第126話 何かの節目で止まるんだと思ってた
心の中のわだかまりがなくなったわけではない。それでも、これまで触れてこなかった話ができたことで感情を整理する道筋がつく。玲子と再会したあの日、綾人が受け取ったのは拒絶ではなかった。経験がなかったためそう間違えてしまっただけで、玲子は今も綾人を心配してそばに居てくれている。
ねねはそんな献身だけで満足できないのかと言っている。玉藻の代わりを務めようとしているのか、綾人にそんな態度を引き出す情けなさがあるのか。少なくとも、ねねは綾人の態度を良く思っておらず、綾人もそれが単なる嫉妬や怒りによるものではないと分かっている。とはいえ、どんな振る舞いがねねを満足させられるのかも未知数だ。実際、ねね自身も具体的に決めているわけではなさそうだった。
玲子が妖狐として生き続ける限り、誰にもその重荷を取り除くことはできない。玉藻にもできなかったことで、可能性があった酒神はもうこの世にいない。ねねも力不足を痛感していることだろう。そんなことが自分にできるのか。今回の自分勝手は縋っていた希望を打ち砕いたかもしれない。
一方、玲子の想いも等しく扱わなければならないと気が付いたのは、朝、洗面台の前で歯を磨いている時だった。妖狐を知る玲子だからこそ、綾人に手を貸すことができると考えているのかもしれない。具体的に何が出来るのかはさておき、妖狐という存在に理解があって物理的に孤独にさせない力を持っている。綾人にも同じことが言えるものの、結局は女々しくて情けない男である。ねねの冷たい態度もそこに起因していた。
玄関から玲子の声が入ってくる。今日も相変わらず二人で学校に向かうことになっている。自らの環境が全く変わらなければ外の世界も定まった回り方しかしない。口をゆすいでいると、玲子と夏乃の楽しそうな話し声が聞こえてきた。まだそれでいい。そう思った矢先のことだった。
顔を上げた綾人は突然めまいに襲われた。先程まではっきりと映っていた鏡の中の自分が歪み、それを中心に視界全体が時計回りに回転する。それに続いて背筋を冷たい感覚が駆け上がる。最初はねねのいたずらかと思った。しかし、身体はむしろ熱くなっていくばかりで綾人はとうとう腰を抜かす。
朝食が胃の中で固まり、重たくなっていくような感覚に襲われる。思考が脳にこびりついていく不安に駆られる。壊れた視界の中で手のひらを見ると、そこには血流を感じない真っ白い手があった。
何が起きたのか分からない。しかし、それは綾人がそう望んでいるだけで、身体はこの変化を当然のことのように受け入れている。綾人はそこで叫び声を上げた。
「綾人!?」
最初に駆け込んできたのは玲子だった。床に座り込む綾人に寄るなり肩に腕を回す。体調不良を疑われたのか綾人の額に冷たい手が押し当てられた。騒ぎを聞きつけたねねや夏乃も脱衣所の外から様子を窺っている。急に胃の内容物が逆流する。玲子はそれを見ても驚くことなく、綾人を前から抱き締めた。
「大丈夫だから!」
必死に声を掛ける玲子だが、そのほとんどが綾人に届かない。身体に熱がこもっていて、抱きつかれたことで全身から汗が噴き出る。しかし、不快ではなかった。なおも呼吸を乱していると玲子が背中をさすってくれる。
後ろの二人は何が起きたのか分かっていなかった。綾人が大声を上げたかと思えば嘔吐し、玲子はそんな綾人を抱き締めて耳元で安心させるための言葉を呟いている。体調不良の相手にする処置ではないが、これが正しいと信じて疑っていない玲子を押しのけることはできない。
「絶対に一人にしない。話したでしょ?大丈夫だからね」
玲子は綾人に深呼吸を促し、後ろの二人に手だけを動かして指示を出す。混乱している中であるが、ねねは濡らした雑巾を用意し、夏乃はコップに入った水を持ってきた。大きく息を吸おうとした綾人の体が小刻みに震える。
「どう?落ち着いてきた?これで口をゆすいで」
