第15話 ロマンチストに悪人はいないからね

 「今から先生には不思議なものを見てもらいます。でも決して危ないことではないと約束します。いいですか?」


 「どうぞ」


 「玲子、くれぐれも慎重に」


 斎藤さいとうはどっしりと椅子に座っており、手に持つコーヒーカップからは湯気がまっすぐ立ち上がっている。玲子れいこはそんな斎藤をじっと見つめた。


 「……私の顔に何かついているかい?」


 「先生、一体手に何を持っているんですか?」


 「手?ただのカップだけど……」


 斎藤の視線がゆっくりと下がる。ただその瞬間、斉藤はカップを放して両手を胸の前まで引っ込めた。床に落ちたカップが音を立てて割れる。


 斎藤が持っていたのはコーヒーカップではなかった。正確には、持っていたのはコーヒーカップだったが、落ちて割れてしまう瞬間までは蛇に似た真っ黒な化け物のように見えていた。玲子は薄ら笑いを浮かべている。


 「……さっきのは?」


 さすがと言うべきか斎藤は悲鳴を上げなかった。しかし、その瞳は恐怖で揺れている。


 「驚かせてしまってすみません。先生は私が作り出した幻影を見たんです」


 「幻影?」


 斎藤はしゃがみ込んで割れたカップを集める。綾人あやともこぼれたコーヒーをティッシュで拭き取った。


 「私にはこういう力があるんです。綾人は人に見せることを嫌がっていたんですけど、先生がなかなか信じてくれなかったので」


 「何かの見間違いだったのかな。……砂海君は見たかい?」


 「ええ、俺はしっかりと」


 「そうか……お互い疲れているのかもしれない」


 斎藤はなおも玲子の能力を認めようとしない。一瞬だけ目に映った不気味な物体を受け入れられていないのだ。斎藤のそんな態度に玲子の顔は歪んだ。


 「先生、欠片を全部置いてください」


 やや強い口調で指示が飛び、その声に斎藤だけでなく綾人も肩を震わせる。ただ、綾人が目を合わせると玲子はにっこりと笑った。


 「今度はちゃんと見ててくださいね」


 「……ああ」


 斎藤は言われた通りにカップの残骸を注視する。次の瞬間、欠片はひとりでに一か所に集まり、割れる前の状態に戻っていく。この光景には斎藤も言葉を失った。


 「……信じてもらえました?」


 「玲子ちゃんは魔法でも使えるのかい?」


 「魔法ではありません。これもただの幻影で本当に直ったわけじゃないですから。私が意識を外すとほら」


 玲子の掛け声とともに再びカップがバラバラと崩れる。正しくは崩れたように見える。誰もこの現象を解説できない。


 「これが玲子の不老の証明にならないことは分かってます。ですけど、こんな不思議が実在する以上、信じられないからと否定するわけにはいきません」


 「……そうかい。それで、二人は私に何を求めていたんだったかな?」


 斎藤の声はやや震えている。説明は綾人が担った。


 「玲子の孤独を解消するためには居場所が必要です。ただ、平日は学校があるので俺はどうにもしてあげられません。なので、先生のところにいられないかなと。もちろん、できることは何でも協力させます」


