第16話 勝手に襲ったりしないでよ?
斎藤の研究室で話を纏めて帰宅したのは夕方のことだった。家には誰もおらず、
「ねえ、本当に家が見つかるまでここで生活していいの?」
「そう決めたからな。
「分かった」
本当に分かっているのか、玲子の返事は軽い。凍える部屋に暖房をつけた綾人もこたつに潜りこんだ。
日が落ちてすぐ、夏乃はヘトヘトになって帰ってきた。先に汗を流したいと夏乃は風呂に直行し、玲子も合わせて入ることになる。聞こえてくる艶めかしい声はテレビの音で相殺された。
「そっか、上手くいったんだ。よかったね」
「うん。綾人が言ってたよりも良い人だった。あの先生」
三人でこたつを囲みながらこの日の進展を確認する。今日も夏乃の寝間着を身に纏っている玲子は、しっとりと濡れた髪から良い匂いを放っている。綾人は洗面所からドライヤーを持ってきて手渡した。
「とりあえず軌道に乗ったって感じだな。次はここで生活する間のルールを決めよう」
「ルール?この家にそんなものないでしょ?」
夏乃が目を細めて冷たく反応する。しかし、正常な関係を保つためには互いの距離感は重要になる。必要不可欠な話し合いだった。
「まずは玲子の寝る場所だけど、夏乃の部屋でいいな?」
「綾人と一緒はだめ?」
「駄目に決まってるだろ」
「うるさくしないなら私はいいけど?」
端から二人の意見に耳を貸すつもりなどない。綾人がこんなことに真剣になるのは、女性の扱いに慣れていないこともあるが、玲子に対する他人感が抜けないことも原因の一つだった。玲子の顔はまだ見慣れない。
「食事当番はどうする?」
「今まで通りでいいんじゃない?玲ちゃんに仕事を押し付けるのは嫌だし、二人も三人も変わらないから」
「そうだな。それじゃそういうことで……」
「待って」
今日の食事当番は綾人である。全員が空腹を感じており、早く調理に入らないといけない。しかし、玲子が綾人の手を引き留めて自信気な面持ちで立ち上がった。
「私が作りたい」
「気を遣わなくたっていいよ。お客さんのつもりでいていいから」
「そうじゃなくて!」
玲子がぶんぶんと首を振る。綾人には玲子の反応を理解できない。
「私が料理できること二人とも知らないでしょ?良い機会だから胃袋を掴もうと思って」
「それは名案だね!」
玲子の計画を聞いて夏乃が賛同する。面倒な協調性に綾人はため息をついた。
「そこまで言うなら作ってよ。美味しかったらローテーションに入っていいからさ」
「絶対合格する自信ある。少なくとも綾人よりおいしくないとね」
玲子は腕にかなりの自信があるらしい。自分の仕事が減ることに文句を言うつもりはない。綾人は再び椅子に座って今日の当番を託すことにした。
「今日は何を作るつもりだったの?」
「カレーか炒飯か焼きそばか……」
「今だから言うけど、いつも同じのばっかでもう飽きたよ。何か新しいの練習して」
「時間がない日のために簡単に作れたり、作り置きできる料理を選んでるんだ。夏乃は時間をかけすぎるだろ」
玲子の質問から兄妹喧嘩が勃発する。玲子は間に割って入って両手を打ち合わせた。
「ベタだけどカレーの具材があるなら肉じゃがにしようか?好きな人を落とすのに一番の料理だって言うし」
「お願いー!年明けから何回カレーを食べさせられたか覚えてないの」
「本当に作れるの?」
「当然。すぐ作るから待ってて」
得意げな顔をする玲子は身軽に台所へと向かう。道具や調味料の場所を伝えるために夏乃も移動し、綾人は再び一人となった。ニュース番組を見ていても全く面白くない。気が付いた時にはうたた寝をしていた。
小一時間後、綾人は玲子の声で目を覚ました。その途端、食欲を刺激する匂いが鼻をついてくる。こたつの上には料理が並べられていた。
「待たせちゃってごめんね。冷めないうちに食べよう?好みの味だといいんだけど」
最初の威勢はどこにいったのか、今の玲子は少し不安げな顔をしている。特別見栄えが良いというわけではない。家庭的な料理が並んでいた。
「美味しそうだ」
「食べてみて」
家で夏乃以外の料理を食べるのは久しぶりで、手を合わせてから箸を持つ。メインは肉じゃがであり、白米と味噌汁、お浸しが添えられていた。
「普通に美味しいじゃん。これが年の功ってやつ?」
「その言い方はやだなあ。料理は得意なの」
「本当だ。お母さんよりおいしい」
夏乃も一口食べて失礼な表現で褒める。とはいえ、早苗の手料理が微妙であることは砂海家の常識である。
「合格だった?」
「文句なしで」
「教えてほしいくらい」
綾人と夏乃は手放しで賞賛する。玲子はそれを聞いて喜んだ。
「家事は全般的にできるからいつでも頼りにして」
「玲ちゃん、もういつでもお嫁さんに行けるね」
「うん。後は相手次第なんだけど」
「これから探していかないとな」
綾人は仲間探しを念頭に不用意な考えをあしらう。玲子と夏乃に睨まれてしまったが、今はそう言って逃げるしかなかった。
明日からは面倒な平日が始まる。しかし、食器を片付けているときも風呂に入っているときも、頭は玲子のことでいっぱいだった。胃袋だけでなく頭の中まで握られていることに気付いて、余計に考えをこじらせていく。
日付が変わるまでに三人は就寝することになった。一緒に階段を上がり、先に綾人が自室に入ろうとする。すると、玲子がそんな綾人の手首を弱く掴んだ。
「今日はありがとう」
「ああ。明日からはちゃんと先生の役に立つように」
「うん、頑張る」
「それじゃ、おやすみ」
玲子と多くを経験した気でいる綾人だが、知り合ってまだ二日しか経っていない。そんなことを考えると、目の前に寝間着姿の玲子が立っている状況が信じられなかった。
「おやすみ……勝手に襲ったりしないでよ?」
「はいはい」
綾人は冗談を適当に聞き流して部屋に退散する。玲子という名を初めて聞いた時はこんな未来を全く予想していなかった。明日からは未知の生活が始まる。頭痛を感じた綾人は睡魔に身を委ねることにした。
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