綾人はまだ自分の力で何かを持つことはできない。しかし、焦点が次第に合うようになって目の前の玲子を見つけた。玲子は素手で綾人の口の周りについた吐瀉物を拭ってくれる。綾人が汚いからと頭を動かすと再び吐き気に襲われた。また体が熱くなっていく。
「まだ駄目。安静にして」
「ごめん……」
「いいから」
「兄ちゃんどうしたの?」
玲子だけが事情を察していて、それ以外は綾人も含めて困惑しきっている。夏乃が心配そうに呟くが、玲子は申し訳なさそうにお願いをした。
「綾人は家で安静にしてないといけない。私が面倒を見る。だから夏乃ちゃんは学校に行って」
「でも」
「ちゃんと後で連絡入れる。莉子のことをお願い」
「分かった」
綾人を刺激しないように落ち着いた声を出す玲子であるが、そこには明確な強制力があった。夏乃はそれを聞いてはっと息を飲む。綾人の身に起こった出来事の一端を理解したようで、その場を玲子に任せて後退っていった。
「私は?」
「ねねはここの掃除して。私は綾人を寝かせてくる」
綾人の汚れた服が脱がされていく。最後に自分の上着も洗濯するよう指示を出した玲子は綾人を背中に担いだ。
「これって」
「私が説明する」
こう言われてしまってはねねに出来ることは一つしかない。雑巾を広げて床に膝をつき、綾人が汚した脱衣所の掃除を始めた。
玲子が階段を上っている間、綾人はまだ不快な感覚と格闘していた。しかし、玲子の背中は落ち着く。誘惑に負けて頭を首筋に預けると玲子が囁いた。
「落ち着いてきた?」
「ごめん」
「そんなの聞いてない。身体の具合は?」
「気持ち悪い」
「横になれば良くなるはずだから」
綾人の部屋に入ると玲子は適当に服を見つけてそれを渡してくる。仕舞ったばかりの布団が広げられて、玲子に手を差し出された綾人はそれを断って自分の力だけで横になった。
「急に、何でこんな」
「……体調が悪くなる時は誰にでもある。何か飲み物取ってくるね」
「待って!」
無意識に呼び止めてしまう。玲子は頷いて布団の隣に座る。めまいは大分良くなってきている。玲子の据わった瞳がくっきりと見えた。
それから二人は無言のまま見つめ合う。玲子は綾人以上に綾人の身体に起きたことを理解している。曇る頭で考えても結論に辿り着くことができるほど単純な話なのだ。ただ、声に出すことが怖かった。
「震えなくたっていい。私がいるでしょ?」
「やっぱり、そうなんだ」
「昨日の今日で私も驚いてる。でも、これが始まり」
綾人は天井を凝視して口の中を噛んでみる。玲子から告げられたとなれば逃げ道はもうない。その分、受け入れるまでの時間を短くできた。
「時間、止まったんだ」
「離れてた時も綾人にいつこの日が来るのか気になってた」
当然怖さはある。身体に違和感が残り続けていて、それはこれまでに経験したことのない感覚なのだ。これが玲子が前に言っていた特有の反応のようだった。受け入れると身体は楽になっていく。玲子がそばに居ることの意味が大きい。
「急なんだね。何かの節目で止まるんだと思ってた。誕生日とか、元旦とか」
「私の時は自分の年齢も暦も分からない中だったから、綾人がそうだったのならそうなのかも。考えるだけ無駄なんだよ」
「……うん」
玲子は布団の中に手を潜らせて綾人の指を握る。明確に妖狐の謎に立ち向かうことを否定している。
「ゆっくり休んで。病気じゃないからすぐに良くなるはず。でも頭は使わないで」
「こんなことがあってそんな」
「私からの助言。深く考えるだけこの呪いは心に浸食してくる」
全てを見てきた玲子が説得する。確かに、妖狐という存在への振る舞い方はそれが最善なのだろう。しかし、簡単なことではない。玲子がいるから冷静でいられるのであって、綾人は今もこの不可解な状況に叫びたい衝動を抑えている。
「おやすみ」
ただそれも最初の内だけで、玲子の手の感触を確かめていると知らない間に眠ってしまった。その浅い眠りの中で見た夢は現実と全く違って楽しく、隣には玲子がいた。
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