第4話 私のこと忘れちゃったの?

 トイレの中で昨日の出来事を振り返ってみても、玲子れいこの手掛かりは何一つ得られなかった。再会を喜ぶ両親の脳裏には玲子の幼少期が浮かんでいるに違いない。予想以上に玲子が綺麗だったためか、綾人の焦りは大きくなるばかりだった。

 「ね、綾人あやとも覚えてるよね?」

 「なんのこと?」

 リビングに戻るなり玲子から話題を振られる。綾人は動揺を隠しつつ椅子に座ってお茶を少し飲む。どうやら思い出話に花を咲かせていたらしい。

 「綾人が家の鍵を失くして夏乃かのちゃんと助けを求めてきたこと。半べそになってたよね」

 「そういえば、そんなこともあったかな」

 綾人はよく考えることなく適当に返事し、時間を作ってから記憶を探る。そんな間も綾人を差し置いて会話は弾む。

 「私は夏乃に持たせた方が良いって言ってたんだけど、和人かずとさんがそれじゃ可哀想だって言ってね。結局なくしたものだからその後の数ヵ月は夏乃に持たせることになったんだけど」

 「夏乃より頼りないなんて綾人の幼心が傷つくと思ったからな」

 早苗さなえの懐古談に和人が同調し、ちょっとした笑いが生まれる。玲子も可愛らしく微笑んでいる。綾人は苦笑いでその場を乗り切り、眉のしわを無理矢理に伸ばして平常心を保ち続けた。

 綾人が家の鍵を紛失した過去は確かに存在する。自宅から連絡がないことを不安がった早苗が夜に帰ってくるまで、夏乃と玄関前に座っていた記憶がすぐに蘇ってきたのだ。ただ、そうなってしまったのは近所に知り合いがいなかったことの裏返しと言える。何故か過去の出来事が変わってしまっていた。

 「私の知ってる綾人はずっとそんな感じで、頼りないイメージが先行しちゃってるんだけど、今はもう違うのかな?それとも変わらないまま?」

 「あら、そんなイメージがついちゃってるの?」

 早苗が大げさに驚く。綾人は沈黙を決め込んだものの、玲子は楽しそうにすぐさま返答した。

 「もちろん勇気があるところも知ってますよ。例えば、学校の木に毛虫が大量発生したとき、退治してくるって出ていって退治されて戻ってきたこともありましたし」

 「ただ馬鹿だったようにしか聞こえないけど」

 「ふふ、そうですね」

 早苗が訂正すると玲子は簡単にそれを認める。このエピソードは綾人も覚えており、思い出したくない恥ずかしい過去の一つである。玲子がこの話を知っているということは、綾人の近くで生活していた時期が少なからずあったことを意味していた。

 「結局、玲子ちゃんに情けない姿しか見せてなかったなんて。本当に頼りない息子ね」

 「他にもっと話すべきことあるだろ」

 覚悟を決めた綾人は問いただすように玲子に言葉を掛ける。ここで共通の思い出話を聞くことができれば、玲子を思い出すきっかけになると考えたのだ。ただ、玲子はその要望に唸った。

 「うーん。色々あるんだけど何がいいかな?そうだ、せっかくだから綾人からも印象に残ってる話を教えてよ。そしたら綾人が格好良かった話するから」

 玲子はそう言って得意げに笑みを浮かべる。目論見が一瞬で失敗に終わった綾人は、唐突な危機的状況に脂汗をかく。嘘をつけば簡単に気付かれてしまう。その後の顛末を考えると何も言えなくなったのだ。

 「恥ずかしい?」

 「綾人、そんなだから情けないって言われるんだ」

 黙り込んだ綾人に和人が難癖をつける。しかし、どんなに呆れられたとしても今はこうする他にない。何も覚えていない代償だった。

 「もう、しょうがないなあ。それじゃ二人の時に教えてね」

 「あ、ああ」

 「本当に情けない奴だなあ」

 最終的に玲子が笑ってくれたため、どんな言葉も痛くなくなる。綾人は玲子の笑顔に初めて触れるが、綾人の困った表情は玲子の思い出に含まれているのかもしれない。玲子の欠片が残っていなくとも、玲子を悲しませたくないという気持ちが湧き上がる。

 「玲子ちゃんは本当に優しいね。そんなに甘くしなくていいのよ?」

 「仕方ないよね。玲子にとって幼馴染は綾人君だけだったもの。引っ越したあともずっと綾人君の話ばっかりで困ったわ」

 「ちょっと、お母さん!なんで言っちゃうの!?」

 母親に不平を並べるや否や玲子は顔を赤く染め、綾人に対して違うからと必死に弁明してくる。ただ、それを見ても喜ぶことはできない。こんな人に嘘をついて事実を隠そうとしている。そんな自分に嫌気が差したのだ。

 「綾人も玲子ちゃんが引っ越した後は同じだったよね?」

 「そうだった?」

 「せっかくだし、ここじゃ話せないこと話してきたら?そのために部屋の掃除してたんだもんね」

 「そうね、こっちはこっちで話しておくし」

 早苗がしたり顔で提案すると、玲子の母親が賛同する。玲子は上目遣いで様子を窺ってくる。綾人は仕方がないと立ち上がった。

 「掃除しようとしたんだけど、時間がなくて散らかってる。それでもいいなら」

 「全然気にしないよ。昔みたいに一緒に片付けてあげるから」

 「そっか」

 腕に力こぶを作ってみせた玲子だったが、綾人はすぐに目を背けて先に階段に向かう。後ろから和人に声をかけられたものの、玲子の足音を気にして聞き取ることはできなかった。

 これからが正念場である。二人きりの会話を終えても玲子を思い出せないようならば、そのことを正直に伝えるべきだと考えを改める。これ以上玲子を騙すべきではなかった。

 部屋の電気をつけると玲子から小さな笑い声が漏れる。綾人は覚悟を決めた。

 「あの」

 普段通りを装ったつもりが震えた声になってしまう。そんな自分に驚いた綾人はすぐに口を閉じた。

 「まだ緊張してるの?それとも部屋を見られて恥ずかしい?」

 「緊張してるんだよ。どうして玲子がしてないのか逆に気になる」

 立っていると膝が震えてしまいそうで、綾人は慌てて絨毯の上に腰を下ろす。玲子はそんな綾人から拳一つ隣に横座りした。

 「私も緊張してるよ」

 「からかってるだけなんでしょ?」

 綾人は玲子と反対の方向に体を反らす。ふとした瞬間に漂う甘い香りが綾人を惹きつけようとしている。知らない匂いだった。

 「そんなことない。綾人が他人行儀だから。離れ離れの時間が長かったからかな?また最初からやり直しになっちゃうの?」

 綾人が距離を取ると、玲子は露骨に肩を落として顔を俯かせる。黙っていると空気はどんどん重たくなっていく。先に耐えられなくなったのは綾人だった。

 「玲子がそう思ってくれてるなら大丈夫だよ」

 「本当?やっぱり優しいね。間違ってなくてよかった」

 「どうしたの?」

 突然、玲子が不可解なことを口走る。ただ、綾人が首を傾げるよりも先に、引き締まった玲子の顔が眼前に迫った。突然のことに綾人の息は止まる。

 「私ね、綾人とこうして話すのずっと楽しみにしてた。だから本当のことを教えてほしい」

 「なに?」

 「私のこと忘れちゃったの?」

 優しい目つきをしているが、どこかに心を切り裂かんとする鋭さが潜んでいる。心臓が一瞬のうちに走り込んだ後のように速くなる。痙攣した口では言葉を紡ぐことができなかった。

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