第17話 よくも無視してくれたな?
月曜日の朝、
「それじゃ斎藤先生、お願いします」
「ああ。何かあったら連絡するよ」
「勉強頑張ってきてね」
子供を保育園に預ける親も同じ気持ちなのかもしれない。玲子を斎藤研究室に送った綾人はふとそんなことを思った。玲子と一緒にいることは嫌ではない。しかし、一人になった瞬間に体が軽くなった気がした。
人目につかないよう早めに登校したことで、人気の少ない教室に入る。これは綾人にとって新鮮な光景だった。
「砂海君、今日は早いですね」
荷物を机に置くなり隣の席の瑞歩から声をかけられる。
「まあね。委員長はいつも早いよね」
「いつ電車が遅れるか分からないですから」
「そうだね」
生徒の多くが登校に利用する鉄道はかなりの頻度で遅延が発生する。綾人がなるほどと小さく頷くと、瑞歩は持っていた文庫本を閉じた。
瑞歩と雑談している間に他の学生も続々と集まってくる。本鈴の五分前となって
「おい、綾人。よくも無視してくれたな?」
自分の席に荷物を置いて迫ってきた祐輝の一言目はそれだった。その言葉で土曜日に返信していなかったことを思い出す。
「もう授業始まるぞ。早く座れよ」
「話を逸らすな。幼馴染のこと思い出せたのか?」
「それはもうちゃんと。俺の勘違いだったよ」
玲子の件はあまりにも複雑になってしまった。祐輝にそのことを勘付かせるわけにはいかず、綾人は話を逸らすことに尽力する。しかし、祐輝は予想以上にしつこかった。
「で、写メは?」
「ないよ」
「嘘つけ。隠してるんだろ?そんなに可愛かったのか?」
「近いって」
綾人は近づく祐輝を強引に押し返す。玲子は同じ敷地内にいるため、些細な特徴さえ教えるわけにはいかない。
「写真くらいいいだろ?ケチだな」
「……何の話ですか?」
祐輝の扱いには慣れている。綾人が堂々としていられるのはそれが理由だった。しかし、瑞歩が話に参加したことで雲行きが怪しくなり始める。
「委員長聞いてよ。こいつ昔の幼馴染を忘れてたらしくてさ、俺の助言のおかげで思い出したのにその子の写メを見せてくれないんだよ」
祐輝は自らの助言が適切だったと勝手に言い張る。綾人は鼻で笑ってあしらうが、間違ってはいない。
「それって、女の子なんですか?」
「そうそう。すこぶる可愛かったんだだろうな、綾人がこんなに拒むから」
「本人の承諾なしにそんなことできないだろ?」
綾人はモラルを武器に対抗する。ただ、瑞歩が首を傾げたことで背中に冷や汗が流れた。
「でも、可愛かったんですよね?」
「……少しだけな」
「やっぱり!早く見せろ!」
思わず肯定してしまったことで、祐輝からの圧力が再び強まる。そうしていると、教室に担任が入ってきた。
「先生来たぞ。早く戻れって」
「くっそぉ」
もう一度力を込めて押し返すとようやく祐輝は引き下がっていく。話に入ったばかりの瑞歩も煮え切らない顔で前を向いた。窮地を脱した綾人は一息つき、その後はつまらない授業に耳を傾けた。
昼休み、綾人はいつも通り祐輝と昼食を取った後、瑞歩と机を囲んで話をしていた。昼も追及はあったが、祐輝一人だったため問題はなかった。
「これが全体の収率でこっちが精製だけでの収率だから……」
今週の学生実験で綾人と瑞歩はペアだった。今はレポート提出に向けたデータの共有が行われている。
「ごめんね。私が途中でこぼしちゃったから」
「大丈夫だよ。測定するだけの量はあったし、収率が落ちた理由も書きやすくなった」
実験操作で瑞歩は小さなミスをしてしまった。綾人は問題ないと笑いかける。
「私、前もミスをしてて、実験が下手なんじゃないかなって思うんです」
「そんなことないよ。俺だって濾過のやり直しで面倒なことになったし」
瑞歩は真面目で賢いが、一瞬気が抜けることがある。ただ、瑞歩に頼りっぱなしだった綾人に比べれば立派なことは間違いない。予習の度合いが桁違いなのだ。
「でも、これで減点されたりしたら」
「ないない。そんなことで減点されてたら祐輝のペアはいつも酷い評価になってるよ。祐輝の評価が低いのは純粋にレポートを適当に書いてるだけだし。むしろ俺が迷惑かけてて申し訳なく思ってるくらい」
「全然そんなこと。砂海君との実験は楽しかったです」
「お世辞はいいよ」
「本当です。砂海君は優しいから話してて楽でした」
瑞歩の口から出る言葉はどんなものであっても嘘に聞こえない。玲子とは違うタイプの可愛らしさに綾人は思わず照れてしまった。年齢はともかく、玲子より大人びている瑞歩の方が綾人の好みである。
ただ、男子が多いこのクラスで瑞歩が告白されたという話は聞いたことがない。その理由は他校に彼氏がいるという噂が出回っているからだった。
「じゃあ、お互いレポート頑張ろう。分からないことがあればまた聞くかもしれないけどよろしく」
「いつでも聞いてください」
瑞歩は誰に対しても優しい。委員長に相応しい心の広さに綾人は感謝した。
それから時間が経った放課後、帰り支度をする綾人に再び祐輝が近づいてきた。気付いた瞬間に睨んで追い返そうとしたが効果はない。
「なんだよ、変な顔して」
「何回聞いたって一緒だからな」
祐輝の単純な思考は手に取るように分かる。しかし、祐輝はへらへら笑って首を振った。
「もうそのことはいいや。そんなことより今からカラオケ行こうぜ。電子科の奴に誘われててさ」
「あー、今日は無理だな」
綾人は即答する。それを受けて祐輝は小さく頭を下げた。
「しつこく聞いて悪かったよ。もう聞かないからさ」
「そのこととは関係ない。今日は用事があるから無理」
綾人はこれから玲子を迎えに行かなければならない。斎藤に指示されているため、すっぽかすことなどできなかった。
「そっか、それは残念。だったら幼馴染のこと教えろよ」
「うるさいなあ。俺は先に帰るからな」
「ああ、また明日」
綾人は面倒事から逃げるように足早に教室から出る。祐輝がついてきていないことを確認した後、その足を斎藤の研究室に向けた。
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