第22話 もうがまんできないの!

 少し不機嫌な玲子れいこを連れて帰宅すると、案の定夏乃かのはお腹を空かせて待っていた。綾人あやとは飛んでくる文句を避けながら急いで料理に取り掛かる。その間、リビングでは夏乃が玲子の愚痴を聞いていた。


 夕食の準備が整うと三人は席に着く。夏乃のおかげで玲子の機嫌は少しだけマシになっている。夏乃が常に玲子の味方でいることにまだ変わりはない。


 「はいこれ、兄ちゃんにね。一応バレンタイン」


 「……ありがとう」


 綾人が箸を持った矢先、夏乃から包みが手渡される。玲子を気にしながら受け取った綾人だったが、目が合った瞬間にむっとされた。


 「さすがに夏乃ちゃんには嫉妬したりしないから」


 「だったらいいんだけど」


 「いやあ、配ってたら余っちゃってね。私はチョコレートそんなに好きじゃないから」


 夏乃の説明を聞きながら包みを開けていく。玲子から受け取ったものに比べて見た目が少し異なっていた。


 「玲子と一緒に作ったんじゃないのか?なんか違うように見えるけど?」


 「当たり前でしょ?玲ちゃんが作ったのは兄ちゃんへの特別品なんだから。これはその失敗作」


 「玲子の失敗したやつを配ったのか?」


 一見失敗しているようには見えないが、そのように聞かされると何か問題のように感じる。ただ、夏乃は適当に笑うだけだった。


 「友達と交換する分には何の問題もないよ。それに、玲ちゃんのは愛情っていう調味料が入ってて少し違ってたでしょ?」


 「おい、やっぱり何か変なもの入れてたのか?」


 夏乃の証言を得て、綾人はもう一度玲子を追及する。しかし、玲子は箸を手に持ったままどこか遠くを見つめて固まっていた。


 「……玲子?」


 「あ、何の話だった?」


 「玲ちゃん、やっぱりちょっと顔赤いよ」


 「どうしたんだ?」


 夏乃が玲子の心配をして、気になった綾人も顔を覗き込む。夏乃の言う通り、顔全体が火照っているようだった。


 「さっきリビングで話してた時も少し顔が赤かったの。その時は大丈夫って言ってたんだけど」


 「風邪でも引いたのか?熱は?」


 「どれどれ?」


 夏乃が手のひらで玲子の額を触る。その瞬間、玲子は目をキュッと閉じて肩を震わせた。


 「少しあるかも」


 「二百年以上生きてても熱は出すんだな。風呂はシャワーだけにしておいた方が良いぞ」


 「大丈夫だよ」


 「大丈夫じゃない顔してる。今日は夏乃の部屋でいいから早く寝ろよ。もし本当にしんどくなったらすぐに言って」


 「……ありがとう」


 確かに今日は少し寒かった。それに、身の回りが落ち着いて緊張の糸が切れたことが原因とも考えられる。弱々しい玲子は余計に可愛い。いつもこれだけ大人しければと思いながら綾人は片づけを始めた。


 玲子を寝かせた後、夏乃が風呂に入っている間に綾人は今日貰ったチョコレートをこたつの上に並べる。綾人の人生でこれほど多く貰ったことはない。少し緊張しながらそれぞれを見比べた後、有紗から受け取った箱を最初に手に取った。


 あれから考えてみても、有紗との接点は何も見い出せなかった。玲子が強引に開封していたため箱の四隅は少しへこんでいる。


 中には綺麗に成形されたチョコレートが整然と並んでいた。一か所の隙間は玲子が食べた箇所である。玲子は溶かして固めただけだと言っていたが、よく見てみるとそうではない。冷やした後に何かで削って模様まで施されていたのだ。


 知らない人から貰った物は基本的に口にすべきではない。しかし、玲子が先に食べていたこともあって、綾人は一粒をつまんで取り出した。


 「いただきます」


 数秒間それを眺めた後、ゆっくりと口に運んでいく。しかし、不意に誰かからの視線を感じてすぐにその動きを止めた。廊下に繋がる扉の陰に誰か立っている。それは髪をゆらゆらと揺らしてリビングを覗き込んでいる玲子だった。


 「なんだ、起きてたのか」


 「……あやと」


 少し気まずくなった綾人は持っていたチョコレートを一旦元の位置に戻す。玲子は壁伝いにゆっくりと近づいてくる。明らかに夕食時と雰囲気が違っている。


 「……あやと、あつい」


 「だいぶ熱が出てきたのかもしれないな」


 裸足の玲子は時折足の裏を自分のふくらはぎに擦り付けている。フローリングが冷たいのかもしれなかった。


 「あやと」


 「分かったから。大人しく寝てないとダメだろ?喉が渇いたのか?」


 「あつい。あついよ、あやと」


 そう言って玲子はフラフラと綾人の隣にへたり込む。顔は真っ赤に紅潮していて視線は定まっていない。寄りかかってくるその体も熱を帯びていた。


 「酷くなってるな。ちょっと触るぞ」


 「ひゃっ!あやとぉ!」


 綾人が額に触れた瞬間、玲子が体をのけ反らせて艶かしい声を出す。綾人は驚いて拳一つ距離を取った。


 「……玲子?大丈夫か?」


 「あやと……あやと」


 綾人が声をかけても、もうまともに反応してくれない。ゆっくりとにじり寄ってくる玲子が見つめるは、綾人の瞳の奥だった。


 「おかしくなったのか?玲子?」


 「あやと!」


 危険を察知した綾人がこたつから抜け出そうとした瞬間、玲子の両手が綾人の肩を掴んで押し倒す。逃げることに失敗した綾人はのしかかってくる玲子を見つめるしかできない。玲子は綾人に跨ってにっこりと笑った。