 「そう簡単に言ってくれてもね……」


 斎藤が頭を掻く。やはり簡単に決められることではないようだった。


 「難しいようなら諦めます。今日のことを他言しないと約束してくれれば面倒はかけません」


 綾人はこれが脅迫ではないことを伝える。そうなった場合は他の策を考えれば良いだけなのだ。ただ、可能性が潰えようとすると玲子の表情は暗くなる。


 「……はっきり言って簡単じゃないよ。部外者を研究室に入り浸らせることはね」


 「そうですよね、分かっています」


 「ただ、不可能というわけでもない」


 割れたカップを処理し終えた斎藤が新しいカップを取り出す。半分諦めていた綾人はその言葉に期待した。


 「部活の外部指導員という立場なら校内に入る口実は作れるだろう」


 「外部指導員……ですか?」


 「ああ。テニス部やバドミントン部におばさま方が教えに来ることがあるだろう?それと同じだよ」


 綾人は確かにそんな人がいることを知っている。ただ、問題は何の外部指導員になるのかということだった。


 「それで部活は……?」


 「新しく部活を立ち上げることになるだろうね。玲子ちゃんを不特定多数の前に立たせたくないだろう?」


 「まあ、そうですね」


 真剣に考える綾人に斎藤がにやにやと笑いかける。玲子は黙って会話を聞いていた。


 「それで、どんな部活を立ち上げるんですか?」


 「そうだなあ。歴史部なんてどうだろう?砂海君の意見が聞きたい」


 「俺の、ですか?どうして?」


 「どうしてって部員は必要だろう?私が顧問で玲子ちゃんが外部指導員なら君が部員になるしかない」


 斎藤の言い分はもっともである。しかし、こればかりは面倒な未来しか想像できない。綾人は眉間にしわを寄せた。


 「形式上ですよね?」


 「新入生の勧誘はできないだろう。でも……」


 言葉を濁した斎藤が玲子を一目見る。綾人も目を向けると玲子は何か言いたげな顔をしていた。


 「私……部活してみたいです」


 「分かってると思うけど、作ったとしても玲子は先生なんだよ?」


 「分かってる。でも興味ある。私、部活どころか学校に通ったこともないから」


 「それならやってみないとね」


 話を聞いて悲しさを感じてしまうのは、玲子が過ごしてきた時間が全く想像できないからである。斎藤が優しく玲子に声を掛けたのも、綾人と同じような気持ちになったからかもしれない。玲子は嬉しそうに頭を縦に揺らした。


 「協力してくれるんですか?」


 「何とかしてみるよ。人助けは嫌いじゃないし、なにより玲子ちゃんの知識に興味があるからね」


 「……怖くはないんですか?」


 協力は綾人らにとって朗報である。しかし、斎藤に人並み以上の胆力があったとしても、玲子の力は簡単に受け入れられるものではない。それは綾人も同じである。


 「もちろん怖いよ。でも、ロマンチストに悪人はいないからね。やけに複雑な事情だったけど、玲子ちゃんの砂海君に対する気持ちは本当なんだろう?」


 「もちろんです。私は綾人が好きです」


 「可愛いじゃないか。さっきは意地悪を言ってごめんね。玲子ちゃんのことはまだ全然分からないけど、これから教えてくれればいい」


 「はい。私も驚かせてしまってすみません。カップも割ってしまって」


 玲子と斎藤はそれぞれ笑顔を交わしている。絶望視していた道が開かれたことで綾人は一安心した。


 「明日からってことになるのかい?」


 「できればお願いしたいです。ただ、手続きはそんな早く進みませんよね?」


 「構わないよ。玲子ちゃんがここを訪れても不審に思う人なんていないだろう。見た目だってここの生徒と変わらない」


 「いいんですか?」


 「私も玲子ちゃんを色々と知りたいからね。人となりを理解して研究の話だってしたい。……それより砂海君こそどうするんだい?」


 斎藤はすでに玲子を受け入れた後の計画を立てつつある。綾人は少し考えた後に自分にできることを伝えた。


 「送り迎えをします」


 「いやいや、部員なんだから活動してもらわないと」


 「……歴史はあまり興味ないんですけど」


 綾人は正直に告白する。部に名前を貸すことに抵抗はないが、不必要な勉強はしたくないのだ。ただ、その言葉に斉藤が不満をたれた。


 「なんてこと言うんだい。玲子ちゃんをもっと知りたくないのかい?」


 「それは……」


 「ということで放課後は私の部屋に来たまえ。何か仕事を課してやろう。ちなみに日本史と古文の成績は?」


 「ともに欠点スレスレでした」


 「そうかい。となると部屋の掃除係だな」


 「嫌ですよ」


 あまりにも雑な扱いに綾人は文句をつける。ただ、すかさず玲子が補足した。


 「でも先生、綾人はまともに掃除もできません」


 「無能だな」


 「ひどい!」


 斎藤の辛辣な言葉に玲子がくすくすと笑う。綾人はそれを見て頬を緩ませる。玲子の笑顔は可愛いのだ。


 「やっぱり砂海君の仕事は送り迎えだけにしよう。ここで乳繰り合われては目障りだからね」


 斎藤からため息が漏れる。綾人は笑って誤魔化すしかなかった。

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