出ていき、スリッパを鳴らしながら階段を下りていく。綾人は恐る恐る立ち上がってみて体の様子を確認する。恐れていた嘔吐感は全く感じられず、頭の中も幾分かすっきりしている。汗で濡れた服を着替え終えると、ちょうど夏乃が部屋に入ってきた。目が合うと安堵の表情が漏れる。


 「良かった。元気そうで」


 「心配かけてごめん。もう大丈夫だよ」


 「まだ寝ていたい?」


 「いや、もう十分。それにそんな場合じゃないから。でも深く考えちゃ駄目だって玲子に言われてる」


 「お父さんとお母さんが帰ってくるの。もうすぐ着くと思うんだけど」


 「え?」


 夏乃が時計を気にする傍らで綾人は驚く。両親はいつも仕事で忙しい。砂海家が陰陽師家として慌ただしくしていた時も帰ってこなかったほどだ。綾人が倒れたからといって戻ってくるとは思えなかった。しかし、夏乃の様子を見ている限り、どうやらその予想は当たっているらしい。


 「兄ちゃんのことを伝えたら帰ってくるって」


 「伝えたって何を?」


 「時間が止まったこと」


 玲子に伝えられたのかそれとも自分で気付いたのか、夏乃は綾人の体に起きたことを把握していた。その上で両親に報告したらしい。綾人が妖狐であることはすでに分かっていたことで、妖狐と不老が同じ意味を持つことも自明である。綾人の時間が止まることはイレギュラーなことではない。


 「負担じゃなかったらお父さんと話してほしいの」


 「それは、砂海家の陰陽師と話すってこと?」


 「違う。お父さんと話すの」


 「分かった」


 「良かった。それまでは休んでて」


 返事を聞いて夏乃が下がっていく。すると入れ替わるように玲子が部屋に戻ってきた。手には飲み物と軽食が携えられている。これで二人は正真正銘同じ存在となったのだろうか。しかし、そんな事実だけでは玲子との距離を詰められないことは分かっている。


 両親が帰ってくると、綾人は玲子と一緒に階段を下りてリビングに入った。久しぶりに顔を合わせると、むしろ両親の方が何か変わってしまったのではないかと思えるほど髪が伸びて老けた顔をしていた。


 早苗は綾人を見るなり抱きしめてくる。その後、和人に椅子に座るように指示された。玲子も一緒である。話をするのはこの三人だけのようで、ねねと早苗は夏乃によって外に連れていかれてしまった。莉子も呼んで食事に行くのだという。


 「体調はもう良いのか?」


 「うん」


 「信濃さん。お久しぶりですね。私は初対面のことをほとんど覚えてないですけど」


 「すみません。あの時は」


 「いいんです。あの時は夏乃にそうさせたという事情もありましたから。それにとても感謝してます。綾人を助けてくれて」


 「感謝されるようなことはしていません。むしろ、私は災いを持ち込んでしまって……」


 「親父、そんな話をするために戻ってきたんじゃないだろ?」


 玲子が一人で心を荒ませようとするところ、綾人が割り込んで話に入る。玲子のことで話をぶり返すつもりはない。今では玲子の方に何倍もの厚い信頼を置いているからだ。


 「綾人の時間が止まったと聞いて慌てて戻ってきた。この時が来ることは分かってた。だからずっと急いでいたつもりだったが、とうとう間に合わなかった」


 「何が?」


 「できるものなら、こうなることを避けたかった。そのために父さんたちはずっと仕事をしてきたんだ」


 「仕事?製薬の仕事のこと?」


 「ああ。まずは父さんたちの仕事について知ってもらおうかな」


 和人は本題に入る前に目の前の二人をじっくりと観察する。父親とこうして面と向かって話をするのは何年振りかのことで緊張してしまう。玲子はリラックスしているが、目の前にいるのが陰陽師であることを忘れているわけではなさそうだった。