 「あやと、すきだよ」


 その一言と同時に玲子の頭が落ちてくる。何が起きているのかまるで分らない。鼻先までお互いの顔が近づいて、綾人はようやく抵抗を始めた。


 「やめろ!どうしたんだよ!?」


 玲子の力は尋常ではない。間近で壊れた表情を見ていると恐怖でおかしくなってしまう。


 一人ではどうすることもできない。綾人は慌てて大声で助けを求めた。


 「夏乃!来てくれ!大変だ!」


 「……えー?なんて?」


 遠くから夏乃の腑抜けた声が聞こえてくる。浴室まで声がちゃんと届いていない。


 「夏乃!急げ!」


 玲子の顔はなおも接近していて、このままでは取り返しがつかなくなる。綾人は叫び続けた。


 「あやと、あやと……あやと」


 「も、もう無理だ」


 玲子を押し返す腕が限界を迎える。扇情的な玲子を目の前に諦めることも脳裏をよぎる。そんなとき、ようやく脱衣所の扉がガラガラと開いた。


 「さっきからうるさいなあ。何してるの?」


 バスタオルで髪を拭きながらパジャマ姿の玲子が出てくる。ただ、目の前の光景を見て固まった。


 「兄ちゃん、なんで襲ってるの!?」


 「馬鹿か!逆だ!早く玲子を剥がしてくれ!」


 玲子の涎が何滴も垂れてきている。開ききった瞳孔に吸い込まれる直前だった。


 「ちょっと、玲ちゃん!兄ちゃんから離れて!」


 駆け寄ってきた夏乃が玲子の胴体に腕を回し、転がして綾人の上から移動させようとする。するとまた、玲子は艶っぽい声を出した。


 「いや!いや!もうがまんできないの!」


 「よっこいしょ!」


 夏乃は自分ごと転がって強引に玲子を引き剥がす。綾人はそれと同時にこたつから抜け出した。


 「そのまま押さえてろ!」


 「あやと、なんで?あやと!」


 玲子は這ってでも綾人を追いかけようとするが、夏乃が力づくで押さえている。昔、柔道を習っていただけはあった。


 綾人は薬箱の中から一つの瓶を手に取ると、二リットルの新しい水を担いで玲子のもとに急ぐ。綾人を見つけた玲子は暴れることをやめる。


 「玲子、これ飲んで!」


 「あやと、あーん」


 玲子が素直に小さい口を大きく開き、綾人は目を背けながら錠剤を何粒か放り込む。その後すぐに水を流し込んだ。


 「飲んだか?口開けてみろ」


 「あー」


 口の中には何も入っていない。それを見て綾人も玲子の拘束に加担した。


 「親父の睡眠薬を飲ませた。もう少し押さえてろ」


 和人は研究職の影響で睡眠障害を抱えており、医師から強い睡眠薬を処方してもらっている。普通であれば玲子も数分で眠りにつくはずだった。


 ただ、玲子が完全に眠りについたのは三十分以上経った後のことだった。寝静まった玲子を布団に運んだ後、綾人は脱力して座り込む。


 「いやあ、玲ちゃん凄かったね」


 「何だったんだ、あれ?」


 「熱が上がりすぎて怖かったのかも。とにかく汗かいちゃったからまたお風呂入って来るね」


 「ああ、なるべくすぐに上がってきてくれ」


 いつ玲子が再び奇行に走り出すか分からない。綾人は目尻に涙をためて寝ている玲子を見つめた。脳裏に焼き付く玲子が今も綾人を魅了している。綾人は大きく深呼吸をしてからリビングに戻った。


 夏乃が風呂に入っている間、綾人はチョコレートを眺めながら玲子の奇行を考えた。学校を出るまでに予兆は何もなかった。しかし、綾人が料理をしているときにはあったという。その間に起った出来事はそんなに多くない。


 そうして、玲子が自転車でチョコレートを食べていたことを思い出した。それ以外は綾人と同じ空気を吸って同じ物を食べていた。違いがあるとすればそれだけだったのだ。


 綾人は有紗から受け取ったチョコレートを皿の上に出し、スプーンの柄で叩き割ってみる。確信があったわけではないが、この時になって有紗の異常性が綾人の考えを補完していく。断面を覗き込んだ綾人は思わず絶句してしまった。


 鮮やかで光沢のある青い結晶がチョコレートから顔を覗かせている。一目見ただけで口にして良い物ではないと分かる。硬さはチョコレートと同じくらいで、一口で食べてしまえば気付くのは難しいかもしれない。


 有紗の無垢な笑顔が脳裏に浮かび上がってくる。それだけで綾人の背筋は凍り付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る