第3話 玲ちゃんの前でそんなこと言わないでよ?

 「兄ちゃん、お弁当は?」

 「すぐできるから待って」

 祐輝に問題を打ち明ける数時間。綾人あやとは催促にイライラしながら弁当箱に白米をよそっていた。弁当当番の綾人が寝坊してしまった。そのせいで夏乃かのは朝練を諦めることになり、その文句が飛んできていたのだ。

 「はやくはやく、このままじゃ学校にも遅れちゃうよ」

 「朝練で早起きしたんだったら、自分で作るなり俺を起こすなりしたらよかったのに」

 寝坊は綾人の失態だが、問題にいち早く気付いた夏乃が適切な対応をしていればここまで切迫することはなかった。ただ、夏乃は当然のように反論する。

 「ゆっくり寝てたから昨日のうちに作ってたのかなって思ったの。包むのは自分でするから」

 「はいはい。後は全部しておくからもう行っていいぞ」

 夏乃は弁当を受け取ると素早く風呂敷に包んで鞄にしまう。綾人はそれを横目に家の戸締りを始めた。綾人の方が始業時間が遅く、まだ幾分か時間は残されている。夏乃は自転車の鍵を握るなり慌ただしく玄関に向かった。

 ただ、そんな忙しいときに限ってほとんど置物と化していた家の固定電話が鳴り始める。近くにいた夏乃が一番に反応して受話器を握った。

 「もしもし」

 夏乃が作った声で応対を始める。しかし、相手は知った人だったようで、すぐにいつもの地声に戻った。夏乃に時間がないと分かっている綾人は身振りで電話の交代を提案する。すると、夏乃は素直に受話器を差し出した。

 「お母さんが兄ちゃんに代わってだって」

 「母さんが?」

 時計を確認した綾人は予想外の相手に驚く。両親は同じ職場で働いており、仕事の都合上あまり家に帰ってこない。基本は職場に寝泊まりする生活で、本来ならばこの時間も忙しくしているはずだった。

 「もしもし?」

 「あ、綾人?ごめんね、こんな時間に」

 「いいけど」

 早苗さなえからの珍しい電話に綾人は首を傾げる。隣では夏乃が興味津々に会話を聞こうとしていて、綾人は手で払って登校を促す。しかし、夏乃は全く聞き入れないばかりか、強引に顔を近づけてきた。

 「週末の予定で話があったんだけど」

 「週末?母さんらは仕事なんでしょ?」

 月に数日しかない両親の帰宅日は全てカレンダーにメモされている。綾人が確認したところ、今週末は該当していなかった。

 「急だけど休みをもらったの。だから土曜日は和人かずとさんと一緒に帰るから」

 「お母さん家に帰ってくるの!?」

 朗報を聞き取った夏乃がその場で小さく飛び跳ねる。物心がついた頃から両親が家にいない生活が当たり前だった。高校生になって独り立ちを考える年頃になっても、家族全員が顔を合わせられることは心嬉しいに決まっていた。

 「それは良いんだけど、どうしてまた急に?」

 「実は家にお客さんが来ることになったの」

 「お客さん?」

 聞き慣れない言葉に綾人は問い返す。砂海家に来客があったことなど数えるほどしかない。家族以外で出入りするのは祖父母くらいだが、それも最近はなくなっている。夏乃も不思議そうにしていた。

 「それって誰?仕事の人?」

 「違う違う。信濃さんが来るの。久しぶりよね」

 綾人も知っているという前提で信濃という名前が出される。しかし、それは聞き覚えのない名前だった。

 「信濃?誰それ?」

 「信濃玲子しなのれいこちゃんよ。玲子ちゃんの家族が久しぶりにこっちに来ることになったらしくて、せっかくだから会おうってことになったの」

 「玲子?夏乃の知り合いか何か?」

 綾人は疑問に思いながら夏乃と顔を合わせる。するとそこには不満気な表情の夏乃がいた。綾人が首を傾げると夏乃も首をひねる。

 「何言ってるの。小学校まで隣のアパートに住んでた玲子ちゃんじゃない。いつも一緒に遊んでたでしょ」

 「誰が?」

 「綾人が。綾人の幼馴染なんだから当たり前でしょ?」

 「は?」

 その瞬間、時が止まる。すぐに思い出そうとするが、時間がないことも相まって人物の特定には至らない。親の事情で名前が変わってしまったのかとも考えた。

 「玲子って誰?そんな幼馴染いたっけ?覚えてないんだけど」

 「そんなわけないでしょ?六年間ほとんど毎日一緒だったんだから。中学校に上がるときに引っ越しちゃったけど、それまで仲良くしてたの覚えてるでしょ?」

 「いたっけなあ」

 綾人は天井を見上げてもう一度思い出そうとする。しかし、玲子を知らないだけでなく、隣に知り合いが住んでいたという事実さえ思い出せない。しばらくすると早苗から溜息が漏れた。

 「もういいわ。夏乃に代わって」

 どうやら呆れられてしまったらしい。もはや遅刻は免れられない。それでも、夏乃は嬉々として受話器を受け取った。

 綾人は笑顔を絶やさない夏乃を少し離れたところで眺め、その間も玲子という名前を思い出そうと必死になった。六年間も一緒にいた幼馴染を忘れるなどあり得る話ではない。誰かと勘違いしているかもしれないと知り合いを一人ずつ思い出していく。

 電話を代わってから数分後、夏乃がようやく受話器を置く。久しぶりに早苗と会話できたからか表情は柔らかい。しかし、綾人の方を向くと鋭く追及してきた。

 「玲ちゃんのこと覚えてないって本当?」

 「玲ちゃん?」

 「玲子お姉ちゃんのこと」

 「覚えてるの?」

 「当たり前でしょ。なんで忘れるの?」

 夏乃は断言するだけでなく綾人を叱責してくる。不可解な状況に綾人の頭はもはや何も考えられなくなった。

 「どんな人だっけ?思い出せそうで思い出せないんだけど」

 言葉に少しの嘘を含ませて夏乃からヒントを得ようとする。しかし、夏乃は鞄を肩にかけて玄関に進んだ。

 「夏乃?」

 「明日、玲ちゃんが来るんでしょ?」

 「そうみたいだな」

 「玲ちゃんの前でそんなこと言わないでよ?あんまりだよ」

 夏乃は綾人を一睨みして靴を履く。どうやら玲子のために怒っているらしい。申し訳なく感じる綾人だが、怒られるだけでは何の解決にもならない。

 「そうだよな。でも、どんな人だったか教えてくれたら思い出すような気がするんだけど」

 「ごめん、もう時間ないから」

 再三にわたって情報提供を求めるも夏乃は玄関から飛び出ていってしまう。綾人は閉じるドアを見つめるしかなく、僅かな時間その場で立ち尽くした。ただ、自分も遅刻しそうだと気付いた綾人は、一時的に問題を頭の片隅に追いやって気分を落ち着かせることにした。

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