 「製薬会社で働いてたことは綾人も知ってる通りだと思う。実は、そこでしていた仕事というのは妖狐を治すための薬を開発することだった」


 「妖狐を治す薬?」


 綾人は聞き返して玲子と顔を合わせる。玲子の表情には困惑よりも多分の不満が含まれている。妖狐を病気のように扱われたことに怒ったのかもしれなかった。しかし、和人の言葉に冗談はない。


 「何でもかんでも科学で説明できるとは言わない。陰陽師が使役する式神だって正直、一体どういうふうに動いているのかさっぱり。妖狐の存在だって同じだ。その秘密を暴こうとしていた」


 「どうやって?」


 「この研究は綾人が生まれたことで始まった。だから妖狐のサンプルはあった。それを分析することが最初の仕事だった」


 「すみません、いいですか。裏社会では長命な怪異が失踪する事件が立て続けに続いていました。これに関係しているということはありませんか?」


 玲子は真剣な面持ちで質問し、それを聞いた綾人はゾクッと身震いする。自分の頭ではそんな可能性をすぐ思いつくことはできなかった。ただ、その話は綾人も十分聞いていたことで、玲子が巻き込まれてしまうことをねねと心配していた。


 「鋭いね。その通りだよ。この研究はもう一つの役割も担ってたんだ」


 「不老不死の薬を作ること?」


 「そう。妖狐を治す薬を作るには妖狐そのものを調べなければならない。そしてそれは不老の薬のヒントになる。裏社会、特に酒神はこの情報を欲しがっていた。私たちの研究は裏社会の協力なしに進められないもので、そんな向こうの要求を飲まざるを得なかった」


 話についていくため、綾人は黙って理解の促進に努める。一方の玲子はこんな耳を疑うような内容を聞いても冷静に振る舞っていた。ただ、綾人にしか見えない角度でその拳は両方とも強く握られていた。


 「私には理解できません。そのために一体どれだけの怪異が苦しめられたのですか?私たちがそんな犠牲の上の幸せを喜ぶとでも?」


 「自己満足だよ。親心ともいう。本来ならば綾人にこの時が訪れる前に研究を完遂したかった。そうでないと意味がないからね。でも遅かった。結果として裏社会に上手く使われてしまったのかな」


 「俺はその前から自分が妖狐だって分かってた」


 「それは信濃さんと出会ったからだ。本当は時間が止まるこの時まで、綾人は普通の人間として生活しているはずだった」


 「……それで、不老の薬は完成したの?」


 「いいや、まだまだ残された課題は多い。でも会社は研究を止めないだろう。妖狐に再び時間を与えるための研究とは違う。多くの人間が必要としているからね。私たちが始めたことだが、もう止めることはできない」


 和人はこれが仕方のないことだと言いたげである。玲子は首を傾げてそんな対応に疑義の念を抱く。玲子は最も妖狐という存在と向かい合ってきた人間である。そんな過去を持っているからこそ思うことがあるのだと推察できる。綾人は時間が止まったとはいえ、自らが妖狐だと知ってまだ数か月しか経っていない。当事者であるが、二人ほど妖狐に向かい合ったわけではなく半端なことを口走るわけにはいかない。しかし、玲子はそれを良しとはしなかった。


 「綾人はどう考える?綾人のためだったとは言うけど、そのために誰かが傷つけられることを容認できる?」


 「サンプルを貰っただけだ。傷つけているわけではない」


 「でもその怪異は失踪してる。居場所を強制的に変えられたの。ちゃんと元の居場所に帰された?」


 熱くなる玲子の問いかけに和人は黙り込む。それが答えだと言わんばかりに玲子は綾人に強い眼差しを見せつける。


 「その親心について何か言うつもりはありません。私には経験のないことで、妖狐に与える影響が分からないから。でも、その考え方は受け入れられない。神様がどんな理由で妖狐を生み出したのだとしても、それは私たちが解決すべきこと」


 「命を絶とうと考えてしまうほど苦しんだとしても?」


 「そうよ綾人。誰かに犠牲を強いるくらいならね」


 「綾人にもその時が来る」


 「綾人が望むなら私がそばにいる。苦しみを取り除くことはできなくても、和らげる方法はいくつも知ってる」


 「だが離れることになった。二人に起こったことは色々と聞いているよ」


 ここにきて和人と玲子の対立が鮮明になる。和人の主張は玲子にそんな気持ちがあったとしても、外からの影響で簡単に崩されるということだった。結果論として、あの時の玲子に離れる以外の選択肢はなかった。しかし、決断を下したのは玲子であって、苦虫を嚙み潰したような顔は後悔の表れだった。


 「俺は玲子の肩を持つよ。玲子の言う通りだ。他人の不幸で得られる幸せなんてないと思う」


 「そうか」


 「でも親父が間違ったことをしてたのかまだ分からない。その仕事、俺が生まれて始まったって言ってた。まずはその話を聞かせてほしい」


 綾人は両親の仕事について何も知らなかった。綾人の出自まで遡るとなれば、まだ聞かされていない過去の話があると想像がつく。和人は背もたれに体重をかけて腕を組んだ。断られるかもしれないと思った綾人だったが、しばらくして和人は話し始めた。


 「姉の千夏が身籠ったと聞いたのは大学院に通ってる時だった。その時は陰陽師なんていう古臭いものを継ぐつもりなんてなくて、親父と言い合いになった挙句大学に入学して薬学部の博士課程まで逃げていた。姉の話は喜んだよ。それでもし男の子が生まれてくれたら当主を継ぐ必要がなくなるから。何度か姉と電話をした時には、生まれてくる子が本家からの圧力に晒されないよう協力してほしいと言われていたんだけどね」


 「千夏って綾人の?」


 「うん。生みの親」


 「訃報は突然だった。あの時はとても混乱してた。子供はと聞くと無事だと教えてくれたけど、本家は姉のことを悲しんではいなかった」


 分かっていた話ではあるが、その言葉に綾人の喉が詰まる。声も聞いたことのない生みの母親であるが、そんな本家での扱いには怒りがこみあげてくる。それは和人も同じだった。静かに語っているように見えるが、声が震えている。


 「本家では顔も見たことのない遠い親戚まで呼んで激論が繰り広げられていた。砂海家から怪異を出してしまった。綾人をどうするんだと。千夏の遺体は最後まで実家に帰って来れなかった。一族の恥さらしだからと」


 「そんな……」


 「陰陽師家系なんて頭の硬いやつばかりだ。死産だったことにすればいいと言い出す者も出てきた。そんな過激な声を聞いて決心がついた。父親のことは最後まで分からなかったし、このままでは可愛い甥が孤児院に追いやられてしまう。そんなことになったら姉は悲しむだろう。だから父親になることを決めた」


 玲子は想像していなかった悲しい物語に絶句する。綾人は気付くと涙を零していた。命日や墓参りで千夏に話しかける話題はいつも他愛もないことだった。しかし、千夏はそれを嫌がっていたかもしれない。綾人を生まなければ一人寂しく眠ることもなかったのだ。胸が締め付けられ、深呼吸でなんとか心を落ち着かせる。


 「そんな考えを伝えた時の反対はそれはもうすごかった。一応は次期当主の身だったから、余計に家を混乱させるような真似はやめろと。だけど、それに対する返事は知ったことかだ。姉とはそこまで仲が良かったわけじゃない。けれど家族で姉弟だった。大学院に行くときも味方してくれたし、なかば親父から縁を切られていた中でも気に掛けてくれてた。それに、最後に姉の顔を見たときにもそう約束した」


 「母さんは俺が生まれたこと喜んでたかな」


 「当たり前だ。綾人という名前は姉が出産の直前まで悩み抜いて決めたものだと産婦人科の先生が言っていた。色んな人と出会ってその繋がりを大切にしてほしいんだって。もし生きていたらどんなことがあっても綾人を守っていたはずだ」


 綾人は頭を項垂れさせる。すると玲子が背中を優しくさすってくれた。和人も簡単に目元を拭い、綾人の様子を見ながら話を続ける。


 「ただ引き取るとしても、砂海家と勘当して終わりというわけにはいかなかった。家を納得させられないとどこの馬鹿が式神を連れてやってくるかも分からない。だから納得させる必要があった。そこで思いついたのが、妖狐を治す薬を開発するという話だった。ちょうど薬学の博士号が取れる予定だったし、それで綾人を普通に戻せてやれば誰かから悪意を向けられることもなくなる」


 「そう、だったんだね」


 「親父に掛け合って、裏社会と秘密裏に協力関係を作ることができた。もともと裏社会と繋がってた製薬会社に研究の場を作って、共同で妖狐、そして不老不死の薬の開発が行われることになった。早苗とはそこで出会った。夏乃が生まれると、夏乃が陰陽師の訓練を受けることになった。綾人に陰陽師のいろはを教えることはできないし、家では誰かが綾人を見張っていないといけない。夏乃にも負担を背負わせてしまった」


 「俺だけが知らないで……」


 「知ってはいけなかったんだ。今日が来るまで。来ないように努力した。だけどできなかった。信濃さんとの出会いが何よりもの救いだ。この環境がなければ今頃綾人はもっと酷く取り乱していただろう」


 和人は玲子に頭を深く下げる。玲子は先程までの尖った態度をなくして呆然としている。時計の針だけが三人に時間の進みを気づかせる。


 「研究からは手を引くことにするよ。この仕事は綾人のためだった。だけど綾人が必要ないと言うなら、やるだけ裏社会の利益になってしまう。研究はこれからも進むだろうが、私たちはここでおしまいだ」


 「ごめんなさい。そんな過去があったと知らず、私とんでもないことを」


 「いや、信濃さんの言葉で目が覚めた。綾人の本当の父親として今日までやってきたつもりだけど、いつも家に居られず肝心なときに手を貸すこともできなかった。本家の思い通りにしたくなかっただけかもしれない。信濃さんにどうかお願いしたい。できるものなら綾人のそばにいてやってほしい。これから社会はさらに綾人に冷たく当たるだろう。その時に助けてやってほしいんだ」


 「はい。私でよければ」


 「綾人、すまなかった。本家で困ってる時も何もしてやれなかった。姉にも謝らないとな。でないと同じ墓に入れてくれなさそうだ」


 「親父」


 「なんだ」


 綾人は鼻をすすって顔を上げる。一体どれだけの人に助けられて自分はここにいるのか。綾人はそんな幸せな身について考えてみる。生まれた時に母親を失い、砂海家にはひどく嫌われた。しかし、それでも生きていられるのはそれを上回る愛情と親切があったからだと分かっている。ただ、綾人は一つ大切なことを何も知らない。それは生んでくれた千夏のことだった。


 「母さんのこともっと教えてほしい。今まで聞いてもあまり教えてもらえなかったから聞かないようにしてた。だけどもうそんなことできない。数枚の遠い写真でしか顔を知らない。声も知らない。手を握ってもらったのかも分からない。こんなんじゃ、あんまりだ」


 「そうだな。そうしよう。目元がそっくりだってことも伝えたことなかった」


 和人は少し宙を仰いで目を瞑る。ここからは立ち入るべきではないと思ったのか玲子が席を外そうとするが、綾人はその手を握ってもう一度座らせる。この話は是非とも玲子にも聞いていてほしかった。


 綾人と玲子をめぐり合わせたのは千夏の墓参りがきっかけだった。オカルトを笑う綾人であっても、この出会いが千夏の贈り物だと信じたくなったのだ。それからまた時間をかけて、和人が覚えている千夏の全てを教えてもらうことